« 2017年10月 | トップページ | 2017年12月 »

2017年11月30日 (木)

宮坂(千石)

豊島区南大塚1丁目と文京区千石3丁目の間の道。 区境の道なので区で分離するときは困る。 2車線の歩道付きの比較的広い直線路である。坂下は砂利場坂同様に、千川の暗渠道路にぶつかる。

Dscn2662
この坂もじゃり砂利場坂同様に説明板がない。 ただ「ぶんきょうの坂道」には説明が載っていた。 この坂道は昭和9年(1934)に尾張屋銀行が住宅開発を行った際に造成された昭和の坂である。それ以前は崖下に池のある荒れ地の斜面だったようだ。

Dscn2668
有栖川宮の屋敷があったので「宮坂」と呼ばれるようになったという。明治11年(1878)有栖川宮は皇族方の外出を意識して自然を愛でる場所として借りた。 その後明治19年(1886)にはここの館を譲り受けたが、明治40年(1907)に手放した。 この有栖川宮家を住民はたいそう慕い、ここを宮坂と呼んだと伝えられる。

Dscn2667
広い坂道は日当たりもよく、猫たちがのんびりと昼寝を楽しんでいる。なんとなくのどかで散歩中の一休みに猫たちを眺めて私も楽しんだ。

| | コメント (0)

2017年11月29日 (水)

砂利場坂(千石)

猫又坂と宮坂の間にある坂道。 途中折れるように曲がっているが、それ以外はほぼまっすぐな道筋である。本郷台地と小石川台地の間に流れていた千川に向かって、この辺りは崖筋になっていた。

Dscn2657
文京区が発行している「ぶんきょうの坂道」に記述がある。もとは伝通院の領地だったが、護国寺造営の時に、砂利をここの斜面で取っていた。 それ以降は30年ほど荒れ地になっていたが、享保の頃(1716~1735)地主たちが護国寺より拝領して開墾し、新田という地名になった。

Dscn2661
その後、明治以降になってもこの辺りは崩れやすい斜面だったようで、当時東京市に住民が願い出て道路普請をしたと伝えられる。 その道がこの砂利場坂である。明治大正にかけてもこの辺りの斜面は川崎家ほかの大きなお屋敷だったが、今はマンションと小型の住宅が立ち並ぶ。 坂下で交差する路地は曲がりくねっているが、その道が千川の暗渠跡である。

| | コメント (0)

2017年11月28日 (火)

茗荷坂(小日向)

拓殖大学の正門前から茗荷谷駅に向かって上るのが茗荷坂。 東側には滝沢馬琴の墓がある深光寺があってその林がいい雰囲気である。 昔、このあたりでは茗荷の栽培が盛んで、それが坂名の由来になっている。

Dscn2329

坂下拓大正門前に古い説明板が立っている。

「茗荷坂は、茗荷谷より小日向の台へのぼるさかなり云々」と改撰江戸志にはある。これによると拓殖大学正門前から南西に上る坂をさすことになるが、今日では地下鉄茗荷谷駅方面へ上る坂をもいっている。

茗荷谷をはさんでのことであるので両者とも共通して理解してよいであろう。さて、茗荷谷の地名については御府内備考に「……むかし,この所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり云々」とある。自然景観と生活環境にちなんだ坂名の一つといえよう。

Dscn2334
駅が近くなると道が細くなる。 ここの大谷石の石垣もなかなか風情がある。 拓殖大学の北側を西の小日向台地に上る坂もいい。 大学のキャンパス全体が小日向台地の縁にあるので、ここが江戸時代に美濃大垣新田藩(岐阜県掛斐郡大野町)藩主である戸田淡路守の下屋敷だった時代には素敵な大名屋敷だったことが想像できる。

明治初期の地図を見ると、北と西に谷が切れ込み、合流地点には二つの池がある。 北側の池には中島があって、相当景色のいい屋敷だったはずである。

| | コメント (0)

2017年11月27日 (月)

釈迦坂(小日向)

地下鉄車庫トンネルのもう一つ、茗荷谷駅方面への道を行くとトンネル先で左に折れ、その先で逆S字型のカーブを描いて上っていく坂がある。 釈迦坂である。 崖の北側は徳雲寺の境内で、江戸時代は藤坂あたりまでの広い境内だったが、さすがに今ではかなり狭くなった。

 

Dscn7585
S字カーブの所に説明板が立っている。

 

春日通りから、徳雲寺の脇を茗荷谷に下る坂である。「御府内備考」によれば、「坂の高さ、およそ1丈5尺(約4m50cm)ほど、幅6尺(約1m80cm)ほど、里俗に釈迦坂と唱申候。是れ徳雲寺に釈迦の石像ありて、ここより見ゆるに因り、坂名にするなり。」

 

徳雲寺は臨済宗円覚寺派で、寛永7年(1630)に開山された。『新撰江戸志』に寺伝に関する記事がある。境内に大木の椎の木があった。元禄年間(1688~1704)5代将軍綱吉が、このあたりへ御成のとき、椎木寺なりと台命があった。そこで、この寺を椎木寺と呼ぶようになった。後、この椎の木は火災で焼けてしまったが、根株から芽が出て、大木に成長した。

 

明治時代になり、その椎の木は枯れてしまった。椎木寺が椎の木を失ったことは惜しいことである。徳雲寺の境内には六角堂があり、弁財天が祀られ、近年小石川七福神の一寺になっている。

 

Dscn7588
坂名は寺のそばの坂なので釈迦坂といわれるようになったのがはじまりという。 しかし寺のそばの坂など数えきれないほどあるのに、ここしか釈迦坂がないのは腑に落ちない。

 

 

| | コメント (0)

2017年11月26日 (日)

藤坂(小日向)

蛙坂下の地下鉄車庫のトンネルの辻は面白い。 下の写真の右手線路沿いの道が蛙坂下、まっすぐに抜けるトンネルの先が藤坂、左のトンネルを抜けると釈迦坂。 そして、後ろには拓殖大学前から上る茗荷坂がある、四方向の坂の辻にあたるトンネルである。

 

