« 2017年9月 | トップページ | 2017年11月 »

2017年10月31日 (火)

横町坂(小日向)

横町坂、よこちょうざかと読むのか、よこまちざかと読むのかは両説ある。 服部坂上から東に下る坂道で、坂の北側には福勝寺がある。 江戸時代この辺りは御持筒組(鉄砲組)の屋敷があった横丁だった。

Dscn2282
由来は単純に横丁の坂なので横町坂だったようである。坂になっているのは西側の一部のみで、この坂についてはいろいろな文献を調べたが詳しい記述がない。

Dscn2283
とはいえ微妙に曲がっている道といい、変化する傾斜といい、坂道のつくりは江戸の雰囲気を残している。  突き当りを左に曲がり薬罐坂へ向かう。

| | コメント (0)

2017年10月30日 (月)

服部坂(小日向)

大日坂下から東に歩く。 モダンな4階建の学校のような建物が文京福祉センター江戸川橋、区の福祉施設だが元は黒田小学校(後の区立第五中学校)で、戦国武将黒田官兵衛の子孫の創立。 卒業生に永井荷風、黒澤明がいる。 2012年にここを建替える折の発掘調査で神田上水の白堀(開渠)の遺構が発見された。

Dscn2272
道路脇の軒下にガラス張りの部分があり、そこから覗き見ることができる。 江戸時代の重要な上水は水道橋まで流れ、そこから神田川を懸樋で渡して、神田の街に水を供給していた。

Dscn2275
その先を左折するとまっすぐな坂。 これが服部坂である。 坂の途中の文京江戸川橋体育館の入口に説明板がある。

「坂の上には江戸時代、服部権太夫の屋敷があり、それで「服部坂」と呼ばれた。服部氏屋敷跡には、明治2年(1869)に小日向神社が移された。永井荷風は眺望のよいところとして、『日和下駄』に「金剛寺坂荒木坂服部坂大日坂等は皆斉しく小石川より牛込赤城番町辺を見渡すに良い」と書いている。坂下にある旧文京区立第五中学校はもと黒田小学校といい、永井荷風も通学した学校である。戦災で廃校となった。」

Dscn2280
第五中学校がある時代は、西の中学校と東の体育館は渡り廊下で結ばれていた。 この辺りの景色は以前とはずいぶんと変わった。 それでも永井荷風の書いたように、坂の上に上り振り返ると神楽坂方面をわずかに遠望できる。

Dscn2279
坂の上には小日向神社。  八幡坂の由来となった田中八幡と氷川神社が合祀されて、服部家のあったこの地へ移された、比較的新しい神社である。 ここまで上がると神田川の向こう岸を見渡すことができる。

| | コメント (0)

2017年10月29日 (日)

大日坂(小日向)

大日坂は小日向台地から神田川(江戸川)に下る長い坂道である。 別名八幡坂。 この坂の説明板はなんと3種類ある。 ひとつは坂の途中にある文京区教育委員会のもの、他は坂上の植え込みの中に彫像の土台に真鍮板に彫られているもので、これは文京区土木部公園緑地課のもの、最後は坂下の妙足院の入口にある文京観光協会のものだ。

Dscn2265
坂上の植え込みには古地図と文章が併記されている。 この古地図が実に面白い。 どちらかというと民間の地図のようで手製感があるが、当時の様子が生き生きと伝わってくる地図なのである。

Dscn2266
鼠坂下は岡場所でもあったが、その上流では紙漉きも盛んだったことが判ったりする。また神田上水には神田御上水と「御」の字が加えられ、幕府と庶民の関係が見え隠れする。こういう古地図はなかなかないのでとても貴重である。

古地図の横には、文京区土木部公園緑地課の説明書きがある。

「この坂は昔、坂の上にあった田村八幡宮にちなんで八幡坂と呼ばれていました。後に八幡宮が音羽町八丁目の裏通りに移転してからは、坂下の妙足院の大日堂にちなみ、大日坂と呼ばれるようになりました。

大日堂は、大日如来を祭り江戸時代から小日向の名所として知られてきました。明治時代に入ると、毎月八の日の縁日には、水道通りに沢山の露店が並び賑わっていました。また、坂下の神田川(通称江戸川)は、明治末まで土手に植えられた桜並木が有名でした。」

Dscn2268
坂の途中には、東京都文京区教育委員会の説明板。

「「・・・坂のなかばに大日の堂あればかくよべり」(改選江戸志)。この「大日堂」とは寛文年中(1661~73)に創建された天台宗覚王山妙足院の大日堂のことである。坂名はこのことに由来するが、別名「八幡坂」については現在小日向神社に合祀されている田中八幡神社があったことによる。この一円は寺町の感のする所である。」

Dscn2270
坂下の文京区役所・文京観光協会のものは、妙足院の入口脇にある。

「坂の名の由来は、坂の途中に大日堂があったことから里俗に呼ばれるようになったものであろう。堂のあるこの寺は天台宗で、覚王山妙足院と号し、開祖は浩善尼上人(紀州家の奥女)で、堂廟の創立は寛文2年(1662)といわれている。

その後 何度か火災にあったので、堂は現在に至っていないが、坂の北の方の道造りは、妙足院で施工したと伝えられている。小日向の名の由来については、古く鶴高日向という人の領地だったが 絶家した後、「古日向があと」といっていたものが、いつか「こひなた」と呼ばれるようになったのであろうと、「御府内備考」では述べている。」

それぞれに特徴があって、同じ人が書いたものではないことが推し量られる。

| | コメント (0)

鼠坂(小日向)

江戸時代の切絵図を見ると『子ツミサカ』と書かれている。 鳩山会館の北側、坂下は水窪川の跡、そこからいきなり階段坂がまっすぐに伸びる。 21mの高低差をほぼ真っすぐに登るため、ちょっとしたチャレンジに感じられるかもしれない。

Dscn2259
坂の手すりは新しいものと古いものが混在、古いものは塗装した鉄製、取り換えられたものはステンレス製である。 こんな坂だが多くの人が登り下りしている。 人のいない写真を撮るのはなかなか難しかった。

江戸時代の坂下は鼠ヶ谷と呼ばれ、一種のスラム街のような場所で私娼も多くいたという記録がある。風来山人(平賀源内)は、この辺りの岡場所を「下品下生」と最低の評価を与えている。 江戸時代のこういう里俗な情報は実に面白い。

Dscn2260
坂の途中には新しくなった平成17年(2007)製の説明板がある。

「音羽の谷から小日向台地へ上る急坂である。鼠坂の名の由来について『御府内備考』には「鼠坂は音羽五丁目より新屋敷へ上るの坂なり、至ってほそき坂なれば鼠穴などいふ地名の類にてかくいふなるべし」とある。

森鴎外は「小日向から音羽へ降りる鼠坂といふ坂がある。鼠でなくては上がり降りが出来ないと云ふ意味で附けた名ださうだ・・・人力車に乗って降りられないのは勿論、空車にして挽かせて降りることも出来ない。車を降りて徒歩で降りることさへ、雨上がりなんぞにはむづかしい・・・」と小説『鼠坂』でこの坂を描写している。

また〝水見坂″とも呼ばれていたという。この坂上からは音羽谷を高速道路に沿って流れていた、弦巻川の水流が眺められたからである。」

Dscn2262
途中で分岐する階段の脇道も面白い。 階段上のさらに先にも階段があり、車も来ないので、階段の間の区間では近所の親子がキャッチボールをしていた。 再び鼠坂の中腹に戻り、坂上を目指す。

Dscn2264
坂上から振り返ると微妙に曲がっている。 この曲りが江戸の坂の特徴でもある。 昭和の坂のほとんどはまっすぐに通される。 ところが江戸時代の坂は、登山道のように通りやすいところにできるので真っすぐにはならない。 それが景色のアクセントにもなっているのである。

| | コメント (0)

2017年10月28日 (土)

八幡坂(小日向)

鷺坂は昭和の坂だが、この八幡坂は江戸時代からある坂道で、江戸切絵図にもある。 水窪川の東側に田中八幡、そして別當西蔵院と書かれている。 裏手は久世大和守の屋敷で、北側一帯は御賄組の屋敷が集合住宅のように集まっている。 この田中八幡は現在は音羽今宮神社になっている。 元の田中八幡は氷川神社と合併されて服部坂上の小日向神社となったのは明治2年。 その後明治政府の神仏分離令で護国寺境内にあった今宮神社がここに移ってきたという経緯である。

Dscn2252
いきなり階段で始まる坂だが、八幡坂は坂上まですべて階段の坂である。 この辺りの小日向側の崖はかなり急で、高低差も20mほどあり、それを一気に登る感じだ。

Dscn2253
途中、鷺坂からの道を合わせて左に折れる。 そこから見下ろすと(上の写真)結構急な坂であることがわかる。 ここからさらに階段坂が続く。 江戸時代はこの坂を御賄組が管理していたという。 十分な管理がなければ坂として維持できないくらいの傾斜がある。

Dscn2249
さらに坂上に向かって上る。 短い区間だけ、鷺坂からの道がそのまま車道になっているが、それもすぐに階段坂に戻る。 鉄製の手すりがないと悪天候時は上り下りもままならないだろう。

説明板は坂下にある。「『八幡坂は小日向台三丁目より屈折して、今宮神社の傍らに下る坂をいふ。安政四年(1857)の切絵図にも八幡坂とあり。』と、東京名所図会にある。明治時代の初めまで、現在の今宮神社の地に田中八幡宮があったので、八幡坂と呼ばれた。坂上の高台一帯は「久世山」といわれ、かつて下総関宿藩主久世氏の屋敷があった所である。」と書かれていた。

