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2017年9月30日 (土)

建部坂(本郷)

富士見坂の西側の通りが建部坂。 元町公園の東側の坂道で、そのまま北上すると壱岐坂上、真砂坂上を経て、菊坂近くの炭団坂にたどり着く。  この道も江戸時代の道そのままの道筋をたどっている。坂の別名を初音坂という。

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坂の途中に説明板がある。

「『新撰東京名所図会』に「富士見坂の北(注:西)にある坂を建部坂といふ。幕士建部氏の邸地あり因って此の名に呼びなせり」とある。 嘉永3年(1850)の『江戸切絵図』で近江屋版を見ると、建部坂の上り口西側一帯(現在の元町公園)に建部氏の屋敷が見える。直参(じきさん:江戸幕府の旗本,御家人 の総称で、将軍に直属して1万石以下の知行地もしくは蔵米を受けた家柄をいう)、1400石で、880坪(約2,900㎡)であった。

『御府内備考』に次のような記事がある。建部六右衛門様御屋敷は、河岸通りまであり、河岸の方は崖になっている。崖上は庭で土地が高く、見晴らしがよい。崖一体に藪が茂り、年々ウグイスの初音早く、年によっては12月の内でも鳴くので、自然と初音の森と言われるようになった。 明和9年(1772)丸山菊坂より出火の節、藪が焼けてしまったが、今でも初音の森と言っている。初音の森の近くで、一名初音坂とも言われた。」

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この道筋北詰めの炭団坂の別名も初音坂でそちらはホトトギスの初音。 こちらはウグイスの初音が伝えられ、この辺りが江戸時代には自然豊かな武家屋敷だったことを想起させる。

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富士見坂(本郷)

富士見坂という名の坂は各地にある。 大半は西向きの坂だが、ここは珍しい南向きの坂。 実際に東京から見る富士山の方向は真西ではなく、西南西である。 したがって南向きの坂で西側が開けて居れば富士山の眺望は無理がない。 昭和の終わり頃までは、接するお茶の水坂から富士を眺められたという。

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坂の説明板や標柱はない。 この道は現在は路地だが、古い道で江戸時代の明暦の大火の火元と伝えられる菊坂の本妙寺門前からまっすぐに南下するとこの坂に至る。 『新撰東京名所図会』には、「富士見坂、油坂の北にありて東に上るを富士見坂といふ。富士山の眺望に適す。」と書かれている。 昔は方角もアバウトだったようだ。

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坂上は本郷給水所公苑の西側の通りになる。 坂の東側のガラス張りの建物は順天堂大学の学術メディアセンター。  大学専用のメディア図書館だが、最近の都心の学校はオフィスビルと見分けがつかなくなってきた。

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2017年9月29日 (金)

油坂(揚場坂)

順天堂大学の渡り廊下の下をくぐる坂が油坂である。 短い坂だが坂下標高は17m、坂上が21mでそこそこの勾配があるはずなのだが、見た感じは急さがない。 訪問時はちょうど校舎の工事をしていたのでその関係もあるのだろうか。

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坂の途中に説明板がある。

「この坂は、油坂または揚場坂と呼ばれている。坂上の左側は本郷給水所公苑である。『油坂、元町1丁目と東竹町辺の間を南に下る坂あり、油坂と呼ぶ』(新撰東京名所図会)とあるが、その名の起りは不明である。
この坂は別名『揚場坂』といわれているが、その意味は神田川の堀端に舟をつけて、荷物の揚げおろしをするため、町内地主方がお上に願って場所を借りた荷あげ場であった。この荷揚場に通ずる坂道を揚場坂道を呼んだのがのちに『揚場坂』と言われるようになった。」

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坂上を進むと、本郷給水所公苑があり、敷地内に東京都水道歴史館がある。 無料だが、とても興味深い展示が沢山ある。  明治25年(1892)に水道局が給水所を建設、配水池の上に人工地盤を設けて公園が出来たのは昭和49年(1974)である。 バラ園が有名。

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無縁坂(文京区湯島/台東区池之端)

さだまさしの曲に「無縁坂」というのがある。 「母がまだ若いころ 僕の手を引いて この坂をのぼるたび いつもため息をついた」という歌詞で始まる。 歌詞はそのあと、「忍ぶ不忍 無縁坂」とあり、もちろんこの無縁坂がテーマになっている。 坂の下は不忍池。 旧岩崎邸庭園の煉瓦塀と石垣、向かいのマンションは煉瓦塀に似た色合いで、時代感を醸し出す坂道である。

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岩崎弥太郎の屋敷だけあって、三菱一号館と同じような煉瓦。 目地の色が何度も塗りなおした感がある。 また、坂下の突き当りは不忍池西の交差点で、北側は上野の名店東天紅。 この辺りは文京区と台東区の区境が複雑に入り組んでいて、東天紅と岩崎邸は台東区だが、無縁坂北側のマンションは文京区。  岩崎邸の裏にある切通公園は文京区。 とにかく区境が入り組んでいる。

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坂の途中に昭和55年(1980)製の説明板がある。

「『御府内備考』に、称仰院前通りより本郷筋へ往来の坂にて、往古坂上に無縁寺有之候に付右様相唱候旨申伝・・・・・」とある。団子坂(汐見坂とも)に住んだ、森鴎外の作品『雁』の主人公岡田青年の散歩道ということで、多くの人びとに親しまれる坂となった。その『雁』に次のような一節がある。
「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れに不忍の池の北側を廻って、上のの山をぶらつく。・・・・』
坂の南側は、江戸時代四天王の一人康政を祖とする榊原式部大輔の中屋敷であった。坂を降ると不忍の池である。」

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さだまさしの歌とは違い、江戸時代は周辺は大名屋敷と寺院だった。坂上は東大の敷地で赤門の大名屋敷、加賀百万石前田家の裏手にあたる。 山野氏によると、武家が多いエリアだったので、武辺坂、あるいは武縁坂と呼ばれたという説もあるが、山野氏はやはり坂上の講安寺のあたりにあったという無縁山法界寺に由来する説を中心においている。 湯島の坂の中では静かで江戸情緒を残している名坂である。

(以下追記: 2019/1/2)

坂下の不忍池は本郷台地と上野台地の間にあった入江が、海岸線の後退によって池として残された地形である。不忍池には藍染川が流れ込んでいたので、池として残った。

無縁坂は江戸時代からある道筋で、岩崎邸側は越後高田藩15万石の榊原家下屋敷18,251坪、東大キャンパス一帯は加賀藩前田家の百万石10万坪の上屋敷だった。 無縁坂の坂下は寺町だったので、当時は暗い道だっただろう。

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2017年9月28日 (木)

切通坂(湯島)

湯島天神の北側は春日通りの切通坂。 かつてはここを都電16系統が走っていた。 16系統は大塚から錦糸町の間、現在の茗荷谷~春日~上野広小路~錦糸堀を走った。 当時の停車場の名前を見ると昔の東京の地名が満載。 現代の地下鉄をはるかに凌駕する交通網で東京を縦横無尽に走っていた。 そんな都電もこの坂はいささかきつかっただろうと思う。 昭和になってからはモーターの出力も上がったが、大正以前は歩くような速度だったかもしれない。

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この坂下には天神下の停車場があった。 現在の地下鉄湯島駅の場所である。 湯島天神の夫婦坂下に説明板がある。

「『御府内備考』には「切通は天神社と根生院との間の坂なり、是後年往来を開きし所なればいふなるべし。 本郷三、四丁目の間より池之端、仲町へ達する便道なり、」とある。 湯島の台地から、御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名がある。

初めは急な石ころ道であったが、明治37年(1904)上野広小路と本郷三丁目間に、電車が開通して緩やかになった。

映画の主題歌「湯島の白梅」〝青い瓦斯灯境内を、出れば本郷切通し″で、坂の名は全国的に知られるようになった。

また、かつて本郷三丁目交差点近くの「喜之床」(本郷2-38-9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り、通った坂である。」

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2017年9月27日 (水)

天神新坂(夫婦坂)

湯島天神には3つ目の坂がある。 天神裏手の春日通りの切通坂に下る夫婦坂(新坂)だ。 坂の説明はない。 文献の一部にその情報があるだけである。 本殿の北側の崖上にあたるところに戸隠神社がある。そのわきにある階段が夫婦坂である。