Dscn2312
藤坂はトンネルを抜けた先、丁字路を左に曲がると春日通りへ上る急坂がある。 勾配標識は20%とある。勾配の単位はいろいろあって面倒くさい。 20%というのは角度だと11.3度になる。鉄道などだと1000m走って200m高度を上げる(100mで2mでも同じ)のが20%と同じ角度である。

 

Dscn2314
坂下の東側に傳明寺がある。江戸時代の切絵図には「藤寺ト云傳明寺」と書かれているので、相当昔から傳明寺は藤寺と呼ばれていたようだ。 坂下に説明板がある。

 

「藤寺は箪笥町より茗荷谷へ下るの坂なり、藤寺のかたはらなればかくいへり、」(『改撰江戸志』) 藤寺とは坂下の曹洞宗傳明寺である。

 

『東京名所図会』には、寺伝として「慶安三年寅年(1650)閏十月二十七日、三代将軍徳川家光は、牛込高田辺御放鷹(はなしたか:鷹狩りのこと)御成の時、帰りの道筋、この寺に立寄り、庭に一面藤のあるのを見て、これこそ藤寺なりと上意があり」との記事があり、藤寺とよぶようになった。

 

昔はこの坂から富士山が望まれたので、富士坂とも言われた。

 

『続江戸砂子』に、「清水谷は小日向の谷なり、むかしここに清水が湧き出した」とある。またここの傳明寺には名木の藤あり、一帯は湿地で、禿(かむろ:河童)がいて、禿坂とも言われた。

 

Dscn2318
現在は富士山など見えようもない。またこの谷が「茗荷谷」なのか「清水谷」なのかもわからない。そして家光が感動したという藤の木も今はない。 しかし、元は富士坂と呼ばれていたのが、樹木が繁って富士山が見えなくなったので、寺の藤の木に転化して藤坂と呼ぶようになり、家光の逸話は後で作られた可能性もありそうだ。

 

坂上の春日通りを渡った向こう側は桜の名所播磨坂である。

 

 

| | コメント (0)

2017年11月25日 (土)

蛙坂(小石川)

切支丹坂の坂上を茗荷谷駅方向に進むと左手にメゾン蛙坂というマンションがある。 麻布のガマ池のマンションはメゾンがま池だったが、メゾン蛙坂も入居者には抵抗のある名前だろうに、それでもしっかりと名付けてくれていることに坂好きとしては感謝である。

Dscn2309
右に左に曲がりながら、貞静学園の脇を下っていく。 坂の上の方に説明板が立っている。

「蛙坂は七間屋敷より清水谷へ下る坂なり、或は復坂ともかけり、そのゆへ詳にせず」(改撰江戸志)

『御府内備考』には、坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に古池があって、ここにも蛙がいた。むかし、この坂で左右の蛙の合戦があったので里俗に蛙坂とよぶようになったと伝えている。

なお七間屋敷とは、切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことであり、この坂道は切支丹坂へ通じている。

Dscn7583
地下鉄の車庫辺りが江戸時代には湿地帯で、拓殖大学の方から流れてくる小川があり、この辺り全体が谷を形成していた。 それが清水谷という谷だったようだ。 その小川はちょうど蛙坂を下りきった辺りに流れていた。 蛙が多くいても当然な場所だったといえよう。

| | コメント (0)

2017年11月24日 (金)

庚申坂(小石川)

切支丹坂と相対する坂道。 地下鉄丸ノ内線の車庫から春日通りに上る。 茗台中学校の脇に出る階段坂である。 茗台中学校は1960年の創立で新しい学校。 しかしこの場所はかつて小石川高等小学校があった場所である。 明治41年(1908)に創立、昭和22年(1947)に廃校となっている。その後校舎は「小石川工業高校」「小石川高校」となったが、今は再び茗台中学校となり、最初の高等小学校とほぼ同じ年齢の子供たちが集う場所になった。

Dscn2294
坂上に説明板がある。

「小日向第六天町の北、小石川同心町の界を東より西へ下る坂あり・・・略・・・この坂を切支丹坂というは誤りなり、本名“庚申坂”。昔、坂下に庚申の碑あり・・・」『東京名所図会』
 庚申信仰は庚申の日(60日ごと)人が眠ると三尸(さんし)の虫が人の体から出て、天にのぼり、天帝にその人の罪を告げるというところから、人々は一晩中夜明かしをした。この信仰は中国から伝わり、江戸時代に盛んになった。したがって切支丹坂はこの坂の地下鉄ガードの向側の坂のことである。
 「・・・両側の藪の間を上る坂あり・・・これが真の切支丹坂なり」『東京名所図会』

Dscn2298
この坂の坂上から下ると丸の内線が往来するのが見られ、坂下ではトンネルをくぐって切支丹坂に抜ける。 地下鉄の下のトンネルというのはなんとも不思議な感覚である。

| | コメント (0)

2017年11月23日 (木)

切支丹坂(文京区小日向)

ユニークな名前の坂道である。 坂名の由来は、坂上の切支丹屋敷跡に因む。 正保3年(1646)に建てられた転びバテレン(布教のために来日した宣教師・神父の呼び名)の収容所があった場所である。

もともとこの場所は井上筑後守政重の下屋敷だった。 政重が宗門奉行になった折(1646)、屋敷内に改宗したキリシタンを拘留するための牢屋敷を作ったのが始まりである。

江戸幕府はキリスト教を禁止し迫害した。 バテレンを収容し監禁したが、ここでは処刑するのではなく、生活を保障してバテレンの持つ知識や情報を得るのに使われていた。(別説でここでは拷問や処刑も行われていたというものもある)

Dscn7578
坂に説明板はないが、坂についての情報は多い。 明治時代の地図を見ると、この切支丹坂ではなく、丸の内線をくぐった先の春日通りへ上る階段坂「庚申坂」が切支丹坂と書かれている。真相はわからないが、ここではあちらを庚申坂、こちらを切支丹坂として区分したい。

Dscn2303
丸の内線の車庫のある場所には昔小川が流れていた。現在の拓殖大学辺りを水源とする小川が南流し神田川に注いでいた。 石川悌二氏によると上記坂名のズレについては、江戸時代は現在の同じ坂名と坂であったが、明治時代に誤って庚申坂を切支丹坂と呼び始めたのが混乱の元になっているらしい。

