胸突坂(目白台)
目白台には名坂が多い。 その代表の一つが胸突坂である。 神田川沿いの関口芭蕉庵から急な崖を上る階段坂だ。 関口芭蕉庵は椿山荘の一角にあるかつて松尾芭蕉が住んだ庵である。
時代は1677年~1680年の間、芭蕉は神田川の改修工事に参画し、「龍隠庵(りゅうげあん)」と呼ばれる庵に住んでいた。 のちにこの庵は関口芭蕉庵と呼ばれるようになった。芭蕉はここから望む早稲田田んぼを琵琶湖に見立て、その風光を愛したと伝えらえる。
坂の東にある椿山荘の敷地は江戸時代は椿が自生する景勝地で「つばきやま」と呼ばれていた。椿山荘の由来である。江戸時代この場所は上総久留里藩黒田豊前守の下屋敷だった。明治になってここを購入したのは軍人で政治家の長州人山形有朋。 目白台の崖線を利用した素晴らしい庭園を築いた。
胸突坂という名前の坂は23区内に4ヶ所、文京区内に3ヶ所ある。 どの胸突坂よりもここが一番その名にふさわしい厳しい勾配である。 にもかかわらず多くの人が上り下りする。坂の西側には水神社がある。 坂下にある説明板には次のように書かれている。
「目白通りから芭雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。
坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。」
何度目かの訪問時、坂上の細川邸跡の永青文庫では「春画展」をやっていて路地は人々でごった返していた。
昔、江戸川上水(神田上水)は、坂下の関口でいったん流れを堰き止め、木樋をかけて分水を北側台地沿い(巻石通り)に導いて配水していた。 これが関口の由来。坂下には今は橋があるが、江戸時代は橋が架かっていなかった。 この坂を無謀に下った車夫が勢い余って神田川に落ちた話も伝えられている。 坂上からの展望は僅かな隙間しかないが、江戸時代の風景は歌川広重の「江戸名所百景」の『せき口上水端はせを庵椿やま』に描かれている。 これが当時の神田川と早稲田の景色である。
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