Dscn2256
坂上谷側の新しいマンションは石川啄木初の状況下宿跡の説明板がある。「盛岡中学校を卒業直前にして退学した啄木は、文学で身を立てるため、明治35年(1902)単身上京した。そして、中学の先輩で金田一京助と同級の細越夏村の旧小日向台町にあった下宿を訪ねた。」とあり、ここには1日だけしかいなかったようである。 それでも説明板があるのはやはりビッグネームと言える。

大日坂上に古い真鍮の説明板に古地図が描かれているのだが、その地図によるとこの八幡坂の下、水窪川沿いの音羽九丁目には「このあたり私娼あり」と書かれている。 やはり谷筋は俗世間、「俗」の字に「谷」が含まれるのは意味があることなのだろう。

| | コメント (0)

鷺坂(小日向)

文京区小日向には素敵な坂がいくつもある。 その主役ともいえるのがこの鷺坂。 スズキのバレーノというほぼ無名の自動車のCM映像を見た時、「このCMの映像を作った人は相当な坂好きだろうな」と思った。 《スズキ バレーノ CM映像》

さて、鷺坂の入口は旧目白通り(目白坂)の音羽通りの向かい側、江戸川公園前交差点。 最初の辻を過ぎると上り坂が始まる。 手前左の石垣は見事で、まるで城郭のようだ。 坂下で交差する路地はその昔、水窪川という川の跡である。水窪川より上は関宿藩藩主久世大和守の下屋敷だったから、その時代の石垣ではないかと想像を膨らませる。

Dscn2241
鷺坂は逆Z型を描いて上って行く。 左に折れるところには、説明板と石標が立っている。 説明板下には文京区の都市景観賞2008のプレートがある。「鷺坂は、急な勾配と昔ながらの石積みが現存し、江戸風情を色濃く残した坂として人々に親しまれ、「坂の街・文京」の景観づくりに貢献しています」とある。

Dscn2243
説明板には次のように書かれている。

「この坂上の高台は、徳川幕府の老中職をつとめた旧関宿藩主・久世大和守の下屋敷のあったところである。そのため地元の人は「久世山」と呼んで今もなじんでいる。この久世山も明治大正以降住宅地となり堀口大学(詩人・仏文学者。1892~)やその父で外交官の堀口九万一も居住した。この堀口大学や、近くに住んでいた詩人の三好達治、佐藤春夫などによって山城の久世の鷺坂と結びつけた「鷺坂」という坂名が、自然な響をもって世人に受け入れられてきた。

足元の石碑は、久世山会が昭和7年7月に建てたもので、揮毫は長城堀口九万一による。一面には万葉集からの引用で、他面には今日風で「山城の久世の鷺坂神代より春は張りつつ秋は散りけり」とある。文学愛好者の発案になる「昭和の坂名」として異色な坂名といえる。」

Dscn2244
坂好きならずともこの景観には感動するに違いない。 江戸時代は大名屋敷の中だった場所で、明治大正期は久世山という丘陵の林、昭和になってようやく開かれた坂なのに、ここまで江戸情緒を醸し出す例は珍しい。

Dscn2247
スズキのCMで使われたのはこの上のZクランクである。 タクシードライバーでも往生する急角度の折り返しだが、時折上る車を見かける。 さすがに地元住民は上手い事抜ける。坂下との高低差は12mほどだが、まるで登山道のような道が台地の下と上を別世界に感じさせてくれる。

| | コメント (0)

2017年10月27日 (金)

七丁目坂(目白台)

鳥尾坂上にある獨協中学高校の手前の路地を南に向かっていくと、右手に佐藤春夫の旧居跡がある。 洋風建築と日本建築の間に説明板が立っているので、どっちかわからない。 元の路地に戻り、そのまま進むと、道が細くなり階段になる。 七丁目坂である。

Dscn2092
石垣と古めの塀に囲まれた階段には鉄製の手すりがついている。 バイクに乗ったまま下るのは危険だが、自転車も十分危険だと思う。 石垣の蔦がいい雰囲気を出している。

Dscn2094
途中にある大木(おそらくアカガシ)は石の塀を跨ぐようにして立っている。 樫の木はよく山の中で岩場に根を伸ばして生えているが、都会では珍しい。 坂上標高29mに対し坂下は7m。 これを一気に階段で下る。

Dscn2095
途中から下の段はカーブを描きながら下る。 坂下は関口三丁目公園。 この坂は江戸の切絵図ではよくわからない。 しかし明治初期の地図には道が描かれていて「七丁目坂」と書いてある。江戸の坂なのか、明治の坂なのか。

Dscn2099
坂名の由来は、旧・音羽七丁目と八丁目の間を上る坂なのでこの坂名となったというのが区史によるもの。 この坂の辺りには御賄組の屋敷が並んでいた。 魅力的な坂だが、説明板がないのは、坂のいわれが不明瞭だからだろうか。

| | コメント (0)

2017年10月26日 (木)

鳥尾坂(目白台)

江戸初期以前の護国寺界隈は二本の川に挟まれた谷だった。 現在の高速下あたり、谷の目白台側を流れていたのは弦巻川。 東側の鼠坂下を流れていたのが水窪川。 弦巻川は現在の池袋西口にあったという丸池を源頭に鬼子母神のある雑司ヶ谷を流れ、目白台の北側をなぞるように護国寺前から南下して江戸川(神田川)に注いだ。

この川が目白台の北側を削って段丘を形成したわけだが、台地の上と下では20m以上の高低差を作り出して、その昔は往来に難儀だった。

Dscn2085
坂の説明板によると、「この坂は直線的なかなり広い坂道である。坂上の左側は獨協学園、右側は東京カテドラル聖マリア大聖堂である。 明治になって、旧関口町192番地に鳥尾小弥太(陸軍軍人、貴族院議員、子爵)が住んでいた。 西側の鉄砲坂は人力車にしても自動車にしても急坂すぎたので、鳥尾家は私財を投じて坂道を開いた。 地元の人々は鳥尾家に感謝して「鳥尾坂」と名づけ、坂下の左わきに坂名を刻んだ石柱を建てた。」とある。

確かに明治後半の地図以降、鳥居邸の表示がある。 現在は関口台公園になっていて、子供の声が賑やかである。

Dscn2090
坂上は獨協中学高校、学生が坂を上り下りする。 この辺りの町名を関口という。 正保(1640年代)の頃までは関口村と呼んだ。 土地の言い伝えではこの辺りに昔、奥州街道の関所があったので関口となった説があるが、一方で江戸川(神田川)の取水の大洗堰が起源だという説もある。 神田上水の開設は1590年頃。 当時はまだまだ農地と野原だったようだが、1700年代に入ってから、武家屋敷や町屋が立ち並び始めた。 当時ののどかな風景を坂上坂下で思いはせる。

| | コメント (0)

鉄砲坂(目白台)

三丁目坂の坂上を南に曲がり、新目白通りのカーブまで南下、目白台三丁目の変則分岐を真東に進むと鉄砲坂の下りになる。 坂上は普通の路地だが、坂の傾斜に入ると軽自動車いっぱいいっぱいの道幅に狭まる。

Dscn2078
両側に個性のある塀が続くので、景色のいいアクセントになっている。 坂の途中で南側に接道する路地の方が広いが、鉄砲坂はまっすぐに下る。 路地の方は東京音楽大学付属高校の裏を通って音羽通りに出る。 この丁字路から見上げる景色もいい。

Dscn2081

坂の北側は東京音楽大学の目白台学生寮。 ここには江戸時代斜面を利用した鉄砲練習場があった。 微妙に曲がった細い坂の路地はこの道が古い道である証である。

Dscn2080
坂下に安政四年の『音羽絵図』という江戸切絵図を描いた説明板がある。

「この坂は音羽の谷と目白台を結ぶ坂である。坂下の東京音楽大学学生寮のあたりは、江戸時代は崖を利用して鉄砲の射撃練習をした的場(角場・大筒角場ともいわれた)であった。その近くの坂ということで「鉄砲坂」と呼ばれるようになった。」

Dscn2082
江戸切絵図には「鉄砲サカ」と書かれている。 坂の南側の東京音楽大学付属高校の辺りは旗本斉藤伊豆守の屋敷、明治になってからは鳥尾家の邸内。関東大震災の頃に小石川高等女学校が開かれ、その後文華学園(現在は西東京市に移転)となり、現在は東京音大付属となっている。 大正昭和期に多くの女学生が歩いたこの坂が、その前は鉄砲場というギャップが面白い。

| | コメント (0)

三丁目坂(目白台)

大塚警察署交差点から西に上る坂。 坂下の音羽通から望むと、首都高速5号池袋線の下をくぐり高度を上げていく道が坂の傾斜を増幅して見せている。 音羽通りの脇には、その昔護国寺から流下して江戸川橋で神田川に注ぐ弦巻川があり、川が削った谷が音羽通り沿いの低地である。 音羽通りの標高は10mなのに対して目白台地の坂上は30mなので、高低差は20mもある。

Dscn2068
高速道路をくぐった先で右にカーブしている。 この曲がり方は江戸時代からの道であることの証。  坂の南側は桂林寺の境内(現在は小さくなって路地裏に残っている)。北側は坂上西の薬罐坂までが松江藩松平出羽守の下屋敷だったが、明治になって国の所有となり、東大附属病院と筑波大付属盲学校の敷地になった。東大附属病院は分院で2001年に閉院した。 今は広い敷地がほぼ更地になっているが、将来は研究所が再建される予定。

