壱岐坂(本郷)
ぶった切られた坂である。 江戸時代からの壱岐坂は現在の細路地。 江戸時代は壱岐殿坂と呼ばれていた。 切絵図にも「イキトノサカ」と描かれている。 東洋学園大学の裏手に説明板があるが、下半分はどの路地が元の坂なのかわかりにくい。
ところが大通りに面した一角に女体の彫刻が立っていて、その土台の銅板をよく見ると壱岐坂の説明板になっている。 二種類の説明板があるのだ。 彫像の下の銅板には次のように彫ってある。
壱岐坂(壱岐殿坂) 江戸時代には、社寺や大名屋敷はほとんど移転することがなかったので交通の重要な目印となっていました。 この坂は昔、この地にあった小笠原壱岐守の下屋敷にちなんで壱岐殿坂と呼ばれていました。 当時、小笠原家は、九州佐賀県唐津六万石の大名でした。 壱岐坂は、白山通り(本郷1丁目20・22の間)から上り、東洋女子短大の所で通称大横町へいたる細坂道です。(文京区土木部公園緑地課)
壱岐坂通りを斜めに横切り、東洋学園大学本郷キャンパス裏へ道は続く。 こちらの坂上には別の説明板が立っている。 こちらは最近(平成28年)に付け替えられた。 古い説明板には、「壱岐坂は御弓町へのぼる坂なり。彦坂壱岐守屋敷ありしゆへの名なりといふ。按に元和年中(1615~1623)の本郷の図を見るに、此坂の右の方に小笠原壱岐守下屋敷ありて吉祥寺に隣れり。おそらくは此小笠原よりおこりし名なるべし。」(改撰江戸志)と書かれていた。
「壱岐殿坂」ともいう。 江戸時代からある古い坂である。 近隣に屋敷があった武家の名前から坂名がつけられたとみられるが、江戸時代の地誌に「彦坂壱岐守」の屋敷があったことによって名付けられたとか、「小笠原壱岐守下屋敷」があったことによって名付けられたとかあって、江戸時代においても諸説があった。(御府内備考) この古い壱岐坂は新しくできた広く大きな新壱岐坂に途中で分断される形となった。 (文京区教育委員会)
何だか教育委員会の方が今一つ。 NHKの「諸説あり」が影響しているのだろうか。
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