Dscn7575
夏目漱石もこの坂について書いており、明治期は小石川から庚申坂を難儀して下ると、谷の向こうにまた険しい切支丹坂があった。 坂は赤土の坂であったため、雨などでぬかるむと下駄で上るのはなかなか困難なことだったと記述している。当時は本来の地層の土面が現れていたのだろう。 現在の東京でそういう地面を見ることは極めて難しい。

昔は曲がりくねっていて樹木の生い茂る暗い坂だったと伝えられる。

| | コメント (0)

2017年11月22日 (水)

荒木坂(小日向)

神田上水の通っていた巻石通りから北に上る坂道。 坂上は丸の内線の電車車庫。 巻石通りの標高は7mで電車車庫は20mなので、13mほどを一気の上る坂道である。江戸切絵図で見る荒木坂(アラキサカ)は短い。称名寺の位置が今と同じなので、称名寺の裏手の墓地の角までが江戸時代の荒木坂である。

Dscn7569
坂下に説明板がある。

称名寺の東横を、小日向台地に上がる坂である。『江戸砂子』によれば「前方坂のうへに荒木志摩守殿屋敷あり。今は他所へかはる」とある。坂の規模は「高さ凡そ五丈程(約15m)、幅二間二尺程(約4m)(『御府内備考』)と記されている。この坂下、小日向台地のすそを江戸で最初に造られた神田上水が通っていたことから、地域の人々は、上水に沿った通りを〝水道通り″とか〝巻石通り″と呼んでいる。(後略)

Dscn7574
この辺りは第六天町と呼ばれていたが、坂下の先の神田川(江戸川)に第六天の社があったからである。 町名は昭和41年(1966)に消滅した。 第六天は第六天神社とも呼び、元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他社自在天)という神を祀る信仰からできた神社である。 第六天は関東を中心に東北から中部まで存在するが西日本にはないという。

| | コメント (0)

2017年11月21日 (火)

猫又坂(千石)

千川通りと不忍通りの交差点、千石三丁目は千川が刻んだ谷筋の辻である。 千川は蛇行していたが、猫又橋の場所は交差点から北東に50mほどの路地筋だった。 千川通りに並行したこの路地はくねくね曲がった道でいかにも暗渠だということがわかる道である。

Dscn2672
上の写真は大塚窪町公園前から猫又橋方向を見たもの。 いったん千石通りに窪み、その向こうで斜面を登るように続く不忍通りの景色である。かつてはこの道筋を都電が走っていた。 なかなか素敵な景色だっただろう。

Dscn2646
猫又橋のあった場所には親柱の袖石が残っている。説明板がある。

「この坂下にはもと千川(小石川とも)が流れていた。 昔、木の根っ子の股で橋を架けたので、根子股橋と呼ばれた。江戸の古い橋で、伝説的に有名である。この辺りに狸がいて、夜な夜な赤手ぬぐいをかぶって踊るという話があった。ある夕暮れ時、大塚辺の少年僧がこの橋の近くに来ると、草の茂みの中を白い獣が追ってくるので、すわ狸かと慌てて逃げて千川にはまった。 それからこの橋は、猫股橋(猫又橋)といわれるようになった。 猫又は妖怪の一種である。

昭和の初めまでは、この川でどじょうを獲り、蛍を追って稲田(千川たんぼ)に落ちたなど、古老がのどかな田園風景を語っている。 大正7年3月、この橋は立派な石を用いたコンクリート造となった。ところが千川はたびたび増水して大きな水害を起こした。それで昭和9年千川は暗渠になり、道路の下を通るようになった。石造りの猫又橋は撤去されたが、地元の故市川虎之助氏はその親柱と袖石を東京市と交渉して自宅に移した。ここにあるのは袖石の内2基で、千川名残の猫又橋を伝える記念すべきものである。(後略)」

Dscn2649
大通りの坂道ではあるが、千川通り付近の曲がり方も含めていい坂である。 猫又橋の脇に猫又坂の説明板もある。

「不忍通りが千川谷に下る(氷川下交差点)長く広い坂である。現在の通りは大正11年(1922)頃開通したが、昔の坂は、東側の崖のふちを通り、千川にかかる猫又橋につながっていた。この今はない猫又橋にちなむ坂名である。」

Dscn2651
上の写真の歩道の右、ガードレールわきの細い隙間の坂がかつての猫又坂の上部の名残である。 電車道が開かれる以前はこの右の細い部分が猫又坂だった。

Dscn2653
この坂の一番の景色はこの脇の名残道の上からの遠景だと思う。 100年ちょっと前は電車道もなく、人だけが通れる狭い道が台地の上に向かって続いていた。その上から猫又橋の谷を見下ろす感じに近いのではないだろうか。

| | コメント (0)

2017年11月20日 (月)

簸川坂(小石川)

網干坂の西側に簸川神社(氷川社)がある。 江戸切絵図には湯立坂から下ると千川に祇園橋が架かっていてそれを渡ると神社の参道になる。 境内には宗慶寺別當とある。 氷川神社の方が古いので、江戸時代の名所だった氷川神社の参詣客を宗慶寺が狙って分院を建てたかどうかはわからないが、そんな想像もできるほど簸川神社は賑わっていた。

Dscn2634
簸川坂は氷川神社の裏口にあたる道筋で、境内を抜けて坂上に出ることができる。 説明板は簸川神社と簸川坂の両方を兼ねたものだった。

・簸川神社:社伝によれば、当神社の創建は古く、第五代孝昭天皇のころと伝えられ、祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)である。源頼家(1039~1106)が奥州平定の祈願をした社といわれ、小石川・巣鴨の総社として江戸名所の一つであった。もとは現在の小石川植物園の地にあった白山御殿造営のため、元禄2年(1699)この地に移された。社殿は空襲で焼失したが、昭和33年(1958)に再建された。(後略)

・簸川坂(氷川坂):氷川神社に接した坂ということでこの名がつけられた。 氷川神社の現在の呼称は簸川神社である。坂下一帯は明治末頃まで「氷川田んぼ」といわれ、千川(小石川)が流れていた。洪水が多く、昭和9年(1934)暗渠が完成し、「千川通り」となった。神社石段下には千川改修記念碑がある。