Dscn2070
目白台は武家屋敷の台地だったが、その西側は農地だったため、この辺りは武家屋敷と百姓地が混じるエリアだったようだ。坂の途中に説明板がある。

「旧音羽三丁目から、西の方目白台に上る坂ということで三丁目坂とよばれた。 坂下の高速道路5号線の下には、かつて弦巻川が流れていて、三丁目橋(権三橋)がかかっていた。

音羽町は 江戸時代の奥女中音羽の屋敷地で、『新撰東京名所図会』は、「元禄12年護国寺の領となり町家を起せしに、享保8年之を廃し、又徳川氏より町家を再建し、その家作を 奥女中音羽といへるものに与へしより 町名となれり」と記している。」

Dscn2072
三丁目というのは近代の地名ではなく、江戸時代の護国寺門前町が北より壱丁目二丁目とあり、この坂下が三丁目だったからである。 通常江戸城に近いほうが壱丁目になるのだが、ここは護国寺の門前町、そして護国寺は五代将軍綱吉の母桂昌院の菩提寺ゆえに護国寺側から数えている珍しい例なのである。

| | コメント (0)

2017年10月25日 (水)

付属横坂(小日向)

東京メトロ有楽町線の護国寺駅を降りると講談社が風格ある建物を誇示している。 何となくお役所っぽい外観の建物。 たけし軍団が乗り込んだ話を思い出す。 エレベータに最後に乗ったそのまんま東がドアが開いたら先頭だったというのは笑えた。

講談社の南隣がきれいなビルになった大塚警察署。  大塚警察署なのに護国寺にあるのは違和感あるが、警視庁の管轄は区割りよりも狭く、昔の地名に近いところも多くて興味深い。 大塚警察署の管轄は、江戸川橋、護国寺、茗荷谷周辺で、大塚駅周辺は巣鴨警察署の管轄だし、巣鴨警察署は大塚駅近くにある。 どうも庶民にはピンとこない。

Dscn2064
その警察署前から東に上って行く道がある。 銀杏並木の美しい見事な坂道だ。 緩やかにS字カーブを描いて上って行く。切通になった両側には樹木が繁り素晴らしい環境である。 この坂の名が付属横坂。 両脇の緑は学校に囲まれているためである。

Dscn2067
坂下から、右に筑波大学付属中学、左にはお茶の水女子大学、その先まで上ると右に跡見学園中高校が並ぶ。 江戸時代は辺りは今のいわき市平にあった陸奥磐城平藩主安藤長門守五万石の下屋敷だった。 地図を確認する限りでは昭和戦後に開かれた坂である。

| | コメント (0)

2017年10月22日 (日)

今井坂(小石川)

坂下は巻石通り(神田上水)、坂上は春日通りの竹早高校近くで、春日通りが小石川の背骨にあたる筋を走っているので、坂上の標高が25m、坂下が7mとかなりの高低差がある。 しかし辺りの地形は2段階の河岸段丘なのでそれほどの急坂には感じない。
Dscn2406
巻石通りから入るとすぐに金富小学校。 明治41年(1908)の開校。小学校の前に坂の説明板が立っている。 今井坂の別名は新坂。
「『改選江戸志』には、「新坂は金剛寺坂の西なり、案に此坂は新に開けし坂なればとてかかる名あるならん、別に仔細はあらじ、或はいふ正徳の頃(1711~16)開けしと、」とある。新坂の名のおこりである。
今井坂の名のおこりは、『続江戸砂子』に、「坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平桜(今井四郎兼平の名にちなむ)と名づけた大木があった。これにより今井坂と呼ぶようになった。」とある。
この坂の上、西側一帯は現在国際佛教学大学院大学になっている。ここは徳川最後の将軍、慶喜が明治34年(1901)以後住んでいたところである。 慶喜は自分が生まれた、小石川水戸屋敷に近いこの地を愛した。 慶喜はここで、専ら趣味の生活を送り、大正2年(1913)に没した。 現在、その面影を残すものは、入口に繁る大公孫樹(おおいちょうのき)のみである。」
Dscn2410
 
この仏教学大学院大学の敷地は江戸時代は大久保長門守の下屋敷であった。 大久保家は静岡県の小大名で江戸中期は沼津市松永の領主(11,000石)、その後神奈川厚木に国替えし、厚木市荻野あたりを治めた。 またさらに昔はこの辺りは中世の城が築かれていたという話もある。
 

| | コメント (0)

金剛寺坂(小石川)

金剛寺坂、別名蝙蝠坂、新鳶坂とも呼ばれた。 新坂(今井坂)と安藤坂の間の坂。 この辺りの坂は坂下がほぼ神田上水跡の巻石通りである。 神田川の標高が4m、巻石通りが7mと、神田川より3m高いところに江戸川橋上流で取水した上水を流していた。 ここに上水を通した理由は地形図を見るとわかる。 神田川が小石川台地を削った河岸段丘は2段になっており、下の段の縁がこの神田上水の筋だったのである。

Dscn2402
金剛寺坂の由来については坂の途中の説明板に次のようにある。

「江戸時代、この坂の西側、金富小学校寄りに金剛寺という禅寺があった。 この寺の脇にある坂道なので、この名がついた。 小石川台地から、神田上水が流れていた水道通り(巻石通り)に下る坂の一つである。

この坂の東寄りで、明治12年に生まれ、少年時代を過ごした永井荷風は、当時「黒田小学校(現在の旧第五中学校のある所、昭和20年廃校)」に、この坂を通って通っていた。荷風は昭和16年久しぶりにこの坂を訪れ、昔を懐かしんでいる様子を日記に記している。」

Dscn2405
坂上のマンション敷地の石垣がなかなかいい雰囲気。 東都小石川絵図を見ると門前町の間に数軒の武家屋敷があり、石垣の所は岡田李太夫とある。 調べたが何も出てこないので、普通の中流武士だったのだろうか。 元禄時代には金剛坂の上に御用屋敷が設けられ、鷹狩りの関係者が住んでいたとも伝えられるので、その関係筋だろうか。

Dscn2403
金剛坂下半分の途中には丸の内線の跨線橋がある。 茗荷谷からここまでが丸の内線が地上を走る区間のひとつ。跨線橋のすぐ東に地下軌道への入口。 上の写真の左側が小石川台地がわ、右側が神田川側で、ここがまっすぐに切れ落ちる河岸段丘だったことがわかる。

| | コメント (0)

牛坂(小石川)

安藤坂のカーブは大曲というらしい。 安藤坂を下って大曲で左の路地に入る。 市電が通るまではこちらがメインルート。 路地に入ると正面に北野神社(牛天神)の急峻な階段が見えてくる。鳥居は階段の上、階段下には「北野神社」と彫られた大きな石塔と竹製の門がある。 竹製の門の上部は丸く穴があけられ、そこに提灯が下がっている。「牛」「天」「神」の3つの提灯が印象的。

Dscn2390
階段は昔からの石組み。 コンクリートに比べて踏んだ感触はいささかいびつだが、この感触は昔の人が感じたものと同じだと思うと感慨深い。 これだけの高低差は神田川(江戸川)が小石川の台地を削っでできたものだ。

牛天神からの眺めは現在でもなかなかのものがある。 葛飾北斎の富嶽三十六景の中の唯一の雪景色が『礫川雪ノ旦(こいしかわゆきのあした)』で牛天神にあった茶屋からの富士の眺めを描いている。崖下に見える江戸川(神田川)が想像以上に広いが、鎌倉時代辺りまで遡るとほぼ入江だっただけにあながち誇張ではないだろう。

Dscn2396
牛天神北野神社は元暦元年(1184)の源頼朝の創建と伝えられる。境内には『ねがい牛』という自然石が祭られており、撫でると願いがかなうという。牛天神の裏にある道が牛坂である。 牛天神と古い石垣に挟まれた名坂である。

Dscn2393
坂の途中に説明板が立っている。

「北野神社(牛天神)の北側の坂で、古くは潮見坂、蛎殻坂、鮫干坂など海に関連する坂名でも呼ばれていた。 中世は、今の大曲あたりまで入江であったと考えられる。牛坂とは、牛天神の境内に牛石と呼ばれる大石があり、それが坂名の由来といわれる。(牛石はもと牛坂下にあった)

『江戸志』には、源頼朝の東国経営のとき、小石川の入江に舟をとめ、老松につないでなぎを待つ。その間、夢に菅神(菅原道真)が牛に乗り衣冠を正して現れ、ふしぎなお告げをした。夢さめると牛に似た石があった。牛石がこれである、と記されている。」

Dscn2397
再び安藤坂に戻り、かつての小石川区役所の敷地(が更地になっているのをいいことに牛坂を遠望してみた。 小石川区役所はその後小石川保健所となったが今は文京区役所に移転し、ここは更地になっている。ここから見える牛坂はなかなかの坂である。

この坂下まで入江だったというのは、ここまで潮が上がってきたという事である。源頼朝はここに舟を着けて牛天神を開いた。今の東京の街を考えると想像しにくいが、地形を見ると容易に解る。

| | コメント (0)

安藤坂(小石川)

伝通院正門から旧江戸川(神田川)へ下る坂道。 坂の途中に説明板がある。

「この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。 江戸時代から幅の広い坂道であった。 傾斜は急であったが、明治42年(1909)に路面電車(市電)を通すにあたり緩やかにされた。 坂の西側には安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」、戦後になって「安藤坂」と呼ばれるようになった。古くは坂下の辺りは入り江で、漁をする人が坂上に網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛(おたかがかり)の組屋敷があって鳥網を干したことから「網干坂」とも呼ばれた。」

