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2017年10月15日 (日)

菊坂(文京区本郷)

本郷の菊坂は東京でも有名な坂の一つ。 中山道であった本郷通りから西片近くの菊坂下までは650m、坂上標高20m、坂下は9mで11mの高低差の緩やかな坂道である。 この坂は川が本郷台地を削った谷筋で、関東大震災前の地図には本妙寺坂の先まで開渠になっている。 坂上本郷通りの別れの橋跡はこの川がまだ加賀藩上屋敷(現東京大学)から流れていたころに掛かっていた橋の名である。

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春日西片交差点側から菊坂下に入って最初の路地が胸突坂だが、本来は胸突坂が菊坂であった。 しかし、江戸時代以降菊坂町という町名になってからはこの菊坂町筋が菊坂と呼ばれるようになっていった。 この菊坂を中心にいくつもの坂が合流している。 また、南側に並行する暗渠筋の路地(菊坂下道)との間には落差があり、いくつもの魅力的な階段道が通されている。

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少し坂を上ると蔵が目に入る。 樋口一葉(1872~1896)が菊坂の家に住んでいたときから、生活が苦しくなるたびに通った質屋で、彼女が下谷区竜泉町に移ってからも通ったという伊勢屋質店の跡だ。 この少し先には宮沢賢治の旧居跡、北側の梨木坂には田宮虎彦、
本妙寺坂辺りには石川啄木が住んでいた。

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菊坂の説明板は坂の途中の長泉寺の入口にある。 入り口は狭いが奥は広い墓所が広がり、本妙寺坂上からも入ることができる広い寺である。 入り口脇の菊坂の説明板には次のように書かれている。

「此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候に付、同所の坂を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由」(『御府内備考』)とあることから、坂名の由来は明確である。今は、本郷通りの文京センターの西横から、旧田町、西片一丁目の台地の下までの長い坂を菊坂と言っている。また、その坂名から樋口一葉が思い出される。一葉が父の死後、母と妹の三人華族の戸主として、菊坂下通りに移り住んだのは、明治23年(1890)であった。今も一葉が使った掘抜き井戸が残っている。」

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坂上本郷三丁目付近はいささか雑居感が強くなり、江戸風情はなくなる。 昔の菊坂は菊坂下から半分くらいまでを言ったようだ。 ただし文豪の様々な説明板はこの坂上まで街路灯などに設置されていて、それを目的にした散策グループも多い。

菊坂辺りは空襲で焼けなかったところが多く、その為古い民家がまだ残っていたりするが、さすがに戦後70年を超えてそろそろ再開発の波が押し寄せてきている。 本妙寺坂の赤心館に住んでいた石川啄木が生活苦に死を考えていた時、金田一京助が彼を援助して引っ越させた蓋平館(のちの旅館大栄館)もマンション化のため崩されてしまった。

菊坂界隈の魅力を味わえる残りの時間はそう多くないかもしれない。

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