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2017年12月31日 (日)

紅葉坂(谷中)

紅葉坂は谷中墓地の天王寺門前から線路側に下る。 あるいは日暮里駅南口を崖上に進む。この日暮里駅南口がちょっと変わっている。 日暮里の駅前ロータリーから南口は認識できない。 消防署の南側に歩道橋のような階段があり、これを上ると日暮里駅南口、その先が紅葉坂になる。

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日暮里駅南口から紅葉坂方向へ行く人は普段はほとんどいない。跨線橋の先の突き当りを左に曲がると石垣と階段が現れる。これが紅葉坂だ。 江戸時代の切絵図には書かれていないが、坂の命名は江戸時代なので、当時の紅葉坂と現在の紅葉坂がどれくらい重なるのかはわからない。

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階段坂を上ったところに台東区の標柱がある。

「坂道周辺の紅葉が美しかったので「紅葉坂」と命名されたのだろう。別名「幸庵坂」ともいった。その命名由来は不詳。江戸後期の国学者、山崎美成(よししげ)は「金杉日記」に、「天王寺うら幸庵坂下、又三しま社のほとり秋色尤もふかし、林間に酒を煖む」と記している。この記事によると、幸庵坂の名は江戸時代すでにあったことが知られる。」

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幸庵坂は紅葉坂の別名。 大正時代までは御殿坂が崖に沿って南に曲がり、その先で紅葉坂の坂下と出合っていた。 今は線路わきの通路程度に水平な道があるが、それに近いルートだったようだ。

天王寺には墓地の交番の所に五重塔があった。江戸時代初期に建てられたが明和の大火(1772)で焼失、20年後に再建された。 戦火も乗り越え、東京で最も高い五重塔だったが、昭和32年(1957)に心中放火で焼失した。 財源の問題でいまだに再建はされていない。 空しく礎石が残るのみである。

写真: 2016/5/6

加筆: 2018/12/6

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2017年12月30日 (土)

芋坂(谷中)

谷中霊園と日暮里を結ぶ道は御隠殿坂、芋坂、紅葉坂、御殿坂(下御隠殿橋)の4つ。 車が通れるのは御殿坂のみである。 芋坂は王子街道にある善性寺門前から入る。その善性寺門前の芋坂入口には文政2年(1819)に創業した藤の木茶屋(現在の羽二重団子)がある。ただし羽二重団子は2017年現在ビルの建て替え中であった。建て替え前角には王子街道の石碑が立っていた。また路地に入ったところに荒川区の立てた説明板があった。

羽二重団子の店には多くの逸話がある。上野戦争で新政府軍に追われた彰義隊が芋坂を下り、数名がこの店に侵入し変装したという話や、夏目漱石の『吾輩は猫である』の文中にも、芋坂へ行って団子を食うというという話が出ている。200年もやっていると、いろんなことがあるものだ。

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<荒川区の説明板>

善性寺の門前から谷中墓地へのぼる坂。 坂名の由来は未詳。 明治15年ころ、日本鉄道会社の東北線(現JR)が通じて分断され、その形状が失われてしまった。  伊東晴雨が描いた「根岸八景」の「芋坂の晩鐘」は、天王寺の五重塔を望む芋坂ののどかなたたずまいをよくあらわしている。

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芋坂跨線橋も一見御隠殿坂と見間違えそうだが、よく見ると階段の真ん中に手すりとスロープがない、鉄道との間のフェンスが異なる、橋が芋坂の方は直線で御隠殿坂は曲がっている。 ここもかつては踏切だった。

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跨線橋を渡ると緩やかな坂が墓苑に向かって続いている。その先に台東区の立てた標柱がある。

<台東区の標柱>

坂を登れば谷中墓地、下ると羽二重団子の店の横から善性寺へ通じていた。鉄道線路でカットされ、これに架かる橋が「芋坂跨線橋」と名付られて、わずかにその名を残している。坂名は伝承によると、この付近で自然薯(山芋)が取れたのに因むという。正岡子規や夏目漱石,田山花袋の作品にもこの芋坂の名が書かれている。

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跨線橋の脇に子供の遊び場に下る曲がった坂がある。古い地図を見ると昭和30年代までここには踏切があり車道が通っていたようである。しかし坂関連書物では明治15年に鉄道が敷かれて以来跨線橋になったと書かれている。真相はよくわからない。

写真: 2016/5/6

加筆: 2018/12/7

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2017年12月29日 (金)

御隠殿坂(上野)