Dscn2381
坂下牛天神前で西に曲がっているが、これは明治に電車道になった時に改修された道。 それ以前は坂下で牛天神方向に曲がり、牛天神の階段下で再び南に下って神田上水に出る道筋だった。神田川は江戸時代にはこの辺りに船宿があったほど川幅が広く流れの豊かな川だった。 安藤坂は当時江戸でも有名な急坂で九段坂とも呼ばれていたのである。(靖国神社前の九段坂も急な坂だった)

Dscn2380
坂幅は昔から広かったようだ。坂の東側には「萩の舎(はぎのや)跡」がある。塾主中島歌子(1844~1903)が開いた歌の塾で、門弟は1000人を超えたという。 塾生には若き時代の樋口一葉もいた。

Dscn2376
この坂を歩いていて私が引っかかったのは、日本指圧専門学校前の浪越徳次郎の銅像だった。 ほぼ伝通院の門前にある。アフタヌーンショーの 「指圧の心は母心 押せば命の泉湧く」というフレーズは私の年代には忘れられないものだ。

| | コメント (0)

善光寺坂(小石川)

六角坂を下って左に曲がる。 すぐに変則五差路にあたるが、左に直角に曲がる道を進む。 道の先に山門が見える。江戸時代はこの辺りからすでに伝通院の境内であった。 江戸時代にはここに善光寺という寺院はなかった。創建は慶長7年(1602)で、伝通院の塔頭(たっちゅう)として縁受院(あるいは縁請院)の名で寺町の東端に建てられた。

Dscn2365
この先伝通院に上る坂道が善光寺坂である。 縁受院は明治17年(1884)に善光寺と改称し、信州善光寺の分院となった。 そのため善光寺坂の名前は明治以降につけられた名前である。 ゆるやかに曲がりながら上っていく風景は情緒がある。 ビルがなければもっといいのだが、東京ではそれは叶わない。

Dscn2366
善光寺の隣には沢蔵司稲荷(たくぞうすいなり)がある。 江戸時代初期伝通院の坊主に沢蔵司という類稀なき優秀な僧がいた。 それが実は稲荷神だということで伝通院の住職がここに稲荷を祀ったのが始まり。説明板には次のような逸話?が書かれている。

『東京名所図会』には、「東裏の崖下に狐棲の洞穴あり」とある。今も霊窟(おあな)と称する窪地があり、奥に洞穴があって、稲荷が祀られている。伝通院の門前のそば屋に、沢蔵司はよくそばを食べに行った。沢蔵司が来たときは売り上げの中に必ず木の葉が入っていた。主人は沢蔵司は稲荷大明神であったのかと驚き、毎朝「お初」のそばを供え、いなりそばと称したという。

またすぐ前の善光寺坂にムクノキの老樹があるが、これには沢蔵司が宿っているといわれる。道路拡幅の時、道を二股にして避けて通るようにした。

Dscn2370
このムクノキ、戦災で上部が焼けてしまったがそれ以前は23mの樹高があった。推定樹齢は約400年。 焼けたものの樹勢は強く、焼け残った南側から枝を伸ばして復活している。 空襲を乗り越えた巨樹はある種神々しさを感じさせるが、沢蔵司の物語も併せると、御神木にふさわしい巨樹だと言える。

Dscn2373
坂上の伝通院の正式名は(浄土宗)無量山寿経寺伝通院。 慶長8年(1603)に徳川家康が生母お大をこの地に葬った。 将軍家に守られた大きな寺院である。 江戸時代は常時1000人もの学僧が修行をしていたという。 今はかなり狭くなったが当時はこの何倍もの境内が広がっていた。

坂の説明板が坂途中にあるのでその説明を付記。

坂の途中に善光寺があるので、寺の名をとって坂名とした。善光寺は慶長7年(1602)の創建と伝えられ、伝通院(徳川将軍家の菩提寺)の塔頭で、縁受院(えんじゅいん)と称した。明治17年(1834)に善光寺と改称し、信州の善光寺の分院となった。したがって明治時代の新しい坂名である。坂上の礫川(れきせん)や小石川の地名に因む松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。

     “一(ひと)しぐれ 礫(つぶて)や降りて 小石川”  はせを(芭蕉)

また、この界隈には幸田露伴(1867~1947)、徳田秋声(1871~1943)や島木赤彦(1876~1926)、古泉千樫(1886~1927)ら文人歌人が住み活躍した。

| | コメント (0)

2017年10月21日 (土)

六角坂(小石川)

中央大学前から小石川大神宮を経て北へ進む道筋。 堀坂上からさらに北に行くと途中から下り坂になる。 坂の途中に六角坂の説明板が立っている。 坂は急に右に曲がって下り、堀坂下からの道に出合う。

Dscn2358
上の写真の左側(西側)は江戸切絵図を見ると「六角帯刀」とある。 その先の曲がり角より北側は江戸時代は伝通院の境内だった。 坂の途中の説明板には次のように書かれている。

「六角坂は上餌差町より伝通院の裏門の前に出る坂なり、古くより高家六角氏の屋敷の前なる坂故にかくいへり」(『改選江戸志』)とある。『江戸切絵図』(万延2年(1861)の尾張屋清七版)をみると、この坂が直角に曲がっているあたりに六角越前守の屋敷があったことがわかる。

餌差町は、慶長年間(1596~1615)、鷹狩りの鷹の餌となる小鳥を刺し捕らえることを司る「御餌差衆」の屋敷が置かれたところである。 近くに歌人・島木赤彦が下宿し、『アララギ』の編集にあたった「いろは館」があった。

Dscn2362

御餌差衆はいわゆる鷹匠の配下である。鷹匠の要請で関東一円に出かけて小鳥を捕っていた。 武士ではなく町民が多かった。 殿様が鷹狩りの折に、鷹が捕る獲物をあらかじめ用意しておいて放し、鷹がそれを捕まえると「お見事!」とおべんちゃらをいうシステムである。

江戸時代も近現代もやっていることは似ているものだ。ちょうどゴルフの「ナイスショット!」みたいなものだと思えばよい。 ナイスショットしてくれないと社長さんは不機嫌になり、それが何より困る、というのは日本独特の接待ゴルフのあるある。 これははるか昔から培われてきた日本人の組織の特徴と言えそうだ。

| | コメント (0)

2017年10月20日 (金)

堀坂(宮内坂)

富坂のある春日は昔から交通の要所だった。東西に春日通りが、南北に白山通りが走る。その北西側、大塚へ伸びる道は昔は谷端川(やばたがわ)だった。豊島区要町を源頭に椎名町まで南下したかと思うと、急に北に流れを転じ池袋の北の下板橋まで、そこからまた流れを南に急転し大塚駅を横切り、小石川から春日そして後楽園を突っ切り神田川に流下した。 現在は暗渠になっている。

Dscn2615

小石川の坂はほぼこの谷端川が武蔵野台地を削ってできた地形による坂である。 富坂もそうだし、この堀坂も同様だ。 堀坂の別名は宮村坂(くないざか)、源三坂。 まっすぐに伸びた坂で、いかにも切り開いた感じがする。 坂の途中に説明板がある。

「堀坂は中富坂町の西より東の方。すなわち餌差町に下る坂をいふ。もと其の北側に堀内蔵助(ほりくらのすけ)2,300石の邸ありしに因れり。今坂の中途に〝ほりさか″と仮字にてしるしたる石標あり。此坂は従来宮内坂または源三坂と唱へたるものにて。堀坂といへるは其後の称なりといふ」(『新撰東京名所図会』)

この場所の北側に旗本堀家の分家利直(のちに利尚、通称宮内)の屋敷があったことから、この坂は別名「宮内坂」と名づけられた。また、当時の名主鎌田源三の名から「源三坂」ともいわれた。「堀坂」という名称は、文政(1818~30)の頃、堀家が坂の修復をして「ほりさか」と刻んだ石標を建てたことからいわれるようになった。 坂下にこんにゃくえんまの伝説で名高い「源覚寺」がある。

Dscn2619
こんにゃくえんまは面白い名前だが、宝暦(1751~1763)の頃、眼病の老婆が願を掛けたところ、閻魔が自分の片目を与えた。 老婆は好物のこんにゃく断ちをしてそれを供え続けたという伝説が面白い。

ここには元禄3年(1690)の釣り鐘があり、汎太平洋の鐘と言われている。 戦争に際して鉄砲玉用にサイパンに供出されたが、その後米国のテキサス州にあることがわかり、サンフランシスコ祭りに展示されたのちに源覚寺に戻ってきたものだ。

Dscn2349
都会の路地裏のような寺だが参詣客は多い。 この近くにはもう一つ興味深い神社がある。 小石川大神宮だ。 まるで古いマンションの駐車場の入口のような神社。

Dscn2620
ビルの裏に社殿がある。 創建は昭和41年。 私よりもずっと若い。 神社って作れるのかと、とても不思議に感じた。 伊勢神宮の分社のような位置づけで、異例の出来事で創建されたようだ。 さすが八百万の神の国である。

| | コメント (0)

2017年10月19日 (木)

富坂(西富坂)

春日駅は谷合いの立地である。 東富坂(真砂坂)から下ってきた春日通りは、文京区役所を過ぎると上りに転じる。 区役所の前で東西を眺めるとどちらも上り坂。 昔の富坂は地下鉄丸ノ内線脇を下り(旧東富坂)、今の区役所辺りから礫川公園を通り、中央大学前のカーブで現在の道筋に繋がるのが昔の道筋だ。

Dscn7463
礫川公園前に説明板が立っている。

「とび坂は小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、えさし町より春日殿町へ下る坂、元は此処に鳶多して女童の手に持ちたる肴をも舞下りてとる故とび坂と云」と『紫の一本』にある。鳶が多くいたので鳶坂、転じて富坂となった。

