八幡坂(小日向)
鷺坂は昭和の坂だが、この八幡坂は江戸時代からある坂道で、江戸切絵図にもある。 水窪川の東側に田中八幡、そして別當西蔵院と書かれている。 裏手は久世大和守の屋敷で、北側一帯は御賄組の屋敷が集合住宅のように集まっている。 この田中八幡は現在は音羽今宮神社になっている。 元の田中八幡は氷川神社と合併されて服部坂上の小日向神社となったのは明治2年。 その後明治政府の神仏分離令で護国寺境内にあった今宮神社がここに移ってきたという経緯である。
いきなり階段で始まる坂だが、八幡坂は坂上まですべて階段の坂である。 この辺りの小日向側の崖はかなり急で、高低差も20mほどあり、それを一気に登る感じだ。
途中、鷺坂からの道を合わせて左に折れる。 そこから見下ろすと(上の写真)結構急な坂であることがわかる。 ここからさらに階段坂が続く。 江戸時代はこの坂を御賄組が管理していたという。 十分な管理がなければ坂として維持できないくらいの傾斜がある。
さらに坂上に向かって上る。 短い区間だけ、鷺坂からの道がそのまま車道になっているが、それもすぐに階段坂に戻る。 鉄製の手すりがないと悪天候時は上り下りもままならないだろう。
説明板は坂下にある。「『八幡坂は小日向台三丁目より屈折して、今宮神社の傍らに下る坂をいふ。安政四年(1857)の切絵図にも八幡坂とあり。』と、東京名所図会にある。明治時代の初めまで、現在の今宮神社の地に田中八幡宮があったので、八幡坂と呼ばれた。坂上の高台一帯は「久世山」といわれ、かつて下総関宿藩主久世氏の屋敷があった所である。」と書かれていた。
坂上谷側の新しいマンションは石川啄木初の状況下宿跡の説明板がある。「盛岡中学校を卒業直前にして退学した啄木は、文学で身を立てるため、明治35年(1902)単身上京した。そして、中学の先輩で金田一京助と同級の細越夏村の旧小日向台町にあった下宿を訪ねた。」とあり、ここには1日だけしかいなかったようである。 それでも説明板があるのはやはりビッグネームと言える。
大日坂上に古い真鍮の説明板に古地図が描かれているのだが、その地図によるとこの八幡坂の下、水窪川沿いの音羽九丁目には「このあたり私娼あり」と書かれている。 やはり谷筋は俗世間、「俗」の字に「谷」が含まれるのは意味があることなのだろう。
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