上野台地の東の縁は遥か昔から重要な場所だった。 縄文時代や弥生時代の遺跡や貝塚はあるし、平安時代の住居跡、室町時代は江戸を支配していた太田道灌が道灌山に出城を築き、江戸時代には寛永寺、御隠殿、天王寺と巨大な寺院がこの台地の縁を陣取っていた。

縄文時代はこの崖下は海岸だったのだが、江戸時代は王子から音無川が流下しており、それに沿って王子街道が通っていた。日暮里は一日過ごしても飽きないひぐらしの里と江戸時代には呼ばれていたと伝えられるが、実は以前は新堀村という村名でそれが転化していいところだという意味を込めて日暮里となったようだ。

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その里から歩道橋で線路を超えると上野の山の崖線に渡る事ができる。昭和3年頃造られたもの。 京成線の線路が近い。大正以前は踏切で渡り急坂を上っていたのだろう。御隠殿坂は鉄道のない明治初期の地図にも描かれている。

どうも地図上で御隠殿の動きを辿ると不可解な点がある。寛永寺から御隠殿は同じ上野台地の上なので、台地の下にある鉄道を渡る必要性は全くないのだ。もし谷下を通ったとすると当時の王子街道を歩いたことになり、たいそう遠回りになってしまう。

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各時代の地図を見ていてふと気づいたのは、上野写真の端の脇に下っている道が元々の御隠殿坂で、御隠殿そのものはこの斜面を利用して、崖下の音無川まで広がっていたに違いないということだった。 そうすれば御隠殿を別邸にしていた寛永寺住職らがこの坂を下るということの辻褄が合う。

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墓地に入ったところに標柱がある。「明治41年(1908)刊、『新撰東京名所図会』に、御隠殿坂は谷中墓地に沿ひ鉄道線路を経て御隠殿跡に下る坂道を云ふ。もと上野より御隠殿への通路なりしを以てなり。」とある。御隠殿は東叡山寛永寺住職輪王寺宮法新王の別邸。江戸時代、寛永寺から別邸へ行くため、この道が造られた。「鉄道線路を経て」は踏切を通ってである。」

やはり別邸は崖下に建てられていたのだろう。

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寛永寺坂(上野)

鶯谷駅東側から高架橋を上り山手線(京浜東北線・常磐線)を寛永寺橋で越えて上野桜木町に上がる坂道が寛永寺坂である。 明治の終わりにはまだこの道はない。大正10年ころは踏切と切通しの急坂だったが、昭和3年に跨線橋が開通したようである。明治時代鶯谷駅の崖上の墓地はすべてが徳川の霊廟だった。現在も墓地の中に霊廟が残る。

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跨線橋を越えてから上野桜木二丁目までの緩やかな道が現在の寛永寺坂。 跨線橋の所に標柱がある。

「大正年間(1912-25)発行の地図からみて、この坂は同10年ごろ新設されたように推察される。当初は鉄道線路を踏切で越えていた。現在の跨線橋架設は 昭和3年(1928)8月1日。名称は寛永寺橋である。坂の名をとったと考えていい。坂の名は坂上が寛永寺境内だったのにちなむという。寛永寺は徳川将軍の菩提寺だった。坂上,南に現存。」

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上野桜木町二丁目交差点にかつてあった京成電鉄の寛永寺坂駅の建物がかろうじて残っている(台東倉庫)。 京成電鉄は西郷像下の上野駅を出ると次の駅がここだった。現在もこの倉庫の裏手で地下を通ってきた線路が地上に出る。

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江戸時代には栄華を誇った東叡山寛永寺も上野戦争で焼失し、現在はこの上野桜木町に収まっている。 しかし寂れたとはいうものの江戸時代に江戸最大の寺院だったころの雰囲気は残しているように思う。

鶯谷駅の上の霊廟には15代将軍のうち、6将軍の墓がある。 4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定が埋葬されている。

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富士見坂(日暮里)

東京には富士見坂と呼ばれる坂道が16ヶ所あるそうだが、もう富士山を望める坂道は都心にはない。 2000年以降まだ富士が眺められたのは大塚の富士見坂とこの日暮里の富士見坂のみになっていた。 しかし相次ぐビル建設で大塚は2005年に見えなくなり、この日暮里もニュースになるほどの運動を展開していたが、残念ながら2013年に最後の富士見坂としての役割を終えた。 そのいきさつは「日暮里富士見坂を守る会」のページに詳しく書かれている。下の写真の遠景真ん中に茶色のマンションがあるが、これがこの坂の富士見にとどめを刺した。

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坂の別名は花見坂、妙隆寺坂。 その説明が坂上の荒川区の説明板にあった。

「坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺(修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と呼ばれたことから、この坂も通称「花見坂」、または「妙隆寺坂」と称された。 都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことができる坂である。」

その説明板に追記がされていた。『都心にいくつかある富士見坂のうち、最近まで地上から富士山が見える坂でした。「関東の富士見百景」にも選ばれています。』

地元の人々にとっては相当無念だったのだろう。

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坂に設置されている街灯も富士のモニュメントを入れたものになっている。しかし周辺住民の意見をゼネコンが聞き入れた例はほとんどない。その辺りは日本が先進国になりきれない後進的な象徴のように思う。 ただこの国の特徴としては内側からは変化できない。 守る会がイコモスに嘆願したのはその点的を射ているが力及ばずであった。

日暮里の地名は昔は「新堀」と書いた。江戸時代から眺めの良い場所で、人々が日暮れを眺めては酒を楽しむ景勝地だったため、いつしか「日暮里」と書くようになった。

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それでも最後の富士見坂になったことでこの坂はいつまでも富士見坂として伝えられると思う。 実際には世田谷区のいくつかの坂道で今でも地上から富士を望めるのだが、江戸時代は世田谷は江戸の外だった。

坂上は諏方神社に由来する諏訪台と呼ばれ、江戸時代はこの見晴らしの良い高台から行楽客がのどかな風景をひぐらし楽しんだという。歌川広重の名所江戸百景にも描かれている。(日暮里諏訪の台

写真: 2016/5/5

加筆: 2018/12/7

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御殿坂(谷中)

JR西日暮里駅の北口を出ると、左に桜並木の短い坂がある。南側を谷中の墓地、北側を本行寺に挟まれて、いかにも谷中の入口という雰囲気を醸し出している。 谷中霊園は江戸時代以前は広大な天王寺の境内だった。明治になって東京府に移管されるまで、天王寺はこの広大な寺域を有していた。

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現在は日暮里駅北口から西が御殿坂だが、江戸時代は日暮里駅東口の低地から坂が上っていた。 東口の駅前ロータリーに南北から入る道路はかつての川筋であった。現在駅前にある荒川消防署は寮を併設しているが、この寮の名前が「音無川寮」という。 この川沿いにかつては王子街道が付いており、音無川は王子駅前にある親水公園の音無川の下流にあたる。

御殿坂に戻ろう。 御殿坂は七面坂同様、台東区と荒川区の区境の道路である。なので、坂の説明板(標柱も)坂の両側にあり、北側の本行寺前にあるのが荒川区のもの、南の歩道の植込みにあるのが台東区のものである。

<荒川区の説明板>

西日暮里3丁目と台東区谷中7丁目の境を七面坂上から日暮里駅方面へ下る坂。江戸時代から用いられていた呼称である。当時の絵図などから、天王寺(現谷中墓地)の下を通り芋坂下に続いていたことがうかがえる。天保9年(1838)刊の「妙めお(みょうみょう)奇談」は、寛永(1624~44)の頃、白山御殿(将軍綱吉の御殿)や小菅御殿(将軍御膳所)と同様の御殿がこのあたりにあったことにより付いたというが、坂名の由来は明確ではない。

<台東区の標柱>

文政12年(1829)に成立した『御府内備考』には、「感応寺後と本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが、「根岸」の誤写の可能性がある。明治5年『東京府志料』には、長さ十五間(約27.3メートル)幅二間(約3.6メートル)とあるが、現在の坂の長さは50メートル以上あり、数値が一致しない。以前は、谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅やJRの線路ができた際に消滅したため、その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの先にあったからといわれるが、根拠は定かではない。

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江戸時代は、音無川の削った谷に向かって急坂があったはずである。 長さ27mの坂とあるが、高低差は15mほどあるので相当な急坂だったと思われる。由来は区の説明では不明としているが、天王寺の南側にあった御隠殿に回り込む坂だったので御殿坂となったという説が有力。 ただ別名で乞食坂とも呼ばれたのは、門前には昔よく乞食が定着して施しを要求していたため寺の近くに乞食坂がしばしばみられることの一例だろうと思う。

上の写真の山門のある本行寺には、私の生まれた山口県の種田山頭火の句碑がある。

「ほっと月がある東京に来てゐる」

個人的な解釈だが、東京のような雑踏の町に来てしまったが、月はどこで見ても同じ月なのだなあ…と、ほっとしたのではないだろうか。

写真: 2016/5/5

加筆: 2018/12/7

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夕やけだんだん(谷中)