また春日町交差点の谷(二ヶ谷)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため飛坂ともいわれた。そして、伝通院の方を西富坂、本郷の方を東富坂ともいう。 都内に多くある坂名の一つである。

この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し、〝アララギ″の編集にあたっていた。

Dscn2622
坂上から眺めるとバブリーな文京区役所の形が独特である。 区役所、礫川公園、東京ドーム、後楽園ゆうえんちを含む南の一帯は、関東大震災辺りまで砲兵工廠(ほうへいこうしょう)だった。 ここで陸軍の武器を製造していたのである。 ドームや遊園地で楽しむ人々はそのことを九分九厘知らないだろう。

| | コメント (0)

2017年10月18日 (水)

曙坂(白山)

福山坂下から富士見湯の前を進み最初の路地を右に入る。 路地は石垣に突き当たり北に向きを変える。 見事な本郷台地の崖である。 崖の高さは10m以上ある。間もなく東側に階段坂が現れる。 曙坂である。

Dscn3533

坂下の石碑は一見古そうだが、昭和22年とある。 この坂も戦後復興で整備された坂なのだろうか。 昔の写真を見ると土がむき出しになり、1m間隔で石の雁木が敷かれた坂だったようだが、その後今のコンクリート坂に改修された様子。 関東大震災前の地図をみるとこの道は既に開かれている。当時は凄い坂だったに違いない。

Dscn3535
坂上の説明板には次のように書かれている。 「『江戸砂子』によれば、今の白山、東洋大学の北西は、里俗に鶏声ヶ窪(けいせいがくぼ)といわれるところであった。 明治2年(1869)に町ができて、鶏声暁にときを告げるところから、あけぼの(暁と同じ)を取り町名とした。 この坂の場所と、旧曙町、鶏声ヶ窪とは少し離れているが、新鮮で縁起の良い名称を坂名にしたのであろう。

この坂は西片と白山を結び、人々の通学や生活に利用されてきた。 昭和22年(1947)には旧丸山福山町・曙会の尽力により石段坂に改修された。」

別名は徳永坂。 その由来はわからない。 坂上を北に進むと、誠之館(せいしかん)跡がある。福山藩が江戸詰めの藩士の子弟のために設けた藩校で、現在も誠之小学校(区立)として続いている。小学校としての歴史は140年だが、藩校は1855年の開校なので、さらに22年ほど前からここは学び舎だったわけだ。

| | コメント (0)

2017年10月17日 (火)

福山坂(新坂)

福山坂の辺りは、江戸時代は福山藩阿部家の中屋敷で、福山坂は江戸時代には存在していない。 明治時代に開かれた坂である。 明治になって1万坪を残して5万坪を貸したというが、明治初期の地図を見ても残された庭の一辺が200mほどもある屋敷である。
Dscn3527
坂の途中の説明板には、「『新撰東京名所図会』に、「町内(旧駒込西片町)より西の方、小石川掃除町に下る坂あり、新坂といふ」とある。この坂上の台地にあった旧福山藩主の阿部屋敷へ通じる、新しく開かれた坂ということで、この名がつけられた。また福山藩に因んで、福山坂ともいわれた。新坂と呼ばれる坂は、区内に六つある。
坂の上一帯は、学者町と言われ、夏目漱石はじめ多くの文人が住んだ。西側の崖下一帯が、旧丸山福山町で、樋口一葉の終焉の地でもある。」と書かれている。
Dscn3530
坂下の十字路に椎の木稲荷がある。福山邸の庭にあったという椎の木は高さ12m、幹回り6mの見事な大樹だったというが、戦災で焼けてしまった。
坂下の椎の木の前の道には江戸時代には川が流れていた。明治になってからもこの川は開渠で、今の白山駅辺りから流下していた。そういう場所にはかなりの確率で銭湯があるものだが、ここも例にもれず富士見湯という素晴らしい外観の銭湯がある。先代のオーナーが大正期に買い取った銭湯らしい。文京区ではここだけが番台を残している。とはいえ文京区に残っている銭湯は6湯っきりになってしまった。
 

| | コメント (0)

2017年10月16日 (月)

石坂(西片町)

文京区西片一丁目、昭和40年までの旧町名は田町。俗にいう丸山に属し、古くは菊坂田町と称した。一帯は昔、田畑と菊畑であったので菊坂田町。寛永5年(1628)御中間方拝領地となり、元禄9年(1696)頃町屋が開かれた。この田町という旧町名は白山通り西片から菊坂下までの狭い地区の地名である。そこから備後福山藩中屋敷のある台地に上って行く坂が石坂である。

Dscn3522
坂の途中に説明板がある。「町内より南の方(かた)、本郷田町に下る坂あり、石坂とよぶ」『新撰東京名所図会』この坂の台地一帯は、備後福山藩(11万石)の中屋敷を幕府の御徒(おかち)組、御先手組の屋敷であった。

明治以降、東京大学が近い関係で多くの学者、文人が居住した。田口卯吉(経済学者・史論家)、坪井正五郎(考古学・人類学者)、木下杢太郎(詩人・評論家・医者)、上田敏(翻訳者・詩人)、夏目漱石(小説家)、佐佐木信綱(歌人・国学者)、和辻哲郎(倫理学者)など有名人が多い。そのため西片町は学者町といわれた。

Dscn3525
福山藩阿部家は明暦の大火の別説の火元の老中屋敷である。明治になってから6万坪の屋敷の内、1万坪を自宅に残して、後を貸地として公開した。それで学者たちが平均百坪程度づつ借りて住むようになった訳である。

| | コメント (0)

2017年10月15日 (日)

金魚坂(本郷)

本郷菊坂の坂上近くにある路地。 一見すると、戦後金魚屋が適当に付けた坂名のように見えるが、実はさにあらず。 歴史ある金魚屋で、坂名も江戸末期からあるものなのである。

Img_4241
2016年に訪れた時、菊坂側は更地になっていた。 この土の面の段差は江戸期からの土地の記憶である。 段になって坂奥が高くなっていく。 2017年に再訪すると、さすがにこの更地はビルになってしまっていた。

Dscn7516
坂奥の金魚屋は健在。 何せ本物の老舗である。

金魚坂(旧 吉田晴亮商店)の創業は1854〜1859年頃 (安政年間)。元は、吉田晴亮商店を名乗った金魚・錦鯉の専門問屋。現在では、魚料理やカレーを出すカフェや、金魚すくいができる釣り堀などを併設。金魚のテーマパークのような憩いの場となっている。

Dscn7520
この金魚屋、自称では創業350年とうたっている。 しかし金魚は古くから日本の文化として、庶民の間に浸透してきた。 店を構える前に行商を代々やっていた可能性は否定できない。 現金魚屋女将は7代目という。 それから計算するとやはり、江戸末期が適当だろう。 しかしここもいつまでも頑張ってほしい老舗の一つである。

| | コメント (0)

菊坂(本郷)

本郷の菊坂は東京でも有名な坂の一つ。 中山道であった本郷通りから西片近くの菊坂下までは650m、坂上標高20m、坂下は9mで11mの高低差の緩やかな坂道である。 この坂は川が本郷台地を削った谷筋で、関東大震災前の地図には本妙寺坂の先まで開渠になっている。 坂上本郷通りの別れの橋跡はこの川がまだ加賀藩上屋敷(現東京大学)から流れていたころに掛かっていた橋の名である。

Dscn2493

菊坂下に入って最初の路地が胸突坂だが、本来は胸突坂が菊坂であった。 しかし、江戸時代以降菊坂町という町名になってからはこの菊坂町筋が菊坂と呼ばれるようになっていった。 この菊坂を中心にいくつもの坂が合流している。 また、南側に並行する暗渠筋の路地(菊坂下道)との間には落差があり、いくつもの魅力的な階段道が通されている。

Dscn2499
少し坂を上ると蔵が目に入る。 樋口一葉(1872~1896)が菊坂の家に住んでいたときから、生活が苦しくなるたびに通った質屋で、彼女が下谷区竜泉町に移ってからも通ったという伊勢屋質店の跡だ。 この少し先には宮沢賢治の旧居跡、北側の梨木坂には田宮虎彦、
本妙寺坂辺りには石川啄木が住んでいた。

Dscn7494
菊坂の説明板は坂の途中の長泉寺の入口にある。 入り口は狭いが奥は広い墓所が広がり、本妙寺坂上からも入ることができる広い寺である。 入り口脇の菊坂の説明板には次のように書かれている。

「此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候に付、同所の坂を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由」(『御府内備考』)とあることから、坂名の由来は明確である。今は、本郷通りの文京センターの西横から、旧田町、西片一丁目の台地の下までの長い坂を菊坂と言っている。また、その坂名から樋口一葉が思い出される。一葉が父の死後、母と妹の三人華族の戸主として、菊坂下通りに移り住んだのは、明治23年(1890)であった。今も一葉が使った掘抜き井戸が残っている。

Dscn7521
坂上本郷三丁目付近はいささか雑居感が強くなり、江戸風情はなくなる。 昔の菊坂は菊坂下から半分くらいまでを言ったようだ。 ただし文豪の様々な説明板はこの坂上まで街路灯などに設置されていて、それを目的にした散策グループも多い。

菊坂辺りは空襲で焼けなかったところが多く、その為古い民家がまだ残っていたりするが、さすがに戦後70年を超えてそろそろ再開発の波が押し寄せてきている。 本妙寺坂の赤心館に住んでいた石川啄木が生活苦に死を考えていた時、金田一京助が彼を援助して引っ越させた蓋平館(のちの旅館大栄館)もマンション化のため崩されてしまった。

