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2017年10月26日 (木)

鳥尾坂(目白台)

江戸初期以前の護国寺界隈は二本の川に挟まれた谷だった。 現在の高速下あたり、谷の目白台側を流れていたのは弦巻川。 東側の鼠坂下を流れていたのが水窪川。 弦巻川は現在の池袋西口にあったという丸池を源頭に鬼子母神のある雑司ヶ谷を流れ、目白台の北側をなぞるように護国寺前から南下して江戸川(神田川)に注いだ。

この川が目白台の北側を削って段丘を形成したわけだが、台地の上と下では20m以上の高低差を作り出して、その昔は往来に難儀だった。

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坂の説明板によると、「この坂は直線的なかなり広い坂道である。坂上の左側は獨協学園、右側は東京カテドラル聖マリア大聖堂である。 明治になって、旧関口町192番地に鳥尾小弥太(陸軍軍人、貴族院議員、子爵)が住んでいた。 西側の鉄砲坂は人力車にしても自動車にしても急坂すぎたので、鳥尾家は私財を投じて坂道を開いた。 地元の人々は鳥尾家に感謝して「鳥尾坂」と名づけ、坂下の左わきに坂名を刻んだ石柱を建てた。」とある。

確かに明治後半の地図以降、鳥居邸の表示がある。 現在は関口台公園になっていて、子供の声が賑やかである。

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坂上は獨協中学高校、学生が坂を上り下りする。 この辺りの町名を関口という。 正保(1640年代)の頃までは関口村と呼んだ。 土地の言い伝えではこの辺りに昔、奥州街道の関所があったので関口となった説があるが、一方で江戸川(神田川)の取水の大洗堰が起源だという説もある。 神田上水の開設は1590年頃。 当時はまだまだ農地と野原だったようだが、1700年代に入ってから、武家屋敷や町屋が立ち並び始めた。 当時ののどかな風景を坂上坂下で思いはせる。

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