Dscn2640
網干坂よりも急角度の坂である。簸川神社の裏手から一気に落ちるような下り坂は、悪天候時は難儀しそうだ。 大正時代、坂下は昔たんぼを埋め立てた後中小の工場が集まる町になった。 その後町屋に変わっていった。

Dscn2641
坂下を複雑に流れていた千川。 そのほとりにあった工場の一つであった「太田胃散」の本社がある。 私は太田胃散は薬の名前だと思っていたが、ここを訪れて初めてそれが社名でもあることを知った。

坂上には林町小学校があるが、これは江戸時代簸川神社の裏手が林大学頭の下屋敷だったため、林町と呼ばれていた地名の名残である。 小学校の名前にみる貴重な昔の町名がうれしい。

| | コメント (0)

2017年11月19日 (日)

網干坂(小石川)

湯立坂を下り窪町東公園交差点で千川通りを渡ると、右手に小石川植物園の塀を見るようになると上り坂が始まる。 植物園の西側には簸川神社がある。 きれいになった御殿坂とは反対に、こちらの網干坂は昔の万年塀のままで、昭和のノスタルジーが残る。

Dscn2632
坂の途中に説明板がある。

「白山台地から千川の流れる谷に下る坂道である。小石川台地へ上る「湯立坂」に向かい合っている。 昔、坂下の谷は入江で船の出入りがあり、漁師がいて網を干したのであろう。明治の末頃までは千川沿いの一帯は「氷川たんぼ」といわれた水田地帯であった。

その後、住宅や工場がふえ、大雨のたびに洪水になり、昭和9年に千川は暗渠になった。なお、千川は古くは「小石川」といわれたが、いつの頃からか千川と呼ばれるようになった。」

Dscn2633
網干坂は、氷川坂、簸川坂の別名がある。もちろん簸川(氷川)神社に由来する。 この坂の風景の魅力は植物園の樹木に尽きる。 万年塀を嫌う人もいるが、私は悪くないと思っている。 ブロック塀よりははるかにいい。

Dscn2637
坂上からはかなりの遠景を望むことができる。坂下の標高は10mなのに対して、坂上は25mあり、15mの高低差がある。  国土地理院の古い地図を見ると、明治から昭和にかけて「網曳坂」と書かれているが、江戸の切絵図には「アミホシサカ」と書かれているのでどこかで変わってしまったのだろうか。

| | コメント (0)

2017年11月18日 (土)

湯立坂(文京区小石川)

茗荷谷駅前の春日通りから筑波大学東京キャンパスの方へ入ると、キャンパス沿いに下る長い坂が湯立坂です。 筑波大キャンパスには大学の施設と付属小学校と文京区民センターがあります。 キャンパス内でかなりの高低差があり、茗荷谷駅側は標高28m、裏手の占春園は11m。 当然それに沿って下る坂道も長い坂です。

湯立坂の別名は湯坂で、暗闇坂とも呼ばれたようです。坂は谷を挟んで網干坂と対峙しています。

Dscn2627
坂上のキャンパス脇に標柱がありました。

「里人の説に往古はこの坂の下は大河の入江にて氷川の明神へは川を隔てて渡る事を得ず。故に此所の氏子とも此坂にて湯花を奉りしより坂のなとなれり。」

と書かれています。湯花というのは、湯を沸騰させたときに上がる泡のことで、神社で巫女がこれを笹の葉につけ、参詣人にかけ清めるのです。この儀式を湯立といいます。

私はてっきり、ここで一服と湯を沸かして茶を飲んだくらいに思っていたのですが、どうも神事のようです。

Dscn2630
筑波大は元は東京教育大。 今はつくば市のキャンパスが主体なので、茨城の大学のようですが、本来は東京の大学だったのです。政府の閣議決定でつくばを研究都市にするために移転したのがいきさつでした。 この場所は江戸時代、松平大学頭(陸奥国守山2万石)の上屋敷だったところです。 大学頭が大学になったわけですね。

坂下の窪町東公園前から東に上る坂があり、地元ではかつてこの坂を幽霊坂と呼んでいたらしいのです。 こちらの坂も曲がりながら上っていくいい坂ですが、幽霊坂の資料がなくとりあえず写真だけということで。(下の写真)

Dscn2631
坂下の公園や交差点に残る「窪町」の地名。 ただし窪町小学校は坂上の茗荷谷駅前にありますが、1966年の町名変更で東京教育大周辺は大塚窪町から大塚3丁目になってしまいました。 大塚窪町は現在の小石川5丁目の一部までを含んでいた旧町名です。

坂下西の占春園は水戸光圀の弟である松平頼元がここに屋敷を構えたところ。頼元の子が頼貞で後の松平大学頭。 その親子時代の大名屋敷庭園の名残です。江戸時代はホトトギスの名所でもありました。 坂下の千川あたりの湿地には蛍も多くいたと伝えられています。

| | コメント (0)

2017年11月17日 (金)

団平坂(小石川)

団平坂、別名として、丹平坂、袖引坂という名前もある。 文京区立竹早公園の南東側を千川筋に向かって下る坂道。 この竹早公園は戦前は竹早小学校だったが、空襲で焼失し廃校になってしまった。

Dscn2431
公園の横に小石川図書館があるが、その前に説明板がある。

「町内より東の方、松平播磨守御屋敷之下候坂にて、里俗団平坂と唱候、右は先年門前地之内に団平と申者ツキ米商売致住居仕罷候節より唱始候由申伝、年代等相知不申候」と『御府内備考』にある。

団平という米つきを商売とする人が住んでいたので、その名がついた。何かで名の知られた人だったのであろう。庶民の名のついた坂は珍しい。

この坂の一つ東側の道の途中(小石川5-11-7)に、薄幸の詩人石川啄木の終焉の地がある。北海道の放浪生活の後上京して、文京区内を移り変わって四か所目である。明治45年(1912)4月13日朝、26歳の若さで短い一生を終わった。

Dscn2429
つい見落としがちな場所にその碑があった。 この碑が建てられたのは平成27年とごく最近のことである。説明板もあり、「石川啄木終焉の地歌碑」とある。

| | コメント (0)

2017年11月14日 (火)

播磨坂(小石川)