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この階段途中の門は登竜門と呼ばれ、彩のある装飾が見事。 男坂よりも緩やかだが、女坂よりも急なので、夫婦坂と呼ばれるようになった。

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戸隠神社の脇に笹塚稲荷が並んでいる。 戸隠神社は小さな社だが、菅原道真を祀り始める前から、ここに祭られていたのはこの戸隠神社の祭神である、天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)だ。  それは何の神様かというと、天照大神が天岩戸に籠って、ようやく顔を覗かせたときに、天照大神を引っ張り出して岩戸を開いたのが天之手力雄命である。

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2017年9月26日 (火)

天神女坂(湯島)

天神男坂(石坂)に対して天神女坂。 一般的に台地のヘリにある神社には男坂、女坂の二つの坂がつけてあり、男坂は女坂よりも急になっているのが常である。 湯島天神も例にもれず、かなり迂回して緩やかな石段になっている。

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坂下のヒサカキの樹の足元に北島三郎書の「おんな坂」の石碑があった。 よく見ると原田悠里「おんな坂」歌唱記念と書かれている。 なるほどおんな坂という歌があるのか。 坂下は妾の住んだという街、演歌の雰囲気がある天神下のたたずまいである。

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男坂が台地のキワを直線的に上り下りするのにたいして、女坂はそっと脇を抜ける感じで、その辺は日本人の感覚にはしっくりくるのだが、昨今は女性が強くなったというより立場が逆転し始めているので、未来には男坂と女坂が逆になるときも来るのかもしれない。

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2017年9月25日 (月)

天神男坂(天神石坂:文京区湯島)

湯島天神の東側、天神下方面からアプローチするのが天神石坂(天神男坂)とその脇の女坂。 男坂はさすがに急で下から見上げると圧迫感がある。 しかしながらこの崖線の一番南にある神田明神男坂が68段、間にある実盛坂58段、等に比べると38段は大したことがないと感じるかもしれない。 神田明神の標高が20m(実盛坂上も同じ)だが、湯島天神の標高は17mなのでその差である。

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坂下の説明板にはこう書かれている。

「38段の石段坂である。別名は天神男坂。すぐわきにあるゆるやかな坂、女坂に対して男坂という。  江戸時代の書物〝御府内備考″によると、湯島神社(天神)参拝のための坂であったが、その後本郷から上野広小路に抜ける通り道になったという。」

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昔はビルもなかったのでここから墨田川が眺められたという。 坂下は「天神下の隠れ家」と言われ、妾宅などが多かったという話もある。 そういう雰囲気は今も残っている。  神田明神も同様だが、台地の上からのルートがメインで、台地の下から階段を上って参詣する比率は極めて低い。 現代でもそれは同じである。 そういう街の雰囲気が湯島なのかもしれない。

広重の名画『湯しま天神坂上眺望』は江戸時代の美しい雪景色を描いている。

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2017年9月24日 (日)

中坂(湯島)

湯島天神は当然ながら学問の神様菅原道真を祀っているわけだが、それ以前起源458年から、天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社があったという。 菅公を祀るようになってから太田道灌、徳川家の保護を受けながら発展していった。 そんな湯島天神の銅鳥居(表鳥居)の前から下るのが中坂である。

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この銅鳥居は寛文7年(1667)の寄進で、都内でも最も古い部類に入る。 年末や年明けに立ち寄るとこの神社は数え切れないほどの受験生で埋まっていることがある。 ゆっくり参詣したければ、学生の逆のタイミングで参詣する必要がありそうだ。

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銅鳥居から30mほど南に行ったところが湯島中坂上の交差点。 そこから湯島駅の方に下るのが中坂である。 上の写真は受験生がまだ余裕ある夏前に訪れたときの中坂の様子。 湯島にはラブホテルがいくつもあり、この通り沿いにもちゃんとある。 この道が年末年始になると下のようになる。

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怪しい街なのか、学問の街なのか、よくわからない。 ただ湯島は門前町であると同時に、里俗には天神芸妓と呼ばれて、いわゆる花街でもあった。 昔から神仏と俗とは常に表裏一体だということ。 中坂沿いに参詣者は並ぶ並ぶ、どこまでも並ぶ受験生たち。 ただ並んでいる間に本を読んでいる学生は少ない。 もっとも並んでいるうちの半分以上は親としか思えない年齢の男女だから、本人は自宅で勉強しているのだろうか。 しかし自分で参詣しないとご利益もなさそうな気がするが。

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結局坂下の駅まで列は続いていた。  ちなみに中坂の由来は、嬬恋坂と天神男坂の間にあるからという説がある。 マンション建設で数年前撤去されてしまった説明板には、次のように書かれていた。

「『御府内備考』に「中坂は妻恋坂と天神石坂との間なれば呼名とすといふ」とある。 江戸時代には、二つの坂の中間に新しい坂ができると中坂と名づけた。したがって中坂は二つの坂より後にできた新しい坂ということになる。また『新撰東京名所図会』には「中坂は、天神町1丁目4番地と54番地の間にあり、下谷区へ下る急坂なり。中腹に車止めあり」とあり、車の通行が禁止され歩行者専用であった。このあたりは、江戸時代から、湯島天神(神社)の門前町として発達した盛り場で、かつては置屋、待合などが多かった。」

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実盛坂(湯島)

実盛坂は初めて訪れた折、強い印象を受けた。 寺社仏閣が台地のキワに立地して、平地から階段を上って参詣するパターンは多い。 湯島エリアにおいても、神田明神、湯島天神ともにそういう造りになっている。 しかし実盛坂は他の坂と平行にあるのにここだけが明神、天神と同じような急階段になっているのだ。 ガイ坂側からアプローチしても、三組丁筋からアプローチしても、その高低差には驚く。

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ガイ坂下から西側の細路地を除くと、路地奥に階段が見える。 近づくにつれて、この階段が目前に迫ってくると、湯島が本郷台地のキワであることを強く実感できるのである。

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階段上に文京区が立てた説明板がある。

「『江戸志』によれば、「…湯島より池之端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり…」とある。 また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が『江戸砂子』や『改撰江戸志』にのっている。 この実盛のいわれから、坂の名がついた。

実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現・埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。 寿永2年(1183)源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光森に討たれた。 斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首を取られても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。 この話は『平家物語』や『源平盛衰記』に詳しく記されている。

湯島の〝実盛塚″や〝首洗いの井戸″の伝説は、実盛の心意気に打たれた土地の人々が、実盛を忍び、伝承として伝えていったものと思われる。」

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文京区の説明板は詳しく丁寧に書かれており、読んで興味深い。 東京23区の中でも文京区のものは秀逸である。 この実盛坂、別名を貝坂という。 その由来は別説からくるもので、実盛塚はもともと古墳、あるいは貝塚であったという説である。 台地のキワには、兵どもが闊歩した以前、縄文弥生の時代から人間が棲み付き、そこに営みがあったという点ではこの貝塚説も十分可能性がある。

ただ江戸は徳川がとてつもない土木工事を経て百万都市を構築したので、それ以前の歴史が語られることは皆無に近い。 坂の散歩では江戸以前にまで遡って街を見るという、考古趣味も入っていて、江戸幕府以前をも振り返ることがある。 それがまた面白いのである。

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2017年9月23日 (土)

芥坂(ガイサカ) (湯島)

三組坂の坂下近くから北に向かって下る坂がある。 実は三組坂よりもずっと古い坂で、江戸切絵図には「ガイサカ」と書かれている。 江戸時代の地図ではこのガイ坂までは三組坂に沿った道があった可能性を示しているが、明治初期の測量図では現在の三組坂の崖には道がない。 ガイ坂は立爪坂の一本東側の道筋と繋がっているから、切絵図とは全く異なる。 この辺は地図に悩まされるところである。

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坂の説明板などはないので、明確なことはわからない。 ただゴミに関係する坂の多くはその実態がよくわからないことが多い。 概ね崖の下はゴミ捨て場になっているのが江戸の常だが、それでも町内がきちんと管理することを幕府が監督していた。 そのゴミが江戸湊を埋立て街を広げることにも一役買っていたのである。

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湯島は本郷台地の東側の一角で、それが複雑な坂を織り込んでいる。 歩いていて様々な発見があるエリアである。

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三組坂(湯島)