菊坂界隈の魅力を味わえる残りの時間はそう多くないかもしれない。

| | コメント (0)

本妙寺坂(本郷)

徳川家康が全国を平定してから半世紀、江戸の町は安定した平和な街になっていた。 江戸に攻め入る大名は最早皆無で、戦国時代から安土桃山時代を経てついに日本に平和が訪れた時期でもあった。 しかし、人間の敵は人間のみにあらず、明暦3年(1657)3月、歴史上最大の都市火災に見舞われることになった。 これが世にいう明暦の大火である。火元については諸説あるが、もっとも知られているのが本郷丸山の本妙寺出火説だ。

Dscn7496
菊坂と交差して北も南も坂になっているこの道が本妙寺坂。 電柱に長泉寺の案内があるが、江戸時代はこの坂上に本妙寺と長泉寺の二つの大きな寺があった(本妙寺は現在豊島区巣鴨に移転)。 この北側の坂を上ると、東側のプラウド本郷の前に説明板がある。

Dscn7497
本妙寺には遠山の金さん(遠山左衛門尉影元)や幕末の剣豪千葉周作らの墓所があった。 諸説があって本妙寺火元説はかなり怪しくなっているが、振袖火事の別名を持つこの本妙寺説が物語としては庶民に受け入れられやすいためにこの説が主流になったのではないだろうか。

麻布の裕福な質屋の娘、梅乃が墓参に本妙寺に来た帰り、上野の山で出会った美少年に一目惚れした。 梅乃は寝ても覚めても少年のことが忘れられず、寝込んでしまう。 両親は不憫に思い、少年が着ていたのと同じ柄の振袖をしつらえ、梅乃はそれを抱いて死んでいった。 両親は娘の棺にこの振袖を掛けて本妙寺に葬った。

当時はこういうものは寺男たちがもらっていいことになっていて、転売され上野の町娘キクのところに。 ところがキクも間もなく他界し、再び御棺に振袖はかけられ、元の本妙寺に葬られた。 本妙寺の寺男たちはさすがに因縁を感じ、寺で焼いて供養しようととすると、この振袖が燃え上がりながら空に舞い上がり、寺を焼き尽くした。 折から季節風の強い冬のことで、あっという間に江戸中に延焼し、外堀の内側のほとんど、江戸城も含めて焼き尽くしたという話である。

Dscn7502
菊坂は谷筋である。 しかも北西から南西に切れこんだ谷。 山釣り人は谷を駆ける風をしばしば経験するが、冬の季節風の時期、谷を駆けのぼる風が吹いていたのだろう。また別説の一つに、菊坂下の北側にあった老中阿部家の屋敷が火元だったが、老中の阿部家が火元となると幕府の威信に関わる為、本妙寺が罪をかぶったというのがある。 こっちのほうが正しいのではないかと(私は)思っている。 その証拠に、本妙寺は取り潰しにならず、幕末まで優遇されたという事実がある。

南側の坂の途中に本妙寺坂の説明板がある。「この坂は、本郷の台地から菊坂へ下っている坂である。菊坂を挟んで真向かいの台地にには(現在の本郷5-16あたり)かつて本妙寺という法華宗の寺があった。境内が広い大きな寺で、この寺に向かって下る坂であったところから本妙寺坂と呼ばれた。 本妙寺は明暦の大火(振袖火事・明暦3年-1657)の火元として有名である。明治43年豊島区巣鴨5丁目に移転した。」

Dscn7504
今、江戸城跡(皇居)に天守閣がないのは、この明暦の大火以降再建されなかったからである。 明暦の大火は江戸の三分の二を焼き尽くし、3万人近い死者を出したが、これ以降江戸幕府はさらに安泰となり、数十年後の元禄時代には江戸文化が最盛期を迎えた。

昔は天変地異などがあると年号を変えることが多く、明暦の大火のあと、明暦は天皇の崩御とは関係なく万治に変更された。 どうせ西暦を使う時代なのだから、昔のようにフレキシブルに政府も対応すればいいのだと思う。 平成は東日本大震災の時に変更され新しい年号になっていれば世の中ももっと違ったのではないかと思う。 最も当時の菅政権にはひっくり返ってもできなかっただろうことも事実ではある。

| | コメント (0)

炭団坂(本郷)

樋口一葉旧居跡の路地に入る菊坂に閉口した路地を南東に歩く。  菊坂との間には3m近い段差があるので、所々に階段道がある。 梨木坂向かいの細い階段の先に、宮沢賢治旧居跡の階段がある。 その10mばかり手前に南に入っていく細い路地がある。 これが炭団坂への入口だ。

Dscn7484
車は通れないと思っていたが、以前散歩した時炭団坂下に軽自動車が止まっていた。 よくこの路地に入ったものだ。 昔は菊坂の谷は菊坂町、坂上は真砂町と呼んだ。 真砂町は寛永(1624~1644)以来、真光寺門前と称して桜木神社前の一部だけが町屋であった。 明治になって武家屋敷町だった真砂町は多くの民家に変わっていった。 真砂町は昭和40年に本郷4丁目に改名されてしまったが、やはり真砂町の方がはるかにしっくりくる。

Dscn7487
路地の奥まで進むと昭和風の門構えのところから階段になる。 これが炭団坂。 別名を初音坂という。 この辺りは昔は樹木が鬱蒼としており、鶯やホトトギスの声が菊坂の谷間に聴こえていた。 それで初音坂となったようだ。 炭団坂の坂上を真っすぐに進むと建部坂に繋がる。 建部坂も別名を初音坂という。

坂の途中にある説明板には次のように書かれている。「本郷台地から菊坂の谷へ下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということから付けられたと言われている。台地の北側の斜面を下る坂の為にジメジメしていた。今のように階段や手すりがない頃は、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。この坂を上り詰めた右側の崖の上に、坪内逍遥が明治17年(1884)から20年(1887)まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表した。」

Dscn7489
坂上には坪内逍遥の説明板もある。逍遥は自宅を「春廼舎(はるのや)」と呼び、当時は「春廼舎は東京第一の急な炭団坂の角屋敷、崖渕上にあった」とされているので、まさにこの手摺りの向こう側が坪内逍遥の家だったわけだ。 逍遥宅はその後明治20年には伊予藩主久松氏の育英事業として、「常磐会」という寄宿舎になった。俳人正岡子規は翌年からここに入り、その他多くの俳人が集まった。 子規の詩に次のような句がある。

ガラス戸の外面に夜の森見えて清けき月に 鳴くほととぎす (常磐会寄宿舎から菊坂を望む)。 まさに上の写真の場所から明治初期の菊坂の風景を望んだとき、この谷は自然あふれる谷だったのであろう。

| | コメント (0)

2017年10月14日 (土)

梨木坂(本郷)

梨木坂、別名を梨坂という。 菊坂の途中北側に上る路地の坂道である。 入口両脇には時代を忘れたように、リヤカーと道路にはみ出した植木があり、江戸の坂道の雰囲気を盛り上げている。 前に来た時にはリヤカーはなかったので、たまたまかもしれないが、今時リヤカーが置いてあるだけで昭和へワープしてしまいそうである。

Dscn7507
坂上近く、天理教手前に説明板が立っている。 「梨木坂は菊坂より丸山通りなり。むかし大木の梨ありし故坂の名とす」と『御府内備考』にある。また、『南向茶話』には、「戸田茂睡(『紫一本』の著者、1629~1706)という人が、この坂のあたりに住んでおり、梨本と称した」とある。
 いっぽう、江戸時代のおわり頃、この坂のあたりは、菊の栽培が盛んで、菊畑が広がっていたが、この坂のあたりから菊畑がなくなるので、「菊なし坂」といったという説もある。戦前まで、この近くに古いたたずまいの学生下宿が数多くあった。

Dscn7509
坂上は胸突坂の坂上に出合う。 この坂の西側は崖になっていて、途中の民家がかつて使ってたであろう急な階段が残っている。 しかし坂上は平凡な印象。 やはりこの坂は坂下からの眺めがすべてである。 坂下の菊坂の向かいに魅力的な階段路地が、菊坂に並行する川跡の道に繋がっている。

| | コメント (0)

2017年10月13日 (金)

樋口一葉旧居跡の階段路地

鐙坂の途中、金田一京助・春彦旧居跡の下に民家に入っていくような路地がある。 本当に人々が暮らしている路地なので、ゆっくり散策というような訳にはいかないので、すっと通り抜けるのが礼儀だろう。

Dscn7477
石垣沿いに進み、その先を左折すると、階段から視界が広がる。 下見板の大正・昭和の名残りの壁、そこに張り付けてある文京区本郷四丁目31の住居表示板。 それは昔の小説家が眺めたであろう景色とほとんど違いのない風景が目の前に現れる。

Dscn7479
鉄製の手すりもいい。 立てかけてある梯子も素晴らしい。 この短い階段、14段とその3mほどの高低差が見せてくれるものはまるで時代をワープしたような感覚である。 階段下は樋口一葉旧居跡。

Dscn7481
この階段は多くの雑誌などにも取り上げられた、東京でも有名な場所。 それだけに通行禁止にならないように訪問時は心掛けたい。 階段下には、樋口一葉も使ったと伝えられる井戸が今も残っている。

| | コメント (0)

2017年10月12日 (木)

鐙坂(本郷)

鐙坂は菊坂周辺の坂の中でも秀逸の名坂である。 坂下から見上げる景色も、坂上から望む景色も素晴らしい。 馬の鞍に下げる鐙(あぶみ)を作る職人がいた、あるいは坂の形が鐙に似ているというのが坂名の由来。

