福山坂(新坂)
福山坂の辺りは、江戸時代は福山藩阿部家の中屋敷で、福山坂は江戸時代には存在していない。 明治時代に開かれた坂である。 明治になって1万坪を残して5万坪を貸したというが、明治初期の地図を見ても残された庭の一辺が200mほどもある屋敷である。
坂の途中の説明板には、「『新撰東京名所図会』に、「町内(旧駒込西片町)より西の方、小石川掃除町に下る坂あり、新坂といふ」とある。この坂上の台地にあった旧福山藩主の阿部屋敷へ通じる、新しく開かれた坂ということで、この名がつけられた。また福山藩に因んで、福山坂ともいわれた。新坂と呼ばれる坂は、区内に六つある。
坂の上一帯は、学者町と言われ、夏目漱石はじめ多くの文人が住んだ。西側の崖下一帯が、旧丸山福山町で、樋口一葉の終焉の地でもある。」と書かれている。
坂下の十字路に椎の木稲荷がある。福山邸の庭にあったという椎の木は高さ12m、幹回り6mの見事な大樹だったというが、戦災で焼けてしまった。
坂下の椎の木の前の道には江戸時代には川が流れていた。明治になってからもこの川は開渠で、今の白山駅辺りから流下していた。そういう場所にはかなりの確率で銭湯があるものだが、ここも例にもれず富士見湯という素晴らしい外観の銭湯がある。先代のオーナーが大正期に買い取った銭湯らしい。文京区ではここだけが番台を残している。とはいえ文京区に残っている銭湯は6湯っきりになってしまった。
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