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2017年9月20日 (水)

傘谷坂(湯島)

傘谷坂は湯島の西、本郷に近いエリアを南北に走る薬研状の坂道である。 確かに傘を裏返しにして対角線の骨に例えるとまさに似た形になるのだが、それが由来ではない。 江戸時代にこの街には傘職人が沢山住んでいて、ここが傘製造街だったことが由来だという。 ただ横関英一氏の見立てではこの坂の形が傘谷の名前になった可能性を捨てていない。

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今は当然傘屋街ではない。 江戸時代末期には傘職人はいなくなっていた。 また江戸期にこの通りは金助丁と言った。 旗本牧野金助の屋敷地だったが、大半をお上に召上げられ御家人の組屋敷になった。 幕府の財政悪化が進むと貧乏な御家人は内職で傘を作って売ることが多かったという。

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坂の南側にサッカーミュージアムがある。 かさを反対から呼んでサッカー?という訳ではなかろうが、そのうちサッカー谷と呼ばれる時代も来るかもしれない。

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コメント

わたしは、傘谷とは、瘡谷のことではないかと思ってます。

古河市下辺見の向堀川に架かる橋に思案橋があって、そのすぐそばに、弘法大師の石像が祀られていますが、これを奉納したのは、「江戸新吉原」と「江戸本郷傘谷」です。

『日本歴史地名大系 茨城県の地名』にはこうあります。

 《思案橋下を流れる水を弘法水といい、宝暦一二年(一七六二)に旅僧が「此の水は名水である。病める者が浴するならば立所に癒えるであろう」と言って去った。この僧は弘法大師であるとのうわさが広まり、念仏を唱えながら水浴する者で賑わった。いま思案橋近くの高台に弘法大師を祀る。また近くの利根川には弘法河岸と称する渡船場があった。この弘法水のことは当時刻本となったが、官より咎められて絶版となったと「名水記」に記す。》

また、『下辺見村風土記』には、《近隣の人々これを聞いて、その聖水を乞うもの後をたたず、この聖水は弘法水なりと口々に伝わる、郷から郷へ、町から町へと広まる。礼する幟旗林立す、昼夜をわかたず念佛を唱へゆきこう人々ひきもきれざる有様なり、このこと江戸に伝わる。江戸より来たりてこの弘法水を乞ふ、快癒せる人多くあり、就中江戸新吉原、本郷傘谷よりは、大師の御姿を石像としてまつる。》とあり、当時の狂乱振りが窺えます。

新吉原会所がこの霊水に祈願したのは、性病、中でも最も恐ろしい梅毒平癒だったに違いありません。連名で祈願している本郷傘谷を管理する会所もまた同様な趣旨だったと考えていいかと思われます。とすると、傘谷とは瘡谷のことだったのではないかという疑問が湧きます。

傘づくりの職人が多くいた、というにしては傘製造にかかわる記録もなにもなく、《近世後期にはそうした様子はなくなっていた。》と、なにか忽然として傘屋街がなくなってしまったような印象です。尤も、そういう人たちに傘を作らせていたと考えられないこともありませんが。本来は瘡谷と通称していたのを瘡がなくなるようにと、しゃれて空瘡谷(からかさだに)とし、傘谷となり、実際に傘張りさせていたのかもしれません。

この弘法大師の石像に残された文字によって、傘谷坂の印象もまるで変ってしまいますね。
https://ameblo.jp/tiisakobe-sugaru/entry-12934991001.html

投稿: sunekotanpako | 2025年10月 1日 (水) 10時07分

sunekotanpakoさん

お読みいただきありがとうございます。

>>わたしは、傘谷とは、瘡谷のことではないかと思ってます。

なるほど、カサは疱瘡に絡んでいるというわけですね。江戸時代は天然痘が普通に猛威をふるっていたといいますから、あちこちに疱瘡治癒祈願の神社や仏様がありました。ただ周りの寺社を調べてみましたが、手掛かりはつかめませんでした。あれだけ近代化してしまったエリアですから致し方ないですね。

投稿: ぼのぼのぶろぐ管理人 | 2025年10月 3日 (金) 20時57分

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