桜並木で都内でも有名な坂道である。 戦後新しく造成された環状三号線で、名前は古風だが江戸の坂ではない、昭和の新しい坂である。 江戸時代は坂上は小さな武家屋敷が立ち並び、坂下は松平播磨守の屋敷だった。 松平播磨守は水戸常陸国府中藩の藩主。

Dscn2428
江戸時代、大名屋敷の坂下には千川が流れており、辺りは田んぼだった。「播磨田んぼ」と呼ばれ湿地帯でもあったようだ。 現代の姿は40m幅の広い道路の真ん中を半分の幅で遊歩道がついていてその中央に桜並木が植えてある。

Imgp1267
坂の途中にある説明板には次のように書かれている。

この道路は終戦後の区画整理によって造られたもので、一般にいわれる環三道路(環状3号線)である。 かつてこのあたりは松平播磨守の広大な屋敷のあったところである。坂下の底地一帯を「播磨たんぼ」といい伝えており、この坂道もこの土地の人は播磨坂とよんでいる。 昭和35年頃「全区を花でうずめる運動」が進められ、この道路も道の両側と中央に樹令15年位の桜の木約130本が植えられた。そして地元の婦人会の努力によって「環三のグリーンベルト」は立派に育てられている。昭和43年から桜まつりが行われ、文京区の新名所となった。

| | コメント (0)

2017年11月13日 (月)

吹上坂(小石川)

坂下は小石川植物園前の変則交差点。 ここから播磨坂と吹上坂が小石川台地に上って行くが、どちらも実は戦後の坂道。 ただし、吹上坂は路地筋としては江戸時代からあった道である。 江戸時代から、宗慶寺も善仁寺も存在した。

Dscn2423
写真は宗慶寺。 近代的な寺院になっている。 この辺りは戦火でほぼ焼けてしまったようで、この吹上坂がそのおかげで真っすぐに春日通りに延びた。 春日通りの向こう側の谷へ降りるのは階段の庚申坂である。

坂下に文京区の説明板がある。

「このあたりをかって吹上村といった。この地名から名付けられたと思われる。
「吹上坂は松平播磨守の屋敷の坂をいへり(改選江戸志)。」
なお、別名「禿(かむろ)坂」の禿は河童に通じ、都内六ヶ所あるが、いずれもかっては近くに古池や川などがあって寂しい所とされている地域の坂名である。この坂も善仁寺前から宗慶寺・極楽水のそばへくだり、坂下は「播磨たんぼ」といわれた水田であり、しかも小石川が流れていた。この水田や川は鷺の群がるよき場所であり、大正時代でもそのおもかげを止めていた。

Dscn2421
小石川は千川とも呼ばれる。 宗慶寺の坂上にあった松平播磨守の屋敷には湧水の大きな池があり、水の豊かな地だったようだ。 この池は戦後の地図からは消えているので、昭和の初めころまではあったようである。 その湧水が吹上坂の由来になっている。

| | コメント (0)

2017年11月12日 (日)

三百坂(小石川)

三百坂という名前はユニークである。 そして伝わる由来もまたユニークである。 坂の景色はというとほとんど魅力的なところはない。 東京学芸大学附属高校竹早高校のグラウンドの裏を下る普通の道で、坂下手前でくの字に曲がっている。

Dscn2420
坂の途中にある説明板には次のように書かれている。

「別名、三貊坂(さんみゃくざか)

『江戸志』によると、松平播磨守の屋敷から少し離れた所にある坂である。松平家では新しく召抱えた「徒の者(かちのもの)」を屋敷のしきたりで、早くしかも正確に、役に立つ者かどうかをためすにこの坂を利用したという。

主君が登城のとき、玄関で目見えさせ。後衣服を改め、この坂で供の列に加わらせた。もし坂を過ぎるまでに追いつけなかったときは、遅刻の罰金として三百文を出させた。このことから,家人たちは「三貊坂」を「三百坂」と唱え、世人もこの坂名を通称とするようになった。」

Dscn2418
学校の敷地の大半は松平讃岐守の下屋敷で、周辺は小さな武家屋敷がずらりと並ぶ街並みだった。 三百坂の東側の武家屋敷の裏手はほぼ伝通院境内の中にある寺院だったが今では3軒ほどしか残っておらず、往時の姿を想像するのも難しい。

| | コメント (0)

2017年11月11日 (土)

御殿坂(文京区白山)

蓮華寺坂の坂上をそのまま南西に進むと下り坂になると同時に西側に樹木が生い茂った小石川植物園が見えてくる。 小石川植物園の敷地は江戸の初期、館山藩主松平徳松の屋敷だったが、5代将軍綱吉の頃、南麻布にあった御薬園が廃止され、この地に移転(1684)。 8代吉宗の時にほぼ今の敷地に拡大された。現在は東京大学の施設となっている。

Imgp1415
上の写真は2010年のもの。 万年塀と人ひとりがやっとの隙間の歩道だったが、数年後に再訪すると、道路幅は広げられとても歩きやすい道になっていた。 ただ、江戸の坂の雰囲気はいささか失われたように感じられた。

Dscn3560
ただ、坂の説明板だけは昭和のものがそのまま使われていて、ちょっと意外な気がした。その説明板には次のように書かれている。

「別名、大坂、富士見坂。「御殿坂は戸崎町より白山の方へのぼる坂なり。この上に白山御殿ありし故にこの名遺れり。むかしは大坂といひしや」(『改撰江戸志』)

「享保の頃、此坂の向ふに富士峰能く見へし故に、富士見坂ともいへり」(『江戸志』)

白山御殿は、5代将軍徳川綱吉が将軍就任以前、館林候時代の屋敷で、もと白山神社の跡であったので、白山御殿といわれ、また地名をとり小石川御殿ともいわれた。綱吉の将軍職就任後、御殿跡は幕府の薬園となった。享保7年(1722)園内に“赤ひげ”で有名な小石川養生所が設けられた。また同20年には、青木昆陽が甘薯の試作をした。明治になってからは東京大学の付属植物園となった。」

Dscn3555
きれいにはなったが、うっそうとした林の脇の道の方が坂道の情緒は高まる。 とはいえ坂上標高23m、坂下が9mで14mの高低差を緩やかなカーブを描きながら下るこの坂のかたちは素晴らしいものがある。