Dscn7475
坂の西側の見事な石垣の上は財務省関東財務局の真砂住宅(官舎)。 江戸時代は松平右京亮の大きな大名屋敷だった。 坂下の古い門構えの屋敷の塀前に説明板がある。 説明板の下には、文京区の景観賞のプレートがついている。

「本郷台地から菊坂の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。名前の由来は「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」(『江戸志』)とか、その形が「鐙に似ている」ということから名づけられた(『改撰江戸志』)、などといわれている。 この坂の上の西側一帯は上州高崎藩主大河内家松平右京亮の中屋敷で、その跡地は右京山と呼ばれた。」 と書かれている。

Dscn7469
坂上の木造建築は金田一京助・春彦の旧居跡。 この地に住んでいた金田一京助は同郷盛岡から上京した石川啄木の最大の援助者であった。 この建物がその家だったかどうかはおそらく違うと思うが、なかなか魅力的で情緒深い昭和の民家である。 坂の途中の路地は、樋口一葉旧居跡に抜ける有名な路地だが、生活の中にある路地なので失礼のないように歩くことを心掛ける必要がある。

| | コメント (0)

2017年10月11日 (水)

見送り坂と見返り坂(本郷)

菊坂の坂上は本郷通りにぶつかる。 菊坂はもともとは川筋で、本郷通りのこの辺りはその源頭にあたる。 菊坂と並行した路地があるがもとは川である。 そんな地形を意識して、本郷三丁目交差点近くに立つと、先も後ろも上り坂になっているのに気づく。

Dscn7526
湯島方面を遠望するとわずかに上り坂になっている。 菊坂の出合いの所が一番低い。 そして、東大赤門方面を見るとこちらも緩やかな上り坂。

Img_4247
脇にある説明板には次のように書かれている。

別れの橋跡・見送り坂と見返り坂

「むかし太田道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃追放の者など此処より放せしと・・・・・・いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を掘出せり。是なんかの別れの橋なりしといひ伝へり・・・・・・太田道灌(1432~86)の頃罪人など此所よりおひはなせしかばここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや」と『改撰江戸志』にある。
 この前方の本郷通りはややへこんでいる。むかし、加賀屋敷(現東大構内)から小川が流れ、菊坂の谷にそそいでいた。『新撰東京名所図会』(明治40年刊)には、「勧業場所、一条の小渠(しょうきょ)、上に橋を架し、別れの橋といひきとぞ」とある。
 江戸を追放された者が、この別れの橋で放たれ、南側の坂(本郷3丁目寄)で、親類縁者が涙で見送ったから 見送り坂。追放された人が ふりかえりながら去ったから見送り坂といわれた。
 今雑踏の本郷通りに立って 500年の歴史の重みを感じる。

Dscn7524
江戸を追放された者がこの別れの橋で放たれ、南側の坂で親類縁者が見送ったから「見送り坂」。 追放された人が振り返りながら去ったから「見返り坂」という呼び方は風流かつ叙情的ないい呼び名である。

交差点近くの小間物屋かねやすは享保年間の創業からおよそ300年営業している。 江戸時代の川柳には、「本郷も かねやすまでは 江戸の内」という句があり、そこいらの江戸末期の老舗がかすんで見える。 創業当初、歯科医の兼康祐悦が売り出した乳香散(歯磨き粉)が大流行した話がある。 現在は洋品雑貨を扱っている。

| | コメント (0)

2017年10月10日 (火)

東富坂(真砂坂)

東富坂は新しい坂である。 元の旧東富坂には路面電車を通すことが出来ず、明治時代末期に春日通りとして新道を開設した。 今は大通りで、広々とした坂を多くの車が上り下りする。

Dscn7460
坂下の文京真砂アパート脇に説明板が立っている。

「東富坂(真砂坂)  本来の東富坂は、この坂の南を通る地下鉄丸ノ内線に沿った狭い急坂である。 現在は「旧東富坂」と呼んでいる。 もともとの坂は江戸の頃、木が生い繁り、鳶がたくさん集まってくることから「鳶坂」といい、いつの頃からか富坂と呼ぶようになったという。

現在の東富坂は、本郷三丁目から伝通院まで、路面電車(市電)を通すにあたり、旧東富坂上から春日町交差点まで新しく開いたゆるやかな坂である。 この市電は、1908年(明治41年)4月11日に開通した。 現在文京区役所を挟んで反対側にある坂を、「富坂(西富坂)」と呼び区別している。」

Dscn7458
坂の北側には江戸時代は松平右京亮の中屋敷があり、辺りは右京ヶ原と呼ばれた。 小説『姿三四郎』の決闘の場面になった舞台の原っぱである。 実は坂下の春日町を少しだけ水道橋方面に行くと講道館がある。

別名の真砂坂は単純に真砂町にある坂道というだけの意味である。

| | コメント (0)

2017年10月 9日 (月)

旧東富坂(本郷)

銀座線と丸の内線は浅い地下を走っている。 銀座線の開通は戦前の昭和2年だが、二番目に古い丸の内線のこの部分は昭和26年に起工し、昭和29年に開通した。 その次にできた日比谷線は昭和36年の開通だから、丸の内線は銀座線に次ぐ古い路線ということになる。

その丸の内線はあちこちで地上に現れる。茗荷谷~春日、小石川~後楽園、神田川鉄橋、四ツ谷と意外と地上を走っている。 後楽園駅を出て銀座方向に進む丸の内線はこの旧東富坂脇を走り地下に入っていく。

Dscn7457
この丸の内線の軌道がこの坂の傾斜を強調している。 坂の途中にある説明板には次のように書かれている。

「むかし文京区役所があるあたりの低地を二ヶ谷(にがや)といい、この谷をはさんで東西に二つの急な坂道があった。 東の坂は木が生い繁り、鳶が沢山集まってくるので、「鳶坂」といい、いつの頃からか「富坂」と呼ぶようになった。(『御府内備考』による) 富む坂、庶民の願いがうかがえる呼び名である。

また二ヶ谷を飛び越えて向き合っている坂ということから、「飛び坂」ともいわれた。  明治41年、本郷三丁目から伝通院まで開通した路面電車の通り道として、現在の東富坂(真砂坂)が開かれた。 それまでは区内通行の大切な道路の一つであった。」

Dscn7452
元からあった旧東富坂の傾斜では都電が登れないので、北側に新道を設けたのである。 向かいになる斜面は特に名前は残っていない。 丸の内線脇を走り、区役所前の礫川公園を横切り、今の富坂に繋がっていた。 都電を通せなかった道の脇を、地下鉄が走っているのはやはりここが交通の要所であるという事だろうか。

| | コメント (0)

2017年10月 8日 (日)

新坂(外記坂)

壱岐坂下の交差点はよく見ると五差路である。 真東に接続する路地を入ると、左手には水道橋グランドホテル。 正面には階段の坂が現れる。 これが新坂(外記坂)である。 新坂と言っても例にもれず江戸時代の坂。 昭和63年製の説明板が階段の途中にある。

Dscn7442
「区内には、新坂と呼ばれる坂が六つある。 『東京案内』に、「壱岐坂の北にありて小石川春日町に下る新坂といふ」とある。 『江戸切絵図』によると、坂上北側に内藤外記という旗本の大きな屋敷があり、ゲキサカとある。 新坂というが、江戸時代からあった古い坂である。

この坂の一帯は、もと御弓町、その後弓町と呼ばれ、慶長・元和の頃(1600年頃)御弓組の与力同心六組の屋敷が置かれ、的場で弓の稽古が行われた。 明治の頃、石川啄木、内藤鳴雪などの文人が住んだ。」 と書かれている。

Dscn7446
今も人通りの多い階段である。  江戸時代初期に御弓組を置いたのは、この辺りが江戸城の鬼門にあたるという考えに基づくようだ。 階段を上った正面角のマンションがシティハウス本郷弓町とある。 辺りには弓町の名前を付けた建物がいくつかあって、歴史が残されていることにほっとする。

| | コメント (0)

2017年10月 7日 (土)

新壱岐坂(本郷)

壱岐坂を分断した新壱岐坂。 面白いのはどちらの説明板にも古い壱岐坂への同情めいた記述があることだ。  壱岐坂の説明板には、「この古い壱岐坂は、新しくできた広く大きな新壱岐坂に途中で分断される形となった」と書かれている。

Dscn7431

この新しい新壱岐坂は東京ドームとラクーアの間の道の続きで、白山通りより東で本郷台地に上っていく。 坂上の東洋学園大学の前に説明板がある。 「大正12年(1923)の関東大震災の復興計画によって、新しく開かれた昭和の坂である。 この坂の中ほどにある東洋学園大学の脇で、この坂と斜めに交差している細い坂道がある。 「壱岐(殿)坂」という。 壱岐坂の水道橋寄りに小笠原壱岐守の下屋敷があったので、この名がついたと言われる。 江戸時代からあった古い坂である。 長い歴史のある壱岐(殿)坂の名を取って、この坂を「新壱岐坂」とした。 現在は、区内の幹線道路として広く知られるが、もとになった壱岐(殿)坂の名前は忘れられようとしている。」

Dscn7438
なぜこうも江戸からの壱岐坂が廃れているというような表現をするのか、教育委員会の担当者?はこの分断をそれほど惜しんでいるのか。 そういう想像をしてしまう説明板である。 いくつかの文献を調べてみると、市販の地図にこの新壱岐坂を壱岐坂と記されているのをみて、忘れられているのではという感覚を持った知識人が多かったようだ。

| | コメント (0)

2017年10月 6日 (金)

