炭団坂(本郷)
樋口一葉旧居跡の路地に入る菊坂に閉口した路地を南東に歩く。 菊坂との間には3m近い段差があるので、所々に階段道がある。 梨木坂向かいの細い階段の先に、宮沢賢治旧居跡の階段がある。 その10mばかり手前に南に入っていく細い路地がある。 これが炭団坂への入口だ。
車は通れないと思っていたが、以前散歩した時炭団坂下に軽自動車が止まっていた。 よくこの路地に入ったものだ。 昔は菊坂の谷は菊坂町、坂上は真砂町と呼んだ。 真砂町は寛永(1624~1644)以来、真光寺門前と称して桜木神社前の一部だけが町屋であった。 明治になって武家屋敷町だった真砂町は多くの民家に変わっていった。 真砂町は昭和40年に本郷4丁目に改名されてしまったが、やはり真砂町の方がはるかにしっくりくる。
路地の奥まで進むと昭和風の門構えのところから階段になる。 これが炭団坂。 別名を初音坂という。 この辺りは昔は樹木が鬱蒼としており、鶯やホトトギスの声が菊坂の谷間に聴こえていた。 それで初音坂となったようだ。 炭団坂の坂上を真っすぐに進むと建部坂に繋がる。 建部坂も別名を初音坂という。
坂の途中にある説明板には次のように書かれている。「本郷台地から菊坂の谷へ下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということから付けられたと言われている。台地の北側の斜面を下る坂の為にジメジメしていた。今のように階段や手すりがない頃は、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。この坂を上り詰めた右側の崖の上に、坪内逍遥が明治17年(1884)から20年(1887)まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表した。」
坂上には坪内逍遥の説明板もある。逍遥は自宅を「春廼舎(はるのや)」と呼び、当時は「春廼舎は東京第一の急な炭団坂の角屋敷、崖渕上にあった」とされているので、まさにこの手摺りの向こう側が坪内逍遥の家だったわけだ。 逍遥宅はその後明治20年には伊予藩主久松氏の育英事業として、「常磐会」という寄宿舎になった。俳人正岡子規は翌年からここに入り、その他多くの俳人が集まった。 子規の詩に次のような句がある。
ガラス戸の外面に夜の森見えて清けき月に 鳴くほととぎす (常磐会寄宿舎から菊坂を望む)。 まさに上の写真の場所から明治初期の菊坂の風景を望んだとき、この谷は自然あふれる谷だったのであろう。
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