三組坂は昭和になってからできた坂である。 江戸時代から湯島天神南側の三組丁はよく知られていて、その為に江戸時代の坂のように勘違いしてしまいがちだが、江戸切絵図にはこの坂はない。ここの崖が急すぎて道が開けなかったのである。 その様子は実盛坂を見ればよくわかるが、三組坂は急な崖を整地して緩やかな斜面にして通した坂なのである。ただ、この崖を往来する階段が二本はあったことが明治期の地図には描かれている。

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ホテル江戸屋の石垣の前に説明板が設置されている。 「元和2年(1616)徳川家康が駿府で亡くなり、家康お附きの中間(ちゅうげん)・小人・駕籠方「三組の者」に、当時駿河町といわれていたこの地一帯を与えた。 その後、元禄9年(1696)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして町名を「三組町」と改めた。 この町内の坂であることから「三組坂」と名づけられた。 元禄以来、呼びなれた三組町は、昭和40年(1965)4月以降今の湯島3丁目となった。」

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江戸切絵図を見ると、三組坂~芥(ガイ)坂~実盛坂のあたりに南から、御駕篭者屋敷、御小人屋敷、御中間屋敷が並んでいる。 御駕篭者とは帯刀を許された将軍付の駕篭担ぎ。 御小人とは江戸城中の玄関などの警備、物品の運搬を職務とした者。 御中間とは、大奥や台所の警備や将軍お出かけの際のお供をした。 今でいう霞が関の機動隊のようなものだろうか。

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立爪坂(湯島)

嬬恋坂の坂の途中、北側に突然階段が現れる。 坂下に7段の階段、坂上には12段の階段があって、間にある家は車での出入りが不可能な、最近では珍しい立地。 江戸切絵図では妻恋稲荷の裏手を周るように道がついていて、「立爪サカ」と描かれている。

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階段の石は以前に来た時よりもきれいになっていた。 そんなに人通りがある道ではないが、以前の階段はコンクリートでひび割れもしていたから、新しくブロックで新設したのだろう。 コンクリートは階段のように水が流れやすい場所ではすぐに傷んでしまう。 近代文明の発明品だが耐久性は極めて弱いのがコンクリートである。

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立爪坂は別名芥坂(ごみざか)ともいう。 こういう場所は江戸時代にはゴミ捨て場になっていたと言われる。 また名前の由来は階段になるほど急なので、爪を立てて上るくらい険しい坂だったということだろう。 古い資料には立爪坂を、「坂の脇の崖下を芥(ゴミ)捨場にした時分には、辺りの人々は俗に芥坂と呼ぶようになったが、このゴミ捨て場の管理は町内の負担であった」という事が書かれている。 こんな路地が江戸時代から綿々と続いていることに嬉しさを感じる。

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妻恋坂(文京区湯島/千代田区外神田)

現在は裏道だが、古い道である。 清水坂の途中から東に向かって下る。 ラブホテルの並びに妻恋神社がある。 2015年に設置された新たな神社の説明板がある。 それによると、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征でこの地を訪れた折、倉稲魂神<ウカノミタマ>(稲荷神)を祀ったのが起源。 江戸時代になって、妻恋稲荷大明神と呼ばれるようになり、多くの参詣者を集めた。 江戸の稲荷社の番付では行事筆頭として、ここから多くの稲荷が分祀された。

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神社の辺りから徐々に下り坂が始まる。 再訪した折に新しい坂の説明板が出来ていた。 真新しい説明板は2016年のもの。

「大超坂・大潮坂・大長坂・大帳坂と別名を多く持つ坂である。 『新東京名所図会』に、「妻恋坂は妻恋神社の前なる坂なり。大超坂とも云ふ。本所霊山寺開基の地にて、開山大超和尚道徳高かりしを以て一にかく唱うといふ」とある。 この坂が妻恋坂と呼ばれるようになったのは、坂の南側にあった霊山寺が明暦の大火(1657)後浅草に移り、坂の北側に妻恋神社(妻恋稲荷)が旧湯島天神一丁目あたりから移ってきてからであろう。」

と書かれている。

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江戸時代の切絵図を見ると、妻恋稲荷の前の道は「ツマコイザカ」と書かれている。 妻恋神社の西で道は北に折れ(これが今の清水坂の一部)、湯島天神に向かう三組丁の通りになる。 妻恋稲荷より北は湯島天神の門前町になる。

(追記:2019/1/3)

妻恋神社の創建に関して、『日本書紀』の日本武尊の東征の話に出てくるストーリーがある。

東国で反乱がおこり、日本武尊が平定に向かった。途中船で相模から上総に向かっていると嵐が起こり、船が沈みそうになった。日本武尊に同伴していた妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)が海に身を投じると、たちまち嵐はおさまり、船は陸に着くことができた。日本武尊は犠牲になった妻を偲んで、「吾嬬はや(ああ我が妻よ)」と嘆いた。

この神話がもとで妻恋神社には、日本武尊、弟橘媛、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)の三柱が祀られている。

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2017年9月22日 (金)

新妻恋坂(湯島)

妻恋坂に対応して新しい坂道ということで新嬬恋坂である。開かれたのは昭和に入ってからで、記録によると昭和4年(1929)の開通。通称通り名は蔵前坂通り。 緩やかに上る幅の広い大通りなので、坂の魅力は皆無である。

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一本北側の路地が江戸時代から続く妻恋坂。そちらには色々な史実があるが、こちらは皆無。 おそらく昭和になって、有名な妻恋坂から派生して新妻恋坂と名づけたが、平成の現在に至ってはこの坂名はほぼ忘れられているのだろう。

坂の歴史ではないが、江戸時代の前期、清水坂の話で登場した霊山寺がこの道の辺りにあった。大超和尚が開山し、元は徳川家康の命で駿河台のニコライ聖堂辺りに開かれた寺で、その後徳川家光の時に湯島に替地を命ぜられ、ここに2万坪の敷地を与えられた。2万坪といってもピンとこないが、一般的に東京ドーム1個分というのが15,000坪にあたるので、その広さは相当なものだった。 しかし明暦の大火(1657)で寺は焼失し、浅草へ移ってしまった。

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ただ、地形をじっくり見てみると、江戸時代以前には妻恋神社の西、清水坂の辺りを源頭にした沢が末広町に向かって流れていたと思われる。古い時代を想像すると、この新妻恋坂は水田が広がり、細い小川が流れているそんな景色が思い浮かぶ。

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清水坂(湯島)

樹木谷坂と横見坂のひとつ東側の道、蔵前橋通りの清水坂下交差点から北に上るのが清水坂である。 短いもののなかなかの勾配があって上るのには息が切れる。 江戸時代にはなかった道筋だ。 江戸期の切絵図を見ると、この坂の辺りは旗本島田弾正の屋敷になっている。 島田家は町奉行の家柄、三河から江戸に来て徳川秀忠に仕え、八丁堀に住んでいたが、明暦の大火の後、ここ湯島に越してきた。

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坂の途中に説明板がある。 「江戸時代、このあたりに、名僧で名高い大超和尚の開いた霊山寺(りょうせんじ)があった。 明暦3年(1657)江戸の町の大半を焼き尽くす大火が起こり、この名刹も焼失し、浅草へ移転した。 この霊山寺の敷地は、嬬恋坂から神田明神にかかる広大なものであった。 嘉永6年(1853)の『江戸切絵図』を見ると、その敷地のうち、西の一角に島田弾正という旗本の屋敷がある。 明治時代になって、その敷地は清水精機会社の所有となった。 大正時代に入って、湯島天満宮とお茶の水の間の往き来が不便であった為、清水精機会社が一部土地を町に提供し、坂道を整備した。 そこで町の人たちが、清水家の徳を讃えて、「清水坂」と名づけ、坂下に清水坂の石柱を立てた。」 と書かれている。

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坂下の石柱は東側の歩道にある。  坂の上と下の標高差は10mだが100mもない坂なので、勾配は10%程度ある。  坂の上をそのまま進むと、三組坂の坂上になる。 別説で坂の下に清水が湧いていたので清水坂というのもあるが、歴史が新しいだけに清水精機会社の説が信憑性が高い。

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2017年9月21日 (木)

横見坂(横根坂)

樹木谷坂を下り、おりがみ会館の交差点を渡ると、再び上り坂になる。 これが横見坂(横根坂)である。 おりがみ会館は元々「ゆしまの小林」という染め紙屋で、創業は安政5年(1859)の染紙、千代紙の老舗。 伝統技術の和紙染めは文京区の文化遺産に指定されている。