胸突坂(本郷)

菊坂下から菊坂に入る。 菊坂は文化の詰まった坂で、話題に尽きないが、本来菊坂と呼ばれていたのはこの胸突坂だった。 菊坂の最初の北側の路地を入ると、カーブを描きながら急坂を上る。 これが胸突坂(菊坂)である。 いつしか本通りの菊坂に名前を奪われはしたが、坂上には鳳鳴館などの老舗旅館が残り、風情はなかなか。

Dscn2494

残念ながらこの坂に説明板は設置されていない。 ただ、坂上はその昔、菊畑が広がっていてそれが菊坂と呼ばれた所以だという。 そしてこの坂の傾斜が急だったために胸突坂と呼ばれるようになり、そっちが主な坂名となった。 昭和中期まではこの辺りは台町と呼ばれていた。

Dscn2496
江戸切絵図には「ムナツキザカ」という坂名が描かれている。辺りはほとんど町屋である。隣の新坂も江戸時代の坂だが、切絵図を見る限りでは胸突坂のほうが古そうだ。 北側は新坂あたりから向こうは本多美濃守の下屋敷だった。 本多家は家康の重臣本多忠勝の家系である。 明治になってから屋敷跡周辺は様々な文化人が住む町となった。 やはり崖のあるところには文化が集まりやすいのだろうか。

| | コメント (0)

2017年10月 5日 (木)

新坂(本郷)

本郷菊坂の春日側の菊坂下から一本先に細い路地がある。 いきなり急坂になる。 坂の途中に説明板がある。

Dscn2485

「新坂: 区内にある新坂と呼ばれる6つの坂の一つ。 『御府内備考』に「映世神社社領を南西に通ずる一路あり、其の窮る所、坂あり、谷に下る、新坂といふ」とある。 名前は新坂だが、江戸時代に開かれた古い坂である。

この辺りは、もと森川町と呼ばれ、金田一京助の世話で、石川啄木が、一時移り住んだ蓋平館別荘(現太栄館)をはじめ、高等下宿が多く、二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声など、文人の逍遥の道でもあったと思われる。」

Dscn2490
2016年正月に訪れたときには、坂上の蓋平館の跡に建った太栄館は消え去っていた。 団体旅館で修学旅行の生徒が宿泊する古い旅館だった。  石川啄木ゆかりの宿ということで有名で、明治大正から昭和の雰囲気を残していたが、時代の波には勝てず、ここも7階建てのマンションに変わってしまう。 残念なことだが仕方あるまい。

| | コメント (0)

2017年10月 4日 (水)

壱岐坂(本郷)

ぶった切られた坂である。 江戸時代からの壱岐坂は現在の細路地。 江戸時代は壱岐殿坂と呼ばれていた。 切絵図にも「イキトノサカ」と描かれている。 東洋学園大学の裏手に説明板があるが、下半分はどの路地が元の坂なのかわかりにくい。

Dscn7426
ところが大通りに面した一角に女体の彫刻が立っていて、その土台の銅板をよく見ると壱岐坂の説明板になっている。 二種類の説明板があるのだ。 彫像の下の銅板には次のように彫ってある。

Dscn7429
壱岐坂(壱岐殿坂)  江戸時代には、社寺や大名屋敷はほとんど移転することがなかったので交通の重要な目印となっていました。 この坂は昔、この地にあった小笠原壱岐守の下屋敷にちなんで壱岐殿坂と呼ばれていました。 当時、小笠原家は、九州佐賀県唐津六万石の大名でした。 壱岐坂は、白山通り(本郷1丁目20・22の間)から上り、東洋女子短大の所で通称大横町へいたる細坂道です。(文京区土木部公園緑地課)
Img_4285
壱岐坂通りを斜めに横切り、東洋学園大学本郷キャンパス裏へ道は続く。 こちらの坂上には別の説明板が立っている。 こちらは最近(平成28年)に付け替えられた。 古い説明板には、「壱岐坂は御弓町へのぼる坂なり。彦坂壱岐守屋敷ありしゆへの名なりといふ。按に元和年中(1615~1623)の本郷の図を見るに、此坂の右の方に小笠原壱岐守下屋敷ありて吉祥寺に隣れり。おそらくは此小笠原よりおこりし名なるべし。」(改撰江戸志)と書かれていた。

Dscn7440
平成28年3月の新しい説明板は次のような文章だった。

「壱岐殿坂」ともいう。 江戸時代からある古い坂である。 近隣に屋敷があった武家の名前から坂名がつけられたとみられるが、江戸時代の地誌に「彦坂壱岐守」の屋敷があったことによって名付けられたとか、「小笠原壱岐守下屋敷」があったことによって名付けられたとかあって、江戸時代においても諸説があった。(御府内備考)   この古い壱岐坂は新しくできた広く大きな新壱岐坂に途中で分断される形となった。 (文京区教育委員会)

何だか教育委員会の方が今一つ。 NHKの「諸説あり」が影響しているのだろうか。

| | コメント (0)

2017年10月 3日 (火)

金毘羅坂(本郷)

この坂の情報は少ない。 解説した標柱も説明板もない。 桜陰学園の裏から忠弥坂と平行に西に向かって下る坂道である。

Img_4276
関東大震災前に工芸高校の端にあった金毘羅宮がこの前身かどうかはわからない。 当然ながら香川県の金毘羅様が本山、ここは末社になるが、現在の社殿は1964年の再建である。

Img_4277
金毘羅さんの鳥居はこの坂の途中ではなく西側の路地にある。 しかしこの坂の坂名は近くの金刀比羅宮東京分社に因む。 江戸時代、この辺りの地図を見ると、青山大膳の上屋敷と松平讃岐の守の中屋敷が並んでおり、特に神社の敷地があったわけではなかったが、松平讃岐の守の屋敷に勧請された金毘羅様があったと言われる。それが明治以降に人気になり、金毘羅様の脇の坂なので名づいたようだ。

Dscn7425
坂が実際に開かれたのは明治以降だろうか。 金毘羅宮の中でも正式な東京分社で「水道橋のこんぴらさん」として親しまれている。

Dscn7423

普段から賑わっていて、さすが金毘羅さんは人気があると感心する。 脇には水道橋稲荷大明神も祀られている。

| | コメント (0)

2017年10月 2日 (月)

忠弥坂(本郷)

建部坂の坂上を西に進むと、変則交差点の先から視界が広がる。 右手には名門女子高の桜陰学園、左には都立工芸高校と都会風のグラウンドがある。 そこから忠弥坂の下りになる。 並行するお茶の水坂とは異なるこの高低差はなかなかの風景である。 桜陰学園の西には宝生能楽堂の入ったマンションがあり、少しくねりながら下っていく。

Img_4270
大正の頃までは坂の南側に金毘羅宮があったが、のちに能楽堂の北側に移ったようである。 坂の途中桜陰学園裏手には不思議な橋の欄干がある。 いまだにこれがなぜここにあるのか謎だ。 もっとも金毘羅宮があった時代はこの坂はまだなかったようである。 歌舞伎などで取り上げられて江戸時代のものと勘違いしてしまうかもしれないが、おそらくは大正期の坂である。

Img_4274
忠弥坂の説明板がこの欄干の脇に立っている。

「坂の上あたりに丸橋忠弥の槍の道場があって、忠弥が慶安事件で捕えられた場所にも近いということでこの名がつけられた。道場のあった場所については諸説がある。〝慶安事件″は、忠弥が由井正雪とともに慶安4年(1651)江戸幕府の転覆を企てて失敗におわった当時の一大事件であった。忠弥の名は浄瑠璃や歌舞伎の登場人物としても有名である。」

日比谷高校の新坂もこの忠弥坂も未来明るい高校生が沢山往来する学園坂。 きっと彼らにもこの坂は思い出の坂として残るのだろう。

| | コメント (0)

2017年10月 1日 (日)

お茶の水坂(本郷)

お茶の水坂は神田川放水路に沿って走る外堀通りの順天堂大学から水道橋までの坂道である。 江戸時代は昌平橋の上流に橋はなく、次の端は水道橋だった。 ただし、その水道橋の東側に上水専用の神田上水懸樋があった。

Img_4255
明治になってお茶の水橋が作られた。 当時の御茶ノ水駅は現在の駅の場所ではなく、お茶の水橋の西側に作られた。 しかし関東大震災で神田川放水路の土手が崩壊し、駅も橋も大きな被害を受けてしまった。 復興として聖橋が架けられ、お茶の水橋と聖橋の間に駅が移された。

上の写真の神田上水懸樋は明治34年(1901)まで、江戸東京市民の上水として活躍したが、今は石碑を残すのみである。 模型や資料は、東京都水道博物館に展示されている。

Img_4268
建部坂のある元町公園辺りから水道橋までの長い下り坂。 道路が広いので傾斜をあまり感じないが、坂上の標高19mから水道橋の標高6mまで13mを下っている。

Dscn7420
坂の途中に説明板があり、次のように書かれていた。

「この神田川の外堀工事は元和年間(1615-1626)に行われた。それ以前に、ここにあった高林寺(現 向丘2丁目)の境内に湧水があり〝お茶の水″として将軍に献上したことから、「お茶の水」の地名がおこった。
 『御府内備考』によれば「御茶之水は聖堂の西にあり、この井名水にして御茶の水に召し上げられしと・・・・」とある。この坂は神田川(仙台堀)に沿って、お茶の水の上の坂で「お茶の水坂」という。坂の下の神田川に、かつて神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていたが、明治34年(1901)取りはずされた。」

| | コメント (0)

« 2017年9月 | トップページ | 2017年11月 »