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2017年8月20日 (日)

弁天坂(箪笥町)

都営大江戸線牛込神楽坂駅の真上にあるのが南蔵院龍福寺、境内には現在牛込聖天(大聖歓喜天)があるが、弁天坂の名前の由来になる弁財天は今はない。戦災で焼けてしまった後は再建されていない。 ものの本によると門前の大久保通りを弁天坂としているものがあり、さらに都の設置した弁天坂の金属製の説明板が大久保通りに立っていて紛らわしいが、石垣の上の側道が本来の弁天坂である。

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都の設置した説明板には次のように彫られている。「坂名は、坂下の南蔵院境内に弁天堂があったことに由来する。明治後期の『新撰東京名所図会』には、南蔵院門前に甘酒やおでんを売る屋台が立ち、人通りも多い様子が描かれている。 坂上近くの横寺町47番地には、尾崎紅葉が明治24年から36年10月病没するまで住んでいた。門弟泉鏡花、小栗風葉らが玄関番として住み、のちに弟子たちは庭続きの箪笥町に家を借り、これを詩星堂または紅葉塾と称した。」 都の説明板もよく読むと上の道路が弁天坂だとわかるが、何も大久保通りに立てなくてもとは思う。

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坂上から望むと、道は大久保通りにぶつかって右に折れるが、その手前で袖摺坂の階段が分かれる。 江戸時代の切絵図では坂下は階段になっているので、弁天坂と袖摺坂は一体であったのかもしれない。 ただ明治の地図ではすでに弁天坂と大久保通りは分かれていて、その西には牛込区役所があった。現在の牛込箪笥区民ホールの場所である。1947年(昭和22年)に牛込区は淀橋区、四谷区と合わせて新宿区になった。

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コメント

弁天坂のこと

この坂につきまして、郷土勉強会でも議論があり道路行政にも携わったメンバーが標高と傾斜を明治16年の陸軍作成五千分の一地図から計算したほか、資料を集め検討した結果、弁天坂は、大久保通りの南蔵院前で正しいことがわかりました。あなた様のお示しの道は、地元では戦前にゴミ坂とも言ったそうですが明治時代の資料より、あの道は傾斜がなかったことがわかりました。すくなくとも明治16年には、現在の大久保通りの坂の傾斜が始まる場所と、袖摺坂上の標高は同じだったのです。詳しくは、友人がまとめたものがございますが、発表の有無がわかりかねますのでここに書くことはできません。現在の掲示板にまちがいはないと考えております。地元でもあり気になりましたので書かせていただきました。不調法お許しくださいませ。

投稿: 谷口典子 | 2019年9月 4日 (水) 16時29分

谷口様

素晴らしい情報をありがとうございます。私も弁天坂と袖摺坂の位置関係が腑に落ちず、いくつかの文献を調べた記憶がございます。都電が通るときに何らかの変化があったのだろうかとか、なぜ明治初期の地図から南蔵院前には2本の道が沿っているのかというような疑問がクリアになりませんでした。

弁天坂と呼ばれていた道は長い坂だったのですね。昔の南蔵院はもっと東西に広い境内を持っていたことから考えると、ご指摘の通りでしょうね。ご教授ありがとうございました。大変勉強になりました。

投稿: ぼのぼのぶろぐ管理人 | 2019年9月 4日 (水) 18時55分

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