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坂は比較的短い坂。 坂の途中に説明板が立てられている。 「(前略)坂下の蔵前通りの新妻恋坂の一帯は、かつて樹木谷といわれ、樹木が茂っていた。 この谷から湯島台に上るこの坂の左手に富士山が眺められた。 町の古老は、西横に富士山がよく見えて、この坂を上るとき、富士を横見するところから、誰いうとなく横見坂と名付けられたといっている。 坂の西側一帯は、旧湯島新花町である。 ここに明治30年頃、島崎藤村が住み、ここがその作品『春』の中に、「湯島の家は俗に大根畠と称えるところに在った。…大根畠は麹の香りのする町で」 とある。ローム層の台地は、麹室には最適で、『文政書上』には、百数十軒の糀屋が数えられている。」

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別名を横根坂というが、単純な転化のようだ。 坂上には霊雲寺がある。 立派な門構えの寺で江戸時代から続いている。 寺は徳川五代将軍綱吉が建てたもの。 当時は本堂のほかにも堂塔や学寮の並ぶ大きな寺だったが、関東大震災で焼け、再建したが今度は戦災で再び焼失してしまい、開山堂だけが残った。

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2017年9月20日 (水)

傘谷坂(湯島)

傘谷坂は湯島の西、本郷に近いエリアを南北に走る薬研状の坂道である。 確かに傘を裏返しにして対角線の骨に例えるとまさに似た形になるのだが、それが由来ではない。 江戸時代にこの街には傘職人が沢山住んでいて、ここが傘製造街だったことが由来だという。 ただ横関英一氏の見立てではこの坂の形が傘谷の名前になった可能性を捨てていない。

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今は当然傘屋街ではない。 江戸時代末期には傘職人はいなくなっていた。 また江戸期にこの通りは金助丁と言った。 旗本牧野金助の屋敷地だったが、大半をお上に召上げられ御家人の組屋敷になった。 幕府の財政悪化が進むと貧乏な御家人は内職で傘を作って売ることが多かったという。

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坂の南側にサッカーミュージアムがある。 かさを反対から呼んでサッカー?という訳ではなかろうが、そのうちサッカー谷と呼ばれる時代も来るかもしれない。

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2017年9月19日 (火)

樹木谷坂(湯島)

湯島聖堂から本郷通りを西に進み、ホテル東京ガーデンパレス手前を右折すると、蔵前橋通りまでの短い下り坂。 距離はわずかだが、樹木谷坂の名の付いた坂道である。 散歩していても見逃してしまいそうな脇道だが、短い坂の途中に説明板がある。

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説明板には、「地獄谷坂とも呼ばれている。この坂は東京医科歯科大学の北側の裏門から本郷通りを越えて、湯島1丁目7番の東横の道を北へ新妻恋坂まで下る坂である。そして、新妻恋坂をはさんで横見坂に対している。
 『御府内備考』には、「樹木谷3丁目の横小路をいふ」とある。(中略) 徳川家康が江戸入府した当時は、この坂下一帯の谷は樹木が繁茂していた。その樹木谷に通ずる坂ということで、樹木谷坂の名が生まれた。地獄谷坂と呼ばれたのは、その音の訛りである。
 なお湯島1丁目の地に、明治14年(1881)渡辺辰五郎氏(千葉県長南町出身)が 近代的女子技術教育の理想をめざし、和洋裁縫伝習所を創立した。その後伝習所は現東京家政大学へ発展した。」と書かれている。

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江戸時代の初期、坂上のこの辺りは桜の馬場と呼ばれた草原だった。 湯島聖堂ができるい以前の話である。今の東京医科歯科大学の辺りである。 現在はビルの谷間の路地の風景。坂下西側にはおりがみ会館がある。 最近孫娘が折り紙に凝っていて、次にこの辺りを歩くときは立ち寄ってきれいな折り紙を入手しようと思っている。

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湯島坂(湯島)

中山道は日本橋を起点にまず北上し、神田を通って昌平橋で神田川を渡る。 橋を渡ってから左折し、神田明神を右に、湯島聖堂を左に見て坂を上って本郷へと向かう。 この坂が湯島坂である。 江戸時代の湯島坂は神田明神の手前で明神の参道の脇の道へ入り、現在の御茶ノ水インホテル裏から再び湯島聖堂前に戻って現在の17号線本郷通りになる。

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写真は神田川にかかる昌平橋。 最初の橋は寛永年間(1624~1644)に架けられた。現在の煉瓦橋は昭和3年(1928)のものである。 橋を渡ったところで川沿いに上るのが相生坂(昌平坂)、その一つ先で左折するのが中山道の筋。 曲がると間もなく上り坂に。 湯島坂である。

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現在は大通りだが、江戸時代は幅も狭く、かなりの急坂だったという。 また以前は柳並木だったという話も聞く。 今は銀杏並木である。 この周辺の文京区と千代田区の区境はとても複雑で、明神の氏子領域の絡みなどいろんな可能性がありそうだが、少なくとも神田明神前で区境がむかしの中山道の路地になっているのは、中山道の名残りと言えそうだ。明治の後半に路面電車を通しているが、神田明神まで張り出していた東京師範学校の敷地を削って、まっすぐな電車道にしたのではないかと推測している。

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江戸時代の湯島聖堂はもっと広くて、今の東京医科歯科大学までが聖堂内だった。その後聖堂の西半分は東京師範学校になり、昭和に入ってから医学校に変わった。 湯島坂の別名は本郷坂、明神坂。 明神と湯島聖堂に挟まれて本郷に向かうのだからどれも間違いではない。

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2017年9月18日 (月)

昌平坂(文京区湯島)

湯島聖堂の脇、秋葉原側の路地が昌平坂。 ただ、相生坂で書いたように、どれが昌平坂かという点では若干の混乱がある。 地形的には湯島聖堂の敷地は本郷台地の東の崖線に沿っており、伊達政宗が掘削した神田川放水路の最下流左岸。 聖堂の東端は7mと低く西端は18mと高い。 敷地内で11mの標高差がある。
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聖堂の東側の昌平坂の高低差は8mほど。こちら側にも築地塀が続いていて石垣もいい景色になっている。坂上近くに説明板が立っている。

 

「湯島聖堂と、東京医科歯科大学のある一帯は、聖堂を中心とした 江戸時代の儒学の本山ともいうべき「昌平坂学問所(昌平黌)」の敷地であった。そこで学問所周辺の三つの坂を、ひとしく「昌平坂」と呼んだ。この坂もその一つで、昌平黌を今に伝える坂の名である。(後略)」
と書かれている。 こちらの昌平坂は別名を団子坂という。
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坂の南端には『古跡昌平坂』という石柱が立っている。 いっぽう北端角には石柱の根元はあるが地面15㎝ほどの所で折れて逸失してしまっている。 折れたのはいつかわからない。 15年前には折れていた。 さらに不思議なことだが、15年前の折れた石柱と今の折れた石柱の場所が違うのである。 向きも違っている。 折れたまま掘り起こして再び埋め戻したようだ。
坂上の大通りは国道17号線本郷通りの湯島坂。  かつての中山道である。
 

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2017年9月17日 (日)

相生坂(昌平坂) (文京区湯島)

御茶ノ水駅の聖橋口を出るとすぐに聖橋が神田川を跨いでいる。 そのまま線路沿いを神田に向かって下る坂と川向こうの湯島聖堂と神田川の間を下る坂を合わせて相生坂と呼ぶ。 江戸っ子は坂が平行に並んでいる場合や、U字型に向こうの坂とこっちの坂で対峙する場合にこの相生坂という名前を付けることが多い。 この坂は別名を持っていて、どちらかというと昌平坂という名の方が通っている。または団子坂と呼ぶ場合もある。