日暮里駅北口から谷中銀座に向かう途中の階段。 とても有名な階段で、平日でさえ段上から谷中銀座を撮ったり、階段で記念撮影する人が絶えない。 この「夕やけだんだん」という名前は一般公募によって名づけられた。 猫が多い階段とも言われるが、昨今は人が増えすぎて猫も若干居づらくなったようだ。 少なくなった気がする。「夕やけにゃんにゃん」とも呼ばれるが、カタカナで書くとフジテレビの1980年代のあの番組になってしまう。

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坂ではなく階段になっていることで谷中銀座は自然に歩行者天国化している。勿論、南に並行する七面坂から車で回り込むことはできるが、通常そんな車はいない。 選ばれた坂名は谷中に住む地元タウン誌『谷根千』を編集する森まゆみさんという方の応募だという。編集者だからというわけではなく一主婦として応募したら採用されたという本人の説明があった。

公募は1990年だから夕やけニャンニャンが終わってから3年後、しかしこの親しみやすい言葉の音は人を集めるのに一役買っていそうだ。

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天気のいい夕方に行くと谷中銀座の向こうに夕日が沈むのが見られる。 まさに「ALWAYS 三丁目の夕日」のイメージそのままの風景を見ることができる。 谷中銀座商店街は戦後自然に発生した昭和の商店街だ。 だから老舗はない。 それでもノスタルジックな雰囲気があるのは、地元の見事なマーケティングの結実だと感じられた。

写真: 2016/5/5

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2017年12月28日 (木)

七面坂(谷中)

谷中銀座は都内の商店街のの中でも随一の人気を誇っている。 平日でも観光客で混み合うが、江戸時代は寺町の端っこで、商店街辺りは田畑だった。明治になっても谷中銀座の道筋は存在していない。商店街筋に道が通ったのは戦後高度成長期である。 道の歴史から言うと明治時代からある原宿竹下通りの方が遥かに古いのだ。

そんな夕やけだんだんから谷中銀座への道の南にある七面坂、今でも台東区と荒川区の区境の道路になっている。通りの南には長命寺の墓地がある。 逆くの字に曲がっている坂道である。

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七面坂は区境の道路だけに、坂の説明板も荒川区のものと台東区のものが対面して立っている。 荒川区の方はあっさりした説明で、「御殿坂上から台東区長命寺の墓地裏を経て、宗林寺(通称萩寺)の前へ下る坂道をいう。坂名の由来は、坂上北側の宝珠山延命院の七面堂にちなむ。」と書かれている。

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一方、台東区のものは細かく英語でも書かれている。

「宝暦年間の『再校江戸砂子』に「宗林寺前より七面へゆく坂」とある。宗林寺(台東区谷中3-10)は坂下にあるもと日蓮宗の寺、七面は坂上の北側にある日蓮宗延命院(荒川区西日暮里3-10)の七面塔を指す。七面塔は甲斐国(山梨県)身延山久遠寺の西方、七面山から勧請した日蓮宗の守護神七面天女を祀る堂である。
 坂は『御府内備考』の文政9年(1826)の書上によれば、幅2間(約3.6メートル)ほど、長さ50間(約90メートル) 高さ2丈(約6メートル)ほどあった。なお宗林寺は『再校江戸砂子』に、蛍の所在地とし、そのホタルは他より大きく光もよいと記され、のちには境内にハギが多かったので萩寺と呼ばれた。」

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蛍坂(谷中)

別名三年坂、または中坂。 三年坂は墓地や寺院の脇の坂に多くつけられる名前で、転ぶと三年以内に死ぬという迷信がまことしやかなに言われていた俗言。 この坂は細くて車は通れない。 しかし江戸時代から存在する坂道なのである。

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坂下の標柱には次のように書かれている。

「江戸時代、坂下の宗林寺付近は蛍沢と呼ぶ蛍の名所であった。坂名はそれにちなんだのであろう。『御府内備考』では「宗林寺の辺も螢沢といへり」と記し、七面坂南方の谷へ「下る処を中坂といふ。」と記している。中坂とは三崎坂と七面坂中間の坂なのでそう呼んだ。三年坂の別名もある。」

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昔はこの坂下は湿地帯で蛍が多く、螢沢とか蛍谷と呼ばれていた場所。コンクリート法面の上は広い墓地になっている。 本立寺と霊梅禅院の墓地だが、江戸時代の切絵図には、本立寺が本宗寺、霊梅禅院が礼拝院と書かれている。