綱吉の白山御殿の水は千川上水が引かれていた。 玉川上水を吉祥寺の先で取水して、ここまで引き、さらに浅草周辺まで潤していた。 江戸の開発の歴史は水道の歴史である。

| | コメント (0)

2017年11月10日 (金)

伊賀坂(白山)

指ヶ谷の地名は昭和41年の町名変更で消えたが、指ヶ谷小学校の名前に残っているのは嬉しい事である。3代将軍家光が鷹狩りに来て、「あの谷も遠からず人家が出来るであろう。」と指し示したことから、指ヶ谷の地名が出来たという。 子供が少なくなり小学校が消えると地名も消える、そんな場所が東京にはいくつもある。

Dscn3551

その指ヶ谷小学校の前を上るのが伊賀坂である。 小学校の校門脇に説明板がある。

「白山台地から白山通りに下る坂で、道幅は狭く、昔のままの姿を思わせる。 この坂は武家屋敷にちなむ坂名の一つである。 伊賀者の同心衆の組屋敷があった(『御府内備考』)とか、真田伊賀守屋敷があった(『改撰江戸志』)という二つの説がある。 『東京名所図会』では真田伊賀守説をとっている。 伊賀者は甲賀者と共に、大名統制のための忍者としてよく知られている。」

Dscn3554
小学校の上で複雑な交差をするが細長い民家の東側の道が昔の伊賀坂筋である。 周辺は傾斜地で昔は石垣も多い曲がりくねった道だったようだが、今では明るい雰囲気になっている。戦前は小学校の裏まで細川邸の屋敷が広がっていたことからも、緑の多い薄暗い雰囲気だったことが想像できる。

| | コメント (0)

2017年11月 9日 (木)

蓮華寺坂(白山)

白山通りの白山下交差点から西に上る坂が蓮華寺坂。  坂上は台地になっていてしばらく平坦になった先、小石川植物園に達すると下り坂になる。 この台地は小石川台地で、少し南に行ったところが崖の突端になる。 現在そこには日立製作所の小石川迎賓館〝白山閣″がある。 旧細川家の屋敷で明治から戦前まで細川邸となっていた約2,000坪の館。

Dscn3547
蓮華寺に戻ろう。 坂の途中に説明板がある。

「『蓮華寺即ち蓮花寺といへる法華宗の傍らなる坂なればかくいへり。白山御殿跡より指が谷町の方へでる坂なり」と改撰江戸志にある。 蓮華寺は、天正15年(1587)高橋図書を開基、安立院日雄を開山として創開した寺院で、明治維新までは塔頭が六院あったという。 なお,この坂道は 小石川植物園脇の御殿坂へ通じ、昭和58年(1983)にハナミズキやツツジが植栽され、春の開花、秋の紅葉が美しい並木道である。」

Dscn3576
蓮華寺坂は小石川植物園脇の御殿坂からみた意味合いで、御殿裏門坂という別名がある。 御殿というのは、小石川植物園が江戸時代に綱吉が開いた屋敷だったためである。 のちに御薬園となった。

| | コメント (0)

2017年11月 8日 (水)

逸見坂(白山)

白山通りの白山下よりも少し北に上ったところ、焼肉幸楽苑別館(本館は蓮華寺坂下)の脇を上る路地が逸見坂である。 特にこれといった特徴はないが、白山通りからぐいっと上りそのあと平坦になっていくのは、この白山通り沿いのほとんどの坂に見られるパターン。

Dscn3566
しかしこの逸見坂は江戸時代の切絵図にも「ヘンミサカ」と記されている古い坂。 昔は白山通りはなかったので、白山神社の南参道からすぐにこの逸見坂の入口だった。 坂の途中にある説明板には次のように書かれている。

「白山神社裏門の南、小石川御殿町と指ヶ谷の間より南へ御殿町へ上る坂あり、逸見坂といふ。旧幕士逸見某の邸、坂際にありしより此名に呼ぶなり」(『東京名所図会』) 武家屋敷にちなむ坂名である。このあたり「旧白山御殿町」で、逸見坂はその北のはずれに当たる。 町名の由来は、白山御殿(後に5代将軍になった館林候綱吉の屋敷)からきている。 御殿廃止後、幕府の薬園(現在の小石川植物園)となる。 坂の西側の「本念寺」には蜀山人(太田南畝)の墓がある。

Dscn3564
江戸切絵図を見ると、この辺り一帯は武家屋敷が立ち並ぶが、逸見の名前は見当たらない。 しかし坂名として「ヘンミサカ」と書かれている。 江戸の坂道は武家の名前が付けられているものがいくつもあるが、もっと以前の切絵図には逸見と書かれているのであろうか。

| | コメント (0)

2017年11月 7日 (火)

一行院坂(白山)

浄土宗 天暁山 一行院 満徳寺。 一行院の正式な名前である。 寛永3年(1626)現在地に草庵を結び一寺を建立したのが始まり。その後廃寺になりかけるが、文化14年(1817)徳本行者(念仏聖として諸国をめぐって念仏を広めた)が再興した。 きれいな寺院である。

Dscn3572
白山通り側から入ると最初は傾斜があるがすぐに緩やかになる。 辺りは酒井雅楽頭の屋敷だった場所で、今の白山通りの辺りは大名庭園の大きな池だったところ。 この池は時代と共に徐々に縮小し、昭和の中頃まで存在した。

Dscn3574
一行院がなければ歩かない坂と言えるかもしれない。 それくらいこの坂で一行院の塀はインパクトになっている。  江戸時代は一行院の裏にある通りがメインストリートだった。

| | コメント (0)

2017年11月 6日 (月)

暗闇坂(白山)

あちこちに暗闇坂(闇坂)という名の坂はある。 単純に武家屋敷の間とか林の間で暗い場所をそういう場合が多い。 この白山の暗闇坂は武家屋敷の間の暗闇坂である。 坂の西側には酒井雅楽頭の屋敷、東側には森川伊豆守の屋敷があり、それぞれに広い屋敷なので樹木の生い繁る暗い道だっただろう。