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聖橋から見下ろす相生坂の下には地下鉄丸ノ内線が地下に潜り込むトンネルの入口がある。その下の神田川は徳川家康の命により伊達政宗が台地を切通して流した旧江戸川(神田川)で、縦に複雑に絡んだ歴史が面白い。
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相生坂真上から見下ろすと、湯島聖堂の築地塀(ついじべい)が見事。 どの角度から見ても破たんしない秀逸なデザインで恐れ入る。 築地塀は増上寺や赤坂の報土寺で見られるが、ここの物が一番美しいと思う。
この築地塀は江戸時代の画家もお気に入りだったようで、安藤広重の『名所江戸百景』の中には夏と冬それぞれの昌平橋と昌平坂(国立国会図書館版)がある。 夏版は梅雨時期だろうか、湯島聖堂の築地塀がはっきりと描かれているし、冬版にもやや遠景になるがきちんと描かれている。 広重の絵を見るとこの坂は相当に急な坂だったように見える。
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湯島聖堂は孔子の儒学の振興を図るために徳川五代将軍綱吉が建てた昌平坂学問所である。 江戸時代の大学のようなもの。 関東大震災で倒壊し、今の孔子廟などはそれ以降の建築で、鉄筋コンクリート製である。
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坂下に相生坂の説明板がある。「相生坂(昌平坂)…神田川対岸の淡路坂と並ぶので相生坂という。『東京案内』に、「元禄以来聖堂のありたる地なり、南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。 昔はこれに並びてその西に一条の坂あり、これを昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂に此の坂を昌平坂と呼ぶに至れり」 とある。 そして後年、相生坂も昌平坂と呼ばれるようになった。 昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。」 と書かれている。
何だか紛らわしいが、相生坂と昌平坂の角に古跡昌平坂という石柱がある。 これもどっちの坂とも取れる位置に立てられているのが困りものである。

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2017年9月16日 (土)

バッケの坂(中井)

落合村中井の最後の坂はバッケの坂(坂上通り)。 この坂もまた新宿区の通称通り名にリストアぷされた坂道のひとつ。 坂下は妙正寺川。 そこから目白学園に沿って上る。 坂上でごりょう坂が出合う。

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坂の標柱には、「この地域の斜面は古くからバッケと呼ばれており、この坂は坂下のへの近道であったため、バッケの坂と呼ばれていた。 大学に向かう道路と思ったが、調べれ見ると明治期からあった道らしい。

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坂上にはごりょう坂通りの標柱があるが、バッケの坂の標柱は下にあるだけである。 バッケというのは崖のことで、武蔵野ではハケ、バッケなどと呼ぶことが多い。 ここでは坂下にある川沿いの運動公園が、昔はバッケが原という野原だったころから、バッケへの近道という意味でついた名前。

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ごりょう坂(中井)

中井御霊(ごりょう)神社の正面に接続するのが八の坂であるのに対して、神社の西側を上るのがごりょう坂。 御霊神社の裏だからごりょう坂という直結命名である。 ただ正面の道ではないところが面白い。

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坂は直線的に西から東へ上ると直角に曲がり北へ上る。 曲がったところが御霊神社のまさに裏手である。 この道が開通したのは、60年代か70年代の高度成長期の頃。 この辺りは東京オリンピックの時代にはまだ開発されていなかった。
Dscn4893角を曲がると再び直線の坂道。 右側の樹木がある部分が御霊神社。 坂上の向こうには目白学園の校舎が見える。 途中には御霊神社の裏階段があるが人ひとりがやっと通れるほどの狭い階段である。
Dscn4894「中井地区の鎮守である御霊神社に面している通りのため、通りにこの名称がついた」と新宿区のHPには記されている。 安産守護子育ての神様とされる。 この神社も台地の際にあることは例にもれず、しかしこの裏道はほんの数十年の歴史のみである。

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八の坂(中井)

番号坂の最後は八の坂。  江古田から南流してきた江古田川は哲学堂の上流で妙正寺川に合流し、妙正寺川は合流点から北東向きの流れを南向きに変える。 その流れが新井薬師のある上高田の台地に阻まれて東流に転ずるが、北側の台地の西端に御霊神社がある。

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八の坂の勾配は隣の七の坂とほぼ同じパターン。 坂上が御霊神社の鳥居脇になる。 しかしこちらは神社からすると裏道脇道で、開通したのも昭和になってからである。 坂上の御霊神社は静かで落ち着く神社である。

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落合村中井の鎮守だけに古い石塔などが本殿の裏手にあったりして、興味深い。 庚申塔には宝暦八年(1758)と刻まれていて、裏のごりょう坂に出る小さな階段がある。 本殿前の狛犬は正徳五年(1715)に下落合村の氏子によって奉納されたもの。 狛犬としては現存するものでは都内最古である。

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坂上からの景色。坂の舗装が一般的な〇窪みのすべり止めでなく、スリットになっているのは珍しい。 個人的には〇よりもこっちの方が好みである。

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七の坂(中井)

七の坂は、文字通り六の坂と八の坂の間で、この坂も東西に走る御霊神社の参道までの坂道である。  大正時代にはなく、この辺りはまだ崖線の林の中だった。 昭和になって、この落合崖線にそって家が建てられるようになり、参道へ接続するこの坂道と西隣の八の坂が開通した。

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七の坂は「しちのさか」ではなく「ななのさか」と読む。 坂下の東側の住宅のブロック塀に古びたブリキ板で「七の坂」と書かれている。 坂は途中の辻から急に勾配を上げる。 この辺りは妙正寺川が川の流れを湾曲させている部分で、川のカーブの内側に当たるため、四の坂辺りよりも傾斜の緩やかな崖線になっている。 おそらく手前の区画は宅地造成時に多少削ったのだろう。

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坂上から見下ろすと、坂下は接続道路の向こうが即西武新宿線。 積雪時にスリップするとそのまま線路に突っ込みそうである。 坂上はふたたびなだらかになり丁字路になる。

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坂上の民家にある白樫の樹に町会で作ったブリキ看板が巻いてある。 七の坂「上」とある。 これは昭和35年頃に町会が坂名を付けてから設置されたもので、この町会の坂に対する愛着が伝わってくる。

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六の坂(中井)

六の坂は明治以前からある道。  五の坂と同様だが、不動谷から前谷戸を経由して御霊神社へ向かう台地の上の道から妙正寺川の低地へと多くの人が上り下りしてきた。 明治初期の地図では、五の坂周辺が茶畑で、六の坂周辺は普通の畑と描かれている。 家は坂上の台地の道にしかない。

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坂下は東側角の家のガレージ脇にある、昔町内会で設置した手書きの坂名板があって、落書きにイジメられながらも健気に残っているのがうれしい。 緩やかに曲がりながら高度を上げていくいかにも昔からの道っぽいところがいい。

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坂上西側は中井御霊神社の参道の東端。 細い石塔が建つ。 御霊神社は「ごりょうじんじゃ」と読む。創建は不明で、古くから落合村中井の鎮守であった。 こういう村の神社は人の営みが始まった頃から続くものが多く、東京都内にも数多あるが、創建が不明なものが意外に多い。

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五の坂(中井)

五の坂は傾斜、景色、曲がり具合ともに特出したものがない坂ではあるが、大江戸線中井駅と坂上の目白大学を結ぶ最も短いルートの一つのため、学生(主に女子大生)が歩く坂になっている。 こういう坂は写真を撮りにくい。

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昔、町会で設置したブリキの看板が民家の壁にひっそりと残っている。 これが残っているのは、五の坂、六の坂、七の坂の3坂だけになってしまった。その中でも五の坂のこの残り方がもっとも心に残る。 この民家は「亜細亜電機製作所」と玄関に古びた表札風の木板があって、まさに戦後日本の生き残りという感じがするのだ。

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坂上の民家には大谷石の石垣と板塀、植木と土手というこれもまた素敵な景色がある。 坂道は道だけでなく、そこに立ち並ぶ建築物の景色がその魅力に加算される。 昭和ノスタルジアに惹かれやすいという私の世代的な志向もあるだろうが、こういう道はやはり歩いていて楽しいうえに落ち着くのである。

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2017年9月15日 (金)

四の坂(中井)

四の坂は坂上からアプローチする。 中井の数字階段シリーズの中では唯一の階段道。 北側から進むと「この先階段あり、車両通行できません」の看板がある。 道は少し下り始め、その先には頑丈な車止めが2本立っている。

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四の坂の階段は樹木に覆われて気持ちのいい日陰になっている。 坂の西側は新宿区立林芙美子記念館。  『放浪記』 『浮雲』などを書いた林芙美子が生前に住んでいた屋敷が保存されている。

