善光寺坂(小石川)
六角坂を下って左に曲がる。 すぐに変則五差路にあたるが、左に直角に曲がる道を進む。 道の先に山門が見える。江戸時代はこの辺りからすでに伝通院の境内であった。 江戸時代にはここに善光寺という寺院はなかった。創建は慶長7年(1602)で、伝通院の塔頭(たっちゅう)として縁受院(あるいは縁請院)の名で寺町の東端に建てられた。
この先伝通院に上る坂道が善光寺坂である。 縁受院は明治17年(1884)に善光寺と改称し、信州善光寺の分院となった。 そのため善光寺坂の名前は明治以降につけられた名前である。 ゆるやかに曲がりながら上っていく風景は情緒がある。 ビルがなければもっといいのだが、東京ではそれは叶わない。
善光寺の隣には沢蔵司稲荷(たくぞうすいなり)がある。 江戸時代初期伝通院の坊主に沢蔵司という類稀なき優秀な僧がいた。 それが実は稲荷神だということで伝通院の住職がここに稲荷を祀ったのが始まり。説明板には次のような逸話?が書かれている。
『東京名所図会』には、「東裏の崖下に狐棲の洞穴あり」とある。今も霊窟(おあな)と称する窪地があり、奥に洞穴があって、稲荷が祀られている。伝通院の門前のそば屋に、沢蔵司はよくそばを食べに行った。沢蔵司が来たときは売り上げの中に必ず木の葉が入っていた。主人は沢蔵司は稲荷大明神であったのかと驚き、毎朝「お初」のそばを供え、いなりそばと称したという。
またすぐ前の善光寺坂にムクノキの老樹があるが、これには沢蔵司が宿っているといわれる。道路拡幅の時、道を二股にして避けて通るようにした。
このムクノキ、戦災で上部が焼けてしまったがそれ以前は23mの樹高があった。推定樹齢は約400年。 焼けたものの樹勢は強く、焼け残った南側から枝を伸ばして復活している。 空襲を乗り越えた巨樹はある種神々しさを感じさせるが、沢蔵司の物語も併せると、御神木にふさわしい巨樹だと言える。
坂上の伝通院の正式名は(浄土宗)無量山寿経寺伝通院。 慶長8年(1603)に徳川家康が生母お大をこの地に葬った。 将軍家に守られた大きな寺院である。 江戸時代は常時1000人もの学僧が修行をしていたという。 今はかなり狭くなったが当時はこの何倍もの境内が広がっていた。
坂の説明板が坂途中にあるのでその説明を付記。
坂の途中に善光寺があるので、寺の名をとって坂名とした。善光寺は慶長7年(1602)の創建と伝えられ、伝通院(徳川将軍家の菩提寺)の塔頭で、縁受院(えんじゅいん)と称した。明治17年(1834)に善光寺と改称し、信州の善光寺の分院となった。したがって明治時代の新しい坂名である。坂上の礫川(れきせん)や小石川の地名に因む松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。
“一(ひと)しぐれ 礫(つぶて)や降りて 小石川” はせを(芭蕉)
また、この界隈には幸田露伴(1867~1947)、徳田秋声(1871~1943)や島木赤彦(1876~1926)、古泉千樫(1886~1927)ら文人歌人が住み活躍した。
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