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2017年10月15日 (日)

本妙寺坂(文京区本郷)

徳川家康が全国を平定してから半世紀、江戸の町は安定した平和な街になっていた。 江戸に攻め入る大名は最早皆無で、戦国時代から安土桃山時代を経てついに日本に平和が訪れた時期でもあった。 しかし、人間の敵は人間のみにあらず、明暦3年(1657)3月、歴史上最大の都市火災に見舞われることになった。 これが世にいう明暦の大火である。江戸市中の死者は10万8千人という記録がある。火元については諸説あるが、もっとも知られているのが本郷丸山の本妙寺出火説である。

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菊坂と交差して北も南も坂になっているこの道が本妙寺坂。 電柱に長泉寺の案内があるが、江戸時代はこの坂上に本妙寺と長泉寺の二つの大きな寺があった(本妙寺は現在豊島区巣鴨に移転)。 この北側の坂を上ると、東側のプラウド本郷の前に説明板がある。

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本妙寺には遠山の金さん(遠山左衛門尉影元)や幕末の剣豪千葉周作らの墓所があった。 諸説あって本妙寺火元説はかなり怪しくなっているが、振袖火事の別名を持つこの本妙寺説が物語としては庶民に受け入れられやすいためにこの説が主流になったのではないだろうか。

麻布の裕福な質屋の娘、梅乃が墓参に本妙寺に来た帰り、上野の山で出会った美少年に一目惚れした。 梅乃は寝ても覚めても少年のことが忘れられず、寝込んでしまう。 両親は不憫に思い、少年が着ていたのと同じ柄の振袖をしつらえ、梅乃はそれを抱いて死んでいった。 両親は娘の棺にこの振袖を掛けて本妙寺に葬った。

当時はこういうものは寺男たちがもらっていいことになっていて、転売され上野の町娘キクのところに。 ところがキクも間もなく他界し、再び御棺に振袖はかけられ、元の本妙寺に葬られた。

本妙寺の寺男たちはさすがに因縁を感じ、寺で焼いて供養しようとしたところ、この振袖が燃え上がりながら空に舞い上がり、寺を焼き尽くした。 折から季節風の強い冬のことで、あっという間に江戸中に延焼し、外堀の内側のほとんど、江戸城も含めて焼き尽くしたという話である。

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菊坂は谷筋である。 しかも北西から南西に切れこんだ谷。 山釣り人は谷を駆ける風をしばしば経験するが、冬の季節風の時期、谷を駆けのぼる風が吹いていたのだろう。また別説の一つに、菊坂下の北側にあった老中阿部家の屋敷が火元だったが、老中の阿部家が火元となると幕府の威信に関わる為、本妙寺が罪をかぶったというのがある。 こっちのほうが正しいのではないかと(私は)思っている。 その証拠に、本妙寺は取り潰しにならず、幕末まで優遇されたという事実がある。

南側の坂の途中に本妙寺坂の説明板がある。

「この坂は、本郷の台地から菊坂へ下っている坂である。菊坂を挟んで真向かいの台地にには(現在の本郷5-16あたり)かつて本妙寺という法華宗の寺があった。境内が広い大きな寺で、この寺に向かって下る坂であったところから本妙寺坂と呼ばれた。 本妙寺は明暦の大火(振袖火事・明暦3年-1657)の火元として有名である。明治43年豊島区巣鴨5丁目に移転した。」

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今、江戸城跡(皇居)に天守閣がないのは、この明暦の大火以降再建されなかったからである。 明暦の大火は江戸の三分の二を焼き尽くし、3万人近い死者を出したが、これ以降江戸幕府はさらに安泰となり、数十年後の元禄時代には江戸文化が最盛期を迎えた。

昔は天変地異などがあると年号を変えることが多く、明暦の大火のあと、明暦は天皇の崩御とは関係なく万治に変更された。 どうせ西暦を使う時代なのだから、昔のようにフレキシブルに政府も対応すればいいのだと思う。 平成は東日本大震災の時に変更され新しい年号になっていれば世の中ももっと違ったのではないかと思う。 最も当時の菅政権にはひっくり返ってもできなかっただろうことも事実ではある。

ちなみに明暦の大火で町ごと引っ越した例がいくつかあり、その代表的なものが、神田連雀町が三鷹の上連雀、下連雀へ、本郷元町の吉祥寺門前の町が今を時めく吉祥寺へ引っ越して現在の地名になっている。ただ吉祥寺門前町は五日市街道沿いの吉祥寺へ引っ越したが、当の吉祥寺は吉祥寺へは移転していない。寺の引っ越し先は文京区の本駒込で現在もそこにあり、「きっしょうじ」ではなく「きちじょうじ」と読む。

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