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坂下から振り返ると、なかなかの角度の階段。 階段下にある標柱は林芙美子記念館の入口である。 屋敷の竹林が美しい。 四の坂を挟んだ東側は四の坂テラスという不思議な集合住宅。 なかなか洒落ていて個性的だと思ったら、11人の建築家によるプロポーザルコンペで木立の家をテーマに長谷川逸子氏が受賞して建設になった28戸のタウンハウス。

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昔の地図を見てみると、四の坂の歴史は意外と長い。 大正の初期にはこの辺りに坂が開かれている。 その坂下に林芙美子が居を構えていたわけだが、相当な急坂だったのだろう。 昔の景色を見てみたいものである。

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2017年9月14日 (木)

三の坂(中井)

三の坂は中井町の町会が発足後つけられた坂名である。 昭和35年頃か。周辺が開発されたのは関東大震災以降で、大正以前は崖線付近は針葉樹が植えられ、台地上は何もなかったようだ。

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以前は紺色の標柱はなかったが、例の如く新宿区の通称道路名決定を受けて紺色の標柱が新設された。 それ以前はというと、左のコンクリートが大谷石の石垣でその上の金網に地元の方が手書きした三の坂というブリキ板が張り付けてあった。
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坂上は明るい感じがする。 やはり坂上の台地の戸建ては小奇麗でそれなりのお金持ち感がある。 こういう坂の家はどの家もいい景色を眺められるから、憧れの対象でもあるだろう。

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2017年9月13日 (水)

二の坂(中井)

二の坂である。 とにかく順番に歩くのだが、歴史的な坂道ではなく、地元になじんだ坂ということで、新宿区が平成になってまとめた坂である。 ただし二の坂には蘭塔坂の別名があり、多少は歴史もありそうだ。「かつてこの坂の途中に墓地があり,蘭塔と呼ばれる卵形の塔婆があり,多くは禅僧の墓標として用いられた。」と標柱に書かれている。

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古い地図を見てみると、明治期にはすでに道があった。 明治末期には車道と呼べるほどの道になっていたようだ。 この地域が中井と呼ばれるようになったのは大正末期、ちょうど昭和に時代が変わる頃からである。 当時は落合村から落合町に昇格したばかり。

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東京市に併合されたのはそれから数年後、昭和の初期である。 その時にいったん中井の地名は消え、下落合となる。 中井が復活したのは、東京オリンピックの翌年だった。

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坂上には獅子吼会という寺院がある。 法華宗の寺院だ。シシクカイと読む。 坂下は農地や野原だったが、この坂上のこの寺院辺りからは目白文化村の住宅地になっていたようだ。

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2017年9月12日 (火)

一の坂(中井)

中井地区には東から一の坂、二の坂と並び、八の坂まで名前の付いた坂道がある。 一の坂は一昔前まで、山手通りの改修以前は山手通りから直接入れる坂だった。 山手通りが拡幅したため、きついUターンをしてから上る車道に代えられた。

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歩道部分は山手通りから階段で登るように変わってしまった。 自転車用のスロープもついているが、コンクリートの壁に圧迫されそうである。 昔の坂道は石垣があって風情があったものだが、無機質でつまらない景色になってしまった。

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階段を上ると、車道と合流する。 そこには新宿区が建てた標柱がある。特に説明は記されていない。2009年に新宿区が街の通称通り名を募集して立てられた標柱である。 中井町が発足して昭和35年頃に町内会でつけられた坂名で、八の坂までは同様のいきさつ。

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ここも坂上からは新宿の高層ビル群が眺められる。 戸建て住宅が多く、庭の緑もたくさんあって、坂上の雰囲気はいい。 明治時代はこの斜面は針葉樹の森、大正期になって杣道が開かれ、関東大震災後に住宅開発が一気に進んだ(目白文化村)。

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2017年9月11日 (月)

山手坂(中井)

振り子坂の坂下と分けるように西に上って行く急坂が山手坂である。 坂そのものは昭和になってから開かれた。大正時代の地図ではここは谷と台地の間の崖のようなものだった。 2009年に新宿区が設定した道路通称名である。

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山手通りが開通する以前から住宅が立ち並んでいたようだ。 目白文化村の一角として、大正末期から昭和初期にかけて開発された宅地と思われる。 新宿区の資料では、「山手通りへつながる坂道のため、この名称がついた。」とある。

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坂とは無関係だが、山手通りを挟んだ反対側に曳家加藤組がある。 曳家というのは文化財や古民家などをそのまま基礎から持ち上げて移動する日本の文化にはなくてはならない商売。 地震で傾いた家を戻すなどの工事もやっている。 日本曳家協会なる社団法人もあって、HPには曳家の面白い情報が載っている。

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2017年9月10日 (日)

振り子坂(中井)

環状六号線の山手通りを走ると中井駅は橋で跨ぎ、その後すぐに西側は切通のような崖になる。 中井通り(新井薬師道)から上ってきた六天坂の一本西側の道路が山手通りで分断されているが、山手通りが開通する以前はこの道は谷筋を通り振り子坂を上って前谷戸に繋がっていた。

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振り子坂の標柱は坂下に新宿区が設置した紺色の坂名のみの物だけである。 振り子坂と呼ばれるようになったのは大正時代から。 坂の断面が振り子状になっていたので、この名称がついたというが、前谷戸に向かって徐々に浅くなる谷の地形がU字型でそれを振り子と呼んだのではないかと私は推測している。

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坂は傾斜が出始めてからはほぼまっすぐ。  坂下標高は27m、坂上が34mなので、山手通りの反対側の見晴坂、六天坂よりも緩やか。 周りはほぼ戸建て住宅だが、樹木の生い茂るところには戦前の建築らしき素敵な民家があって目を止めてしまう。

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坂上は目白文化村として関東大震災後に開発された住宅地で、坂上周辺の民家は戦災で焼失してしまったようだが、前述の民家は焼け残ったことが記録にある。 当時から振り子坂の名前はあったようだ。

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2017年9月 9日 (土)

六天坂(中落合)

見晴坂の一本西側の坂道が六天坂。 見晴坂沿いのマンションが見晴坂の名前を付けているのに、六天坂沿いのマンションは坂上の一軒だけが六天坂の名を付けている。 悪くない名前だと思うのだが、不動産屋さんはお好みではないようだ。

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坂の名の由来は上の写真のお屋敷の門脇にある六天社。 ただ石川氏の『江戸道教坂道事典』、道家氏の『東京の坂風情』にはどちらにも見晴坂と六天坂が逆になっている。 彼らが間違えるのも考えにくいし、新宿区の標柱が違うとも言えないし、そうなるとこの六天社がここにあるのは合点がいかない。

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六天というのは、神仏習合の時代(平安~鎌倉時代)に第六天魔王を祀る神社として創建されたもので、300社以上があるが、最近は合祀されつつあるようだ。坂の標柱には、「大正時代に開かれた坂道である。坂上に六天の祠が建っていたため、六天坂と名づけられたという。」とある。 坂上の六天がなぜ今、坂下にあるのかは記されていない。

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坂下の標高は18m、坂上は35mと見晴坂と同じなのだが、こっちの方が緩やかに感じるから不思議である。 もちろんこちらの坂も坂上から新宿の高層ビル群を眺めることができる見晴らしのいい台地の端である。

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見晴坂(中落合)

市郎兵衛坂の坂上で新目白通りを南に渡り、交差点わきの路地を入って左に曲がると見晴坂の坂上に出る。 この辺りは新目白通りが開通する以前の昭和中期は農家がぽつぽつと建つのどかな斜面の農地だった。 地形的には東の谷である不動谷と西の前谷戸の谷に挟まれた狭い高台になっている。

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写真の右側は毛利農場というかつての農家が会社化したと思われる古めの家並み。左側はいくつかのマンションが立ち並び、農地転売で開発された風景。 マンションはそれぞれに「見晴坂」の名前を冠している。見晴坂の名は商業的にも有利なのだろう。

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坂の中腹と坂下に標柱がある。 「昔、この坂上からの眺望は素晴らしく、特に富士山の雄大な姿は抜群であったという。また坂下の水田地帯は古来より落合蛍の名所として知られた。坂名はこれらの風景に由来するものであろう。」と書かれている。 やはり富士山の眺望が不動産価値を押し上げているのだろう。