Dscn3567
現在は京華女子中高校の手前の路地を入る狭い急坂。坂に関する情報が少ないからか、説明板はない。 坂上の道も細い路地だが、江戸時代の切絵図にもある古い道。白山神社の裏から暗闇坂の上を通り、その先で東に曲がり中山道に出るが、江戸時代は右も左も大名屋敷で、この路地も暗かったと思われる。 明治時代の地図を見ると、坂下には川が流れている。その川の水で池が出来ている場所もあり、それは現在の京華商業高校の敷地のようだ。

Dscn3568
明治の末頃、寺田寅彦はこの坂の上に住んでいた。当時も鬱蒼とした樹木に覆われた通りだったと書き残している。 また、『新撰東京名所図会』には、昔はこの辺りは家屋なく原野だったため、単に原と呼んでいたが、そのうちに家が建つようになり、原では困るので大小を付けて大原・小原という地名で呼ぶようになった、とある。明治時代の地名は小石川原町であった。

| | コメント (0)

2017年11月 5日 (日)

薬師坂(白山)

白山通りの白山下から中山道(旧白山通り)白山上に上る都営三田線白山駅の通りが薬師坂である。 別名が多い。 薬師坂のほかには、薬師寺坂、浄雲寺坂、白山坂という別名がある。 昔は二間幅(3.5m)の細い道だったが、今では広く車も人通りも多い道である。

Dscn3580
白山駅出口の歩道に説明板が立っている。

「『妙清寺に薬師堂有之候に付、里俗に薬師坂と相唱候』(御府内備考) 坂上の妙清寺に薬師堂があったので、薬師坂と名づけられた。また、坂下に浄雲院心光寺があったので、浄雲寺坂とも呼ばれた。また近くに白山神社があり、旧町名が白山前町で、白山坂ともいれわるなど、別名の多い坂の一つである。

『新撰東京名所図会』には、「薬師堂は、土蔵造一間半四面。「め」の字の奉額、眼病全快者連名の横額あり」と、明治末年の姿を記している。 このお薬師は特に眼病に霊験あらたかであったようである。 土蔵造は、江戸の防火建築で、湯島本郷辺の町屋が土蔵塗屋づくりを命じられたのは、享保15年(1730)の大火後である。現存するものに無縁坂の講安寺本堂がある。」

Dscn7591
妙清寺は曹洞宗の寺院で慶長11年(1606)の開山。薬師如来がご本尊。 この辺りは江戸時代は白山権現を中心に多くの寺院が並ぶ寺町だった。 明治末期になって路面電車が通された(1911年:明治44年)。

Dscn7592
坂上近くの駅前から参道が伸び白山神社(白山権現)に導く。 縁起は古く、天暦2年(948)。 写真の鳥居のある東側がメインの参道だが、社殿は南向き。 白山通り脇の旧道とみられる路地から入ると長い参道の階段がある。 この南の階段が白山神社が立つ台地の縁で指ヶ谷を一望する崖上突端になる。

| | コメント (0)

2017年11月 4日 (土)

浄心寺坂(文京区白山)

浄心寺坂に現在浄心寺はない。 あるのは八百屋於七で有名な円乗寺だが、江戸時代にはその西隣に浄心寺があった。 現在は本郷通りの東側に浄心寺があるが、寺の縁起を見ると湯島の嬬恋坂に創建されて、振袖火事により焼失し文京区向丘に移ったとある。 江戸の火事は難儀である。

Dscn7598
坂の上り初め北側に円乗寺があり、その入り口脇に八百屋於七地蔵尊がある。八百屋於七の墓は円乗寺内である。入口に説明板がある。

「お七については、井原西鶴の『好色五人女』など、古来いろいろ書かれ語られて異説が多い。お七の生家は、駒込片町(本郷追分など)で、お七の家が焼けて、菩提寺の円乗寺に避難した。その避難中、寺の小姓(コショウ)の佐兵衛(または吉三郎)と恋仲になった。やがて家は再建されて自家に戻ったが、お七は佐兵衛に会いたい一心でつけ火をした。

放火の大罪で捕らえられたお七は、天和3年3月29日火あぶりの刑に処せられた。数えで16歳であったという。三基の墓石のうち中央は寺の住職が供養のため建てた。右側のは寛政年間(1789~1801)岩井半四郎がお七を演じ好評だったので建立した。左側のは近所の有志の人たちが、270回忌の供養で建立したものである。」

Dscn3546
浄心寺坂の説明板は坂上にある。

「小石川指ヶ谷町より白山前町を経て東の方、本郷駒込片町へ登る坂あり。浄心寺坂といふ。(新撰東京名所図会)

浄心寺近くの坂なので、この名がついた。また坂下に「八百屋於七」の墓所円乗寺があることから「於七坂」の別名もある。」

Dscn7606
浄心寺坂と白山通りを越えた蓮華寺坂は下って上る薬研地形になっているが、この坂下の谷あいの一帯を昔は指ヶ谷と呼んでいた。 町名「指ヶ谷」の由来については、3代将軍家光が鷹狩りに来て、「あの谷も遠からず人家が出来るであろう。」と指し示したことから、指ヶ谷の地名が出来たという。

小石川の支流である指ヶ谷なる川は、千石から流れてきた細流と、白山神社を挟んだ東側の細流を合わせて谷を形成し、東側の流れは於七地蔵尊下を流下、福山坂下の富士湯の前をくねりながら富坂方面へ流れていた。 道路は正直にその痕跡を残している。町名「指ヶ谷」の由来については、3代将軍家光が鷹狩りに来て、「あの谷も遠からず人家が出来るであろう。」と指し示したことから、指ヶ谷の地名が出来たという。

| | コメント (0)

2017年11月 3日 (金)

中坂(白山)

胸突坂と浄心寺坂の間にあるから中坂。 中坂という名の坂にはそのパターンの由来が多い。 説明板はないが、江戸時代の切絵図にもこの道は描かれているので、間違いなく江戸時代の坂である。 ただし、当時は雨が降ったら登れないだろうと思われるほど、傾斜がきつい。

Dscn3541_2
上の写真は2016年1月に訪問した時のもの。半分はコンクリートのスリット舗装で、かろうじてすべり止めになっているが、今回2017年11月の訪問では、工事中の場所に新しい家が建ち、道路が狭まっただけでなく、すべり止めもなくなってしまった。

