六角坂(文京区小石川)
中央大学前から小石川大神宮を経て北へ進む道筋。 堀坂上からさらに北に行くと途中から下り坂になる。 坂の途中に六角坂の説明板が立っている。 坂は急に右に曲がって下り、堀坂下からの道に出合う。 坂の中程で75度くらいの角度で曲がっているのがこの坂の特徴である。
上の写真の左側(西側)は江戸切絵図を見ると「六角帯刀」とある。 その先の曲がり角より北側は江戸時代は伝通院の境内だった。 坂の途中の説明板には次のように書かれている。
「六角坂は上餌差町より伝通院の裏門の前に出る坂なり、古くより高家六角氏の屋敷の前なる坂故にかくいへり」(『改選江戸志』)とある。『江戸切絵図』(万延2年(1861)の尾張屋清七版)をみると、この坂が直角に曲がっているあたりに六角越前守の屋敷があったことがわかる。
餌差(エサ)町は、慶長年間(1596~1615)、鷹狩りの鷹の餌となる小鳥を刺し捕らえることを司る「御餌差衆(オンエサシシュウ)」の屋敷が置かれたところである。 近くに歌人・島木赤彦が下宿し、『アララギ』の編集にあたった「いろは館」があった。
御餌差衆はいわゆる鷹匠の配下である。鷹匠の要請で関東一円に出かけて小鳥を捕っていた。 武士ではなく町民が多かった。 殿様が鷹狩りの折に、鷹が捕る獲物をあらかじめ用意しておいて放し、鷹がそれを捕まえると「お見事!」とおべんちゃらをいうシステムである。
江戸時代も近現代もやっていることは似ているものだ。ちょうどゴルフの「ナイスショット!」みたいなものだと思えばよい。 ナイスショットしてくれないと社長さんは不機嫌になり、それが何より困る、というのは日本独特の接待ゴルフのあるある。 これははるか昔から培われてきた日本人の組織の特徴と言えそうだ。
六角家について、「高家(コウケ)」というのは江戸幕府で儀式や典礼を司る役職のことである。 六角家は京都の公家の出で、もとは烏丸に由来する、代々和歌や連歌を得意とした家柄。 屋敷としては2千石、1200坪とこじんまりとしているが、家格が高く官位は大名並み。 そのため旗本級であっても世間からは特別視されていた。
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