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坂下は住宅と商店が密集した古い商店街に出る。 この坂下の道はかつての新井薬師道である。 現在の名は中井通り。 坂上の標高が35mなのに対して坂下は18m。 見晴坂は一気に17mを下る。大正期の地図を見ると見晴坂と西隣の六天坂の間には大きな農家が一軒のみある。 おそらくこれがかつての毛利農場なのだろうと勝手に想像してみる。  落合台地の谷を見下ろす大きな農家の縁側で遠く富士を眺めることが出来たら素晴らしい。

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2017年9月 8日 (金)

市郎兵衛坂(中落合)

新目白通りが山手通りをアンダーパスでくぐる中落合二丁目交差点の東側にわずかに形を残している坂道が市郎兵衛坂である。 霞坂歩道橋から見下ろすと、大通りの脇ににょろっとくっついているような路地が見える。

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坂は写真の側から入ると上り坂。 新目白通りが開通する前は、この大通りの一部が坂の下半分だった。 妙正寺川から不動谷の斜面を斜めに上っていく道である。

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坂の入口と出口にそれぞれ標柱がある。「『豊多摩郡誌』によれば、「市郎兵衛坂、中井道、字不動谷と前谷戸との間にあり」と書かれている。坂名の由来についてははっきりしない。この坂にゆかりのある人名をとったものと思われる。」と書かれている。

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関東大震災の後、この辺りに住宅開発が進み「目白の文化村」と呼ぶ開発で一気に民家が増えた。 震災以前はほとんどまばらにしか家がないような場所だったが、戦前の地図には一面の住宅の張り付きが見える。戦後しばらくして環状六号線の山手通りが開通したが、新目白通りができたのはかなり後になってからだった。

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2017年9月 7日 (木)

霞坂(中落合)

西坂上の最初の路地を左折する。 現在大同特殊鋼の寮を建替える工事が進んでいる。その細路地をそのまま進むと途中から道は下り坂になる。 この道は明治末期から大正時代の初めにできた新坂だが、杣道は江戸時代からあったようだ。

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坂道はS字カーブのようにくねりながら下っていく。坂の途中に標柱がある。「明治時代末に開かれた坂で、『豊多摩郡誌』には、「大字下落合里俗中井より小学校前へ開穿(かいせん)したる新坂なり。」とある。この坂下は一面の水田だったので、春霞のたつのどかな田園風景が美しかったという。」と書かれている。

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小学校というのは坂上にある落合第一小学校だろうか。 明治後期の地図にはすでに小学校は記載されている。 調べてみると明治25年(1892)の開校とあるが、徳川家の敷地にあり、明治31年(1898)に今の場所に移転した。当時の住所名は下落合不動ヶ谷。  ただ明治時代は小学校の西側に細い道が谷下である不動谷と坂上を結んでいるのみだった。 それが大正期の地図になると小学校の東側の斜面にも道の線がついている。

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坂下の新目白通りと西側の山手通りで現在は分断されているが、昔は不動谷が新目白通りの筋に切れ込み、住む人もいない台地下だった。 坂下には通りを渡る歩道橋があり、かすみさかほどうきょうとある。

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2017年9月 5日 (火)

西坂(中落合)

聖母坂下の下落合駅前交差点は新道旧道入り交じった六差路。 西北に入っていく路地が西坂の入口。 くねくねと曲がりながら高度を上げていく、いかにも昔の道筋である。 聖母坂通りのある場所には大正時代までは道がなく、その谷筋は徳川別邸の敷地になっていた。

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坂の上下にある標柱には、「西坂の名は江戸時代後期の絵図に認められる(堀江家文書「下落合絵図」)。『豊多摩郡誌』には、「西坂、新宿道、字本村と字不動谷との間にあり」とある。かつて坂上にあった徳川男爵邸の牡丹園は、盛時に一般公開され、落合の名所の一つになっている。」と書かれている。 別の記録だと菊の時期に庭を解放したとあるが、どちらも事実だったようだ。

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今は徳川邸もなければ牡丹園もないが、坂とマンションの間の樹木からわずかにその雰囲気が残っているように感じられる。 この坂の上の西坂公園のところで分かれる道もこの西坂も、江戸時代からある古道である。 昔はこの坂が落合村と中井村の村境になっていた。

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明治の末まではほとんど杣道だったようだが、今は整備された明るい坂道である。 昭和の記録でも薄暗い坂道だと書かれている。 字本村の西の端にあるから西坂と呼ばれるようになったと伝えられるが、字中井からすると東になるので、中井の人々も西坂と呼んでいたかどうかはいささか疑問である。

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2017年9月 4日 (月)

聖母坂(落合)

聖母坂を境に東は下落合、西は中落合になる。 南に行くと上落合、中落合の西側に西落合。 どうもきれいな区分けではないように感じる。 古い地図を眺めていてふと気が付いた。 明治の地図には上落合村と下落合村しかない。 川の上流が上落合で、下流が下落合なのだ。 そこはなるほど合点合点。 西落合というのは、最近になってつけられた地名なのである。

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聖母坂は妙正寺川の支流の沢が落合台地を削った谷の道である。 かなり新しい坂で、坂上の西側にある聖母病院にちなんで付けられた行政的な坂名のようだ。

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坂の先には西新宿高層ビル群が見える。緩やかだがとても長い坂である。  この坂は完全な自動車用道路で、大正時代には久七坂と西坂に挟まれた窪地で池になっていた。 この坂あたりから西側は明治から戦前までは徳川邸の広い敷地だった。

今も西坂周辺には徳川の名残りがある。

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2017年9月 3日 (日)

久七坂(下落合)

下落合の坂ではもっとも西にあるのが久七坂。 薬王院を出て西に向かうと、下落合弁財天が奥まったところに小さく鎮座している。 社はかなり傷んでいるが、逆に歴史を感じさせる。弁財天の足元には湧水らしき池がある。裏手には下落合横穴墓群跡(おうけつぼぐんあと)の説明板があるが、直接見ることはできず、新宿歴史博物館に資料があるそうなので確認してみたいと思う。

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坂の上下にある標柱には、「『奥多摩郡誌』には、もとは田んぼへ行き来する為の道で、急な坂であったと記されている。 坂名はゆかりのある村人の名にちなむものであろう。」と書かれている。 今でも十分急な坂であるが、江戸時代はもっと急だったのだろう。

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坂の途中は左右とくねっている。 昔の妙正寺川と神田川は坂下の下落合駅付近で合流していた。 崖下は豊かな土壌の田んぼだったはずである。新宿区史の資料には、「中井の辺から落合の台地を流れる妙正寺川の周辺は一面の田だったし、少し高くなったところは畑、他は山だ。山だといっても柴などの雑木が大部分で薪を拾っていた。」という話が残っている。

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妙正寺川はかつては蛍の名所だった。『江戸名所図会』には、「この地は蛍に名あり、形大いにして光も他に勝れたり。山城の宇治、近江の瀬田にも越えて、玉の如く星の如くに乱れ飛んで、光景も奇とす。夏月夕涼多し。」とあり、江戸時代はこの蛍を愛でに人々が集まった。

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2017年9月 2日 (土)

おばけ坂(下落合)

江戸時代の坂ではないが、意外と古く明治の後期の地図には破線で道があったことが記されている。 おそらくは崖線を登り下りする杣道のようなものだったのだろう。明治期は薬王院側ではなく、七曲坂の坂下近くに出る道筋だったようだ。

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今回は坂上からアプローチした。 車両通行不可の看板が出ている。左の民家の竹塀が気に入ったが、いつまでもある訳ではなかろう。 傾斜はかなり急である。

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途中でバイクしか通れないくらいの道幅になる。 西側には林が広がっている。 「下落合野鳥の森公園」で、うっそうと広葉樹の茂る武蔵野の名残りである。 平成4年(1992)に開設された区立の公園である。

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この公園ができる前は、もともと農家の庭の一部だった。 薬王院に隣接していて、実際の広さよりももっと広く感じる。 坂を下りきると公園の門に石碑で「新宿区立下落合野鳥の森公園」とあり、訪問時も子供たちが網をもって虫を追いかけていた。

薬王院は正式名を瑠璃山薬王院医王寺という。 寺の名前は山号・院号・寺号もしくは、山号・寺号を正式名とする場合があって、通称で呼ぶときに院号だったりするとちょっと面倒な感じがする。稀に寺号・院号の場合があったりもする。