Dscn7609
実はこの坂の坂下は丁字路で、これまで多くの人が止まりきれず激突したらしく、注意喚起の表示があった。 いやさすがにこの坂は怖いだろう。

Dscn7607
坂下の建物は文京区の白山児童館である。コンクリートには欠けやヒビが見られた。江戸時代この辺りは小さめの武家屋敷が立ち並ぶエリアだった。 崖線の上は阿部家の敷地が細長く、西片からこの近くまで広がっていたので、胸突坂よりも南の小武家屋敷の玄関は西にあり、小川を橋で渡した玄関だったと思われる。 一方胸突坂以北は、坂上を玄関にしている。 この辺は武家屋敷が標高をもって評価され、より上の方が位が高いと認識されていたからだろうか。

| | コメント (0)

胸突坂(白山)

胸突坂下の南北に走る道は本郷台地の崖線の道である。 浄心寺坂の坂下、八百屋お七で有名な円乗寺前から崖線の下に沿って道がある。 その道筋が、この胸突坂で東に折れ、急な上り坂になって中山道に出る。 現在は路地だが江戸時代からある道である。

Dscn7610
上の写真は曲がる前の崖線下の道。 黄色い通学路標識の所で左に曲がり急坂になる。坂下に文京区が設置した標識がある。

「胸突坂(むなつきざか)  (峰月坂・新道坂)
 「松山新町と駒込西片町との界にある坂を胸突坂といふ。坂道急峻なり、よって此名を得、左右石垣にて、苔滑か」と『新撰名所図会』にある。台地の中腹から、本郷台地に上る坂、坂上から白山通りをへだてて、白山台を望む。『胸突坂』とは急な坂道の呼び名で区内に3ヶ所ある。この坂のすぐ南の旧西片町一帯は、福山藩の中屋敷跡で「誠之館」と名づけた江戸の藩校があったところである。」

Dscn7612
坂下の1本下の路地は暗渠で、白山から流れてきて、富坂辺りで小石川からの流れと豪遊し水道橋に注ぐ流れだった。 現存する富士見湯もこの小川沿いにある。この小さな流れが本郷台地の崖線を作ったのである。 胸突坂より南側は福山藩阿部家の広大な屋敷の一部だった。

Dscn7615
辺りの旧町名は丸山福山町といい、樋口一葉は『にごりえ』の中で、「柳町、指ヶ谷町から白山下までが水田であったことは、さう昔のことではない。」と書いている。また『新撰東京名所図会』には、「左右石垣にて苔滑らか」と書かれているので、難儀な坂だったのだろう。

| | コメント (0)

2017年11月 2日 (木)

胸突坂(目白台)

目白台には名坂が多い。 その代表の一つが胸突坂である。 神田川沿いの関口芭蕉庵から急な崖を上る階段坂だ。 関口芭蕉庵は椿山荘の一角にあるかつて松尾芭蕉が住んだ庵である。

時代は1677年~1680年の間、芭蕉は神田川の改修工事に参画し、「龍隠庵(りゅうげあん)」と呼ばれる庵に住んでいた。 のちにこの庵は関口芭蕉庵と呼ばれるようになった。芭蕉はここから望む早稲田田んぼを琵琶湖に見立て、その風光を愛したと伝えらえる。

Dscn2116
坂の東にある椿山荘の敷地は江戸時代は椿が自生する景勝地で「つばきやま」と呼ばれていた。椿山荘の由来である。江戸時代この場所は上総久留里藩黒田豊前守の下屋敷だった。明治になってここを購入したのは軍人で政治家の長州人山形有朋。 目白台の崖線を利用した素晴らしい庭園を築いた。

Dscn2117_2
胸突坂という名前の坂は23区内に4ヶ所、文京区内に3ヶ所ある。 どの胸突坂よりもここが一番その名にふさわしい厳しい勾配である。 にもかかわらず多くの人が上り下りする。坂の西側には水神社がある。 坂下にある説明板には次のように書かれている。

「目白通りから芭雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。

坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。」

Dscn2120
何度目かの訪問時、坂上の細川邸跡の永青文庫では「春画展」をやっていて路地は人々でごった返していた。

昔、江戸川上水(神田上水)は、坂下の関口でいったん流れを堰き止め、木樋をかけて分水を北側台地沿い(巻石通り)に導いて配水していた。 これが関口の由来。坂下には今は橋があるが、江戸時代は橋が架かっていなかった。 この坂を無謀に下った車夫が勢い余って神田川に落ちた話も伝えられている。 坂上からの展望は僅かな隙間しかないが、江戸時代の風景は歌川広重の「江戸名所百景」の『せき口上水端はせを庵椿やま』に描かれている。 これが当時の神田川と早稲田の景色である。

| | コメント (0)

2017年11月 1日 (水)

薬罐坂(小日向)

横町坂の東突き当りを北に曲がると袋小路だが、一本だけ抜けられる。途中右に入る路地がある。 すぐに突き当りに見えるが、その突き当りは崖になっていて、崖の上は墓地である。巻石通り沿いに4軒並ぶ寺院の裏手が広い墓地になっており、その西端の崖下を通るのが薬罐坂である。

Dscn2285
高度成長期以前はこの辺りには家はなく、袋小路もなかった。 ただ、横町坂から素直に薬罐坂に道が続いていた。 薬罐というのは、元は野狐のことを野犴(やかん)と呼んでいて、それが薬缶(薬罐)に転化したものらしい。また江戸時代の俗語で、夜鷹のことを「ヤカン」と呼んでいたので、その説もある。 寂しい墓場の裏通りに私娼が立っている、そういう場所だったのだろう。

Dscn2286
戦後になり、この坂の周辺は住宅建築が進み、昔の雰囲気は薄れていった。 この辺りの昔の地図を見ていて、薬罐坂の場所は江戸時代から変わったのではないかという推察を私は持った。江戸時代の尾張屋清七版を見ると、小日向台町からくる道がこの薬罐坂上と出合った辻あたりの東西の道に「ヤカンサカ」と書かれている。 しかし、地形図を見ると薬罐坂の方が傾斜道で、東西の道の高低差は僅かしかない。

かつて江戸の坂を研究した先達達は誰もここに着目していない。本当はどっちの道が薬罐坂だったのか、今もなお私の中では未消化状態である。

| | コメント (0)

« 2017年10月 | トップページ | 2017年12月 »