実盛坂(湯島)
実盛坂は初めて訪れた折、強い印象を受けた。 寺社仏閣が台地のキワに立地して、平地から階段を上って参詣するパターンは多い。 湯島エリアにおいても、神田明神、湯島天神ともにそういう造りになっている。 しかし実盛坂は他の坂と平行にあるのにここだけが明神、天神と同じような急階段になっているのだ。 ガイ坂側からアプローチしても、三組丁筋からアプローチしても、その高低差には驚く。
ガイ坂下から西側の細路地を除くと、路地奥に階段が見える。 近づくにつれて、この階段が目前に迫ってくると、湯島が本郷台地のキワであることを強く実感できるのである。
「『江戸志』によれば、「…湯島より池之端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり…」とある。 また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が『江戸砂子』や『改撰江戸志』にのっている。 この実盛のいわれから、坂の名がついた。
実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現・埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。 寿永2年(1183)源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光森に討たれた。 斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首を取られても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。 この話は『平家物語』や『源平盛衰記』に詳しく記されている。
湯島の〝実盛塚″や〝首洗いの井戸″の伝説は、実盛の心意気に打たれた土地の人々が、実盛を忍び、伝承として伝えていったものと思われる。」
文京区の説明板は詳しく丁寧に書かれており、読んで興味深い。 東京23区の中でも文京区のものは秀逸である。 この実盛坂、別名を貝坂という。 その由来は別説からくるもので、実盛塚はもともと古墳、あるいは貝塚であったという説である。 台地のキワには、兵どもが闊歩した以前、縄文弥生の時代から人間が棲み付き、そこに営みがあったという点ではこの貝塚説も十分可能性がある。
ただ江戸は徳川がとてつもない土木工事を経て百万都市を構築したので、それ以前の歴史が語られることは皆無に近い。 坂の散歩では江戸以前にまで遡って街を見るという、考古趣味も入っていて、江戸幕府以前をも振り返ることがある。 それがまた面白いのである。
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