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2017年9月29日 (金)

無縁坂(文京区湯島/台東区池之端)

さだまさしの曲に「無縁坂」というのがある。 「母がまだ若いころ 僕の手を引いて この坂をのぼるたび いつもため息をついた」という歌詞で始まる。 歌詞はそのあと、「忍ぶ不忍 無縁坂」とあり、もちろんこの無縁坂がテーマになっている。 坂の下は不忍池。 旧岩崎邸庭園の煉瓦塀と石垣、向かいのマンションは煉瓦塀に似た色合いで、時代感を醸し出す坂道である。

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岩崎弥太郎の屋敷だけあって、三菱一号館と同じような煉瓦。 目地の色が何度も塗りなおした感がある。 また、坂下の突き当りは不忍池西の交差点で、北側は上野の名店東天紅。 この辺りは文京区と台東区の区境が複雑に入り組んでいて、東天紅と岩崎邸は台東区だが、無縁坂北側のマンションは文京区。  岩崎邸の裏にある切通公園は文京区。 とにかく区境が入り組んでいる。

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坂の途中に昭和55年(1980)製の説明板がある。

「『御府内備考』に、称仰院前通りより本郷筋へ往来の坂にて、往古坂上に無縁寺有之候に付右様相唱候旨申伝・・・・・」とある。団子坂(汐見坂とも)に住んだ、森鴎外の作品『雁』の主人公岡田青年の散歩道ということで、多くの人びとに親しまれる坂となった。その『雁』に次のような一節がある。
「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れに不忍の池の北側を廻って、上のの山をぶらつく。・・・・』
坂の南側は、江戸時代四天王の一人康政を祖とする榊原式部大輔の中屋敷であった。坂を降ると不忍の池である。」

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さだまさしの歌とは違い、江戸時代は周辺は大名屋敷と寺院だった。坂上は東大の敷地で赤門の大名屋敷、加賀百万石前田家の裏手にあたる。 山野氏によると、武家が多いエリアだったので、武辺坂、あるいは武縁坂と呼ばれたという説もあるが、山野氏はやはり坂上の講安寺のあたりにあったという無縁山法界寺に由来する説を中心においている。 湯島の坂の中では静かで江戸情緒を残している名坂である。

(以下追記: 2019/1/2)

坂下の不忍池は本郷台地と上野台地の間にあった入江が、海岸線の後退によって池として残された地形である。不忍池には藍染川が流れ込んでいたので、池として残った。

無縁坂は江戸時代からある道筋で、岩崎邸側は越後高田藩15万石の榊原家下屋敷18,251坪、東大キャンパス一帯は加賀藩前田家の百万石10万坪の上屋敷だった。 無縁坂の坂下は寺町だったので、当時は暗い道だっただろう。

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