坂下は再び新井薬師道へ出る。

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七曲坂脇の無名の坂

七曲坂の東側に素敵な坂道がある。「七曲坂脇の無名の坂」と呼ぶことにしたい。開通したのは昭和の後期の住宅開発時期と思われる。昭和30年過ぎの地図には載っていない。この落合崖線にはそういう坂が他にもいくつかある。歴史こそないが風景はいいという坂道たちである。

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落合崖線の上にある落合中学校の校庭の三角点の標高は35.7m、それに対して妙正寺川の川岸の標高は11mで、高低差は24.7mある。ビルにしたら6階建の高さになる。 当然坂上からの眺めはよく、新宿の高層ビル群がきれいに眺望に入る。

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昭和以前の地図を見ると、この辺りは針葉樹と広葉樹のマークに覆われている。 武蔵野の林が広がる斜面だったのだろう。 今は高級住宅街になっている。

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七曲坂(下落合)

七囲坂(ななめぐりざか)ともいう。 もともとはもっと急でくねった坂道だったが、明治37年(1904)に整備されて今のルートになった。 さらに古い話としては、源頼朝が和田山に陣を構えた時にこの七曲坂を開いたとある。 和田山というのは今の哲学堂の辺りで、鎌倉幕府の御家人である和田義盛の居館があった場所と思われる。
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坂の上下に標柱がある。それによると、「折れ曲がった坂であることからこの名がついた『江戸名所図会』。古くは源頼朝が近所に陣を張った時、敵の軍勢を探るためにこの坂を開かせたという伝説がある(『遊歴雑記』)。」とある。
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近代に均されたといっても傾斜はかなりある。左右に林が残っているのが素晴らしい。この坂もまた武蔵野の雰囲気を残している。以前は竹藪も残っていたようだが、今はかなり住宅が張り付いている。
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坂の上部の西側にある大きなマンションは目白御留山デュープレックスという。デュプレックスというのは、ホテルのスイートルームなどで室内に階段をつけて複数のフロアを占有する形をいうが、そういう高級なマンションなのだろう。しかしその土手のコンクリート壁には見事なまでのツタが絡めてあり、坂の雰囲気に貢献している。
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この坂上を昔は鼠山と呼んだ。『江戸名所図会』の中に、「七曲坂鼠山の方へ上る坂をいふ。曲折ある故に名とす。」と書かれている。
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七曲坂の坂下、新井薬師道との辻には石地蔵がある。 とてもいい雰囲気を醸し出している。 向かいは下落合氷川神社だ。神社の由緒によると、2400年以上前からあったとされている。しかしその頃にどういう信仰があったのかはわからない。とはいえ、妙正寺川と神田川の合流地点が近いので、数千年前から人間の営みがあったことは疑う余地がない。
 

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相馬坂(下落合)

下落合は豊島台の西側に位置する武蔵野台地の一部である。台地の南側を削ったのは神田川と妙正寺川。 二つの川がほぼ合流する地点には東京の水道の中心的な役割を果たす落合水再生センターがあり、下落合駅周辺は東京の水道の拠点と言えそうだ。 その北側の二つの川によって削られて崖になったところにいくつもの坂がある。

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相馬坂は近衛坂と同じく新井薬師道から上り坂になる。 この新井薬師道は高田村(早稲田周辺)から中野の新井薬師へ続く古くからの道で、崖線の下をなぞるように走っている。人形町今半ケータリングサービスの高田馬場センターの辻から上って行くと、頭上には豊かな緑が広がる。この辺りは大正期まで落合村と呼ばれる武蔵野の林の中だった。

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坂の標柱には次のように記されている。「この坂に隣接する「おとめ山公園」は、江戸時代には将軍家御鷹場として一般人の立入りを禁止した御禁止山(おとめやま)であった。この一帯を明治時代末期に相馬家が買い取って屋敷を建てた。この坂は新井薬師道から相馬邸に向け新たに通された坂道であるため、こう呼ばれた。」

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このおとめ山公園には土地の記憶がたくさん残されていて散策して楽しい。 この崖線を落合崖線と呼ぶ。昭和初期に相馬家が売却した時、地元の人々がこの林を残してほしいと訴えたお陰で、この自然が今もまだここにある訳だ。 新宿区内唯一の自然湧水の池が林間にあり、芝斜面には相馬家屋敷当時の芝と松の庭園風景が残されている。 ただし区の管理する公園なので、夜間は閉鎖されている。

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上の写真は落合中学校の西南角にひっそりと立っている庚申塔。 彫られた年号を見ると元禄3年(1690)とある。 この辻は南の七曲坂から上ってきて、今の目白通りに出る落合崖線の下と上を結ぶ道標でもある。相馬坂ができる前はこの道しかなかったようだ。

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近衛坂(下落合)

新宿区と豊島区の区境に近い山手線の学習院下の新井薬師道ガードは2014年に真っ白なコンクリとで全体を塗り固められてとても清潔なガードになったが、個人的には昔の石組の方が好ましいと思う。鉄道の土台はやはり石垣がいい。

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そのガードの西側線路沿いの道も一直線の上り坂で土手が全面石垣だった時はなかなかの景色だったのだが、その土手までコンクリート壁になってしまいいささか落胆した。

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近衛坂はこの道ではなく、もう1本西側の細い道である。いきなり見上げるような傾斜で迫ってくるが、少し上ると右に左に斜めクランクになっていて、積雪時は坂途中の家に突っ込む人がいても不思議ではない。

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坂上に近づくと遠景を望むことができるようになる。山手線の線路が見え、頻繁に電車が行き交う。坂上をそのまま北進するとクランクが続いたのちに道の真ん中にケヤキの巨樹が出現する。旧近衛邸大ケヤキだ。

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かつて落合一帯は、華族・近衛家の所有する敷地であり、近衛町と呼ばれていた。地名が変わり、高級住宅街となった今も、近衛家の邸宅玄関先にあった欅の木だけが道路の中央に残されている。明治時代の政治家であった近衛篤麿は、この木を馬車で周ってから出勤するのがルーティンだったらしい。戦後、近衛邸の解体とともに切られる運命であった欅は、住民の嘆願により大切に保存されることになった。

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何となくこういう話は聞くと嬉しくなる。歴史を大切にすると、未来が開ける気がするのである。

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2017年9月 1日 (金)

蜀江坂(西新宿)

坂の途中にある標柱には、「かつてはこの辺りが蜀江山と称されていたためこう呼ばれる。蜀江山の由来は、天慶の乱の時、平将門(あるいは弟の将頼)が蜀江錦の衣の袖を落としたから、あるいは江戸時代に三代将軍家光が鷹狩りでこの地を訪れた時、紅葉の美しさを蜀江の錦のようだと称賛したからだという。」と書かれている。

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今の新宿西口エルタワーの辺りには、江戸時代春日局の下屋敷があった。江戸期はそこから北側に行ったところに丘があり、蜀江山と呼ばれ、蜀江台に上る坂を蜀江坂と呼んだという話もある。前述の平将門の伝説は江戸時代にはすでに伝説だっただろう。歴史の深い地域と言える。

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坂の中腹には新宿区立の蜀江坂公園という小さな公園がある。こういう公園名や小学校の名前に昔の地名が残っていたりするのは嬉しい。ちなみに青梅街道が神田川を渡る橋が淀橋なのだが、橋の脇にその由来が書かれていて興味深い。

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「『淀橋』の名は、江戸時代の三代将軍徳川家光が名付けたと言われている。古くからあるこの橋は、昔は「姿見ずの橋」とか「暇乞いの橋」と言われていた。この辺りで中野長者と呼ばれていた鈴木九郎が、自分の財産を地中に隠す際、他人に知られることを恐れ、手伝った人を殺して神田川に投げ込んだ。九郎と橋を渡るときには見えた人が、帰る時には姿が見えなかったことからその名がついた。 鷹狩りのためにこの地を訪れた徳川家光はこの話を聞き、「不吉な話でよくない。景色が淀川を思い出させるので淀橋と改めるよう」に命じ、これ以降その名が定まった。」

江戸名所図会の淀橋水車には橋が二つ描かれている。手前は淀橋と水車だが、向こう側の橋は別流で明治初期までは神田川は3本ほど流れがあったようだ。主流は蛇行して、洪水を繰り返していたものと思われる。当時は神田上水と呼んだくらいだから普段は清流だったはずである。

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