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2017年11月 4日 (土)

浄心寺坂(文京区白山)

浄心寺坂に現在浄心寺はない。 あるのは八百屋於七で有名な円乗寺だが、江戸時代にはその西隣に浄心寺があった。 現在は本郷通りの東側に浄心寺があるが、寺の縁起を見ると湯島の嬬恋坂に創建されて、振袖火事により焼失し文京区向丘に移ったとある。 江戸の火事は難儀である。

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坂の上り初め北側に円乗寺があり、その入り口脇に八百屋於七地蔵尊がある。八百屋於七の墓は円乗寺内である。入口に説明板がある。

「お七については、井原西鶴の『好色五人女』など、古来いろいろ書かれ語られて異説が多い。お七の生家は、駒込片町(本郷追分など)で、お七の家が焼けて、菩提寺の円乗寺に避難した。その避難中、寺の小姓(コショウ)の佐兵衛(または吉三郎)と恋仲になった。やがて家は再建されて自家に戻ったが、お七は佐兵衛に会いたい一心でつけ火をした。

放火の大罪で捕らえられたお七は、天和3年3月29日火あぶりの刑に処せられた。数えで16歳であったという。三基の墓石のうち中央は寺の住職が供養のため建てた。右側のは寛政年間(1789~1801)岩井半四郎がお七を演じ好評だったので建立した。左側のは近所の有志の人たちが、270回忌の供養で建立したものである。」

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浄心寺坂の説明板は坂上にある。

「小石川指ヶ谷町より白山前町を経て東の方、本郷駒込片町へ登る坂あり。浄心寺坂といふ。(新撰東京名所図会)

浄心寺近くの坂なので、この名がついた。また坂下に「八百屋於七」の墓所円乗寺があることから「於七坂」の別名もある。」

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浄心寺坂と白山通りを越えた蓮華寺坂は下って上る薬研地形になっているが、この坂下の谷あいの一帯を昔は指ヶ谷と呼んでいた。 町名「指ヶ谷」の由来については、3代将軍家光が鷹狩りに来て、「あの谷も遠からず人家が出来るであろう。」と指し示したことから、指ヶ谷の地名が出来たという。

小石川の支流である指ヶ谷なる川は、千石から流れてきた細流と、白山神社を挟んだ東側の細流を合わせて谷を形成し、東側の流れは於七地蔵尊下を流下、福山坂下の富士湯の前をくねりながら富坂方面へ流れていた。 道路は正直にその痕跡を残している。町名「指ヶ谷」の由来については、3代将軍家光が鷹狩りに来て、「あの谷も遠からず人家が出来るであろう。」と指し示したことから、指ヶ谷の地名が出来たという。

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