この辺りは別名初音の森とも言われ、江戸時代は鶯谷のうぐいすに対応して、ウグイスの初音を聴ける場所として明治以降初音町とされた。

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坂上には寺院が並んでいる。そのうちの一つ、観音寺の築地塀は有名である。 向かいの谷中御廟の塀と対比して絵になる路地になっている。観音寺の築地塀は40m近くあり、登録有形文化財に指定されている。

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2017年12月27日 (水)

三崎坂(谷中)

三崎(さんさき)坂は団子坂下から谷中霊園に上る坂道である。 どこからどこへという幹線ではないが、なぜか通りは賑わっている。 昨今の谷根千ブームで観光客が絶え間なく入ってきているのだ。 坂下のへび道の出口に枇杷橋跡(合染橋跡)の説明板がある。

「文京と台東の区境の道路は、うねうねと蛇行している。この道は現在暗渠となっている藍染川の流路である。(中略)川の名は、上流から境川・谷戸川(谷田川)・藍染川などと呼ばれた。藍染の名の由来はいろいろある。染井から流れ出るから、川筋に染物屋があり川の色が藍色に染まっていたからなど。(中略)川は、水はけが悪くよく氾濫したので、大正10年から暗渠工事が始められ、現在流路の多くは台東区と文京区の区境の道路となっている。」

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坂の途中に標柱がある。

「三崎」という地名の由来には諸説あるが、駒込・田端・谷中の三つの高台に因むといわれる。安永2年(1773)の『江戸志』によると、三崎坂の別名を「首振り坂」といい、30年ほど以前、この坂の近所に首を振る僧侶がいたことに因むという。」 と書かれている。

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ふつうは三崎坂と書くと「みさき」と読むのだが、「さんざき」と呼んだのは標柱の説明にあるように三つの高台があり、その高台を岬になぞらえて「さんさき」と呼ぶようになったというのがしっくりくる。

写真: 2016/5/5

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真島坂(谷中)

都道府県名を変更しようとしても、香川県はうどん県にはならない。土地の名前はそうやすやすとは変わらないものである。 しかし、美作勝山藩は江戸末期に藩名を真島藩に変えていて、その名前が土地に残っているという稀なケースである。その真島藩の藩主は三浦氏だったので、下屋敷前の坂道を三浦坂と呼んだ。

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その裏手の道は三浦氏の藩名をとって真島坂と呼ばれた。 藩名を変えたのは1865年のまさに幕末であった。香川県のケースと違うのは、真島というのはもともと美作国の郡名で、三浦氏の治める勝山はその一部だったため、藩名をその地名を使って変更したということである。 愛知県を名古屋県に変えるようなものだったのだろう。

ただ真島坂はどうも江戸の坂ではなく、明治になってから開かれた坂道らしい。 真島藩屋敷のあとは明治の後半に渡辺治右衛門がそのままの敷地を買取り屋敷にしている。その時には真島坂はできている。

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真島坂の途中の路地を入ったところに「ギャラリー猫町」というのがある。猫関連のアートを展示しているのだが、古い石垣と石組みの階段があり、そこに猫の像がリアルに座っている。谷中の隠れた人気スポットになっているようだ。

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あかじ坂(谷中)

三浦坂の一本北側の路地で一方通行ながら道幅は広い。 この坂は明治時代に開かれた比較的新しい坂である。 別名が、赤字坂、明治坂。 坂の北側は明治の末から昭和の初めまで相場師の渡辺治右衛門の屋敷であった。 金融界に名をはせたが、恐慌の時に破産してしまった。 それを皮肉って町の人々がつけたのがあかじ坂という名前だったらしい。

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坂下近くの小屋は昔交番だった。 今は町内会の倉庫になっている。なかなか雰囲気のある建物なのでできるだけ残してほしいものである。 新しい坂だけに道はまっすぐに上っていくが、その姿が逆に気持ちいい。 かつて渡辺邸だったところの植木が効いている。

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石垣のある方が渡辺邸のあったところである。 石垣の向かいに階段がある。 この階段を上り路地を進むと、大名時計博物館に出る。

坂名の別説だが、渡辺氏は日本橋で「明石屋」という乾物屋を営んでいた。 明石家の治右衛門ということで明治坂(あかじざか)というのが、明治末期の坂の開通からついていた名前だという。 おそらく最初はそうだったのだろう。

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2017年12月26日 (火)

三浦坂(谷中)

台東区と文京区の区境はかつての藍染川の暗渠である。 善光寺坂の坂下からへび道、そして人気の谷中銀座と接するよみせ通り商店街がその道筋。  三浦坂は善光寺坂のひとつ北側の路地で、道幅は狭いが、それは三浦坂が江戸時代と同じ道幅で残されているということである。

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坂上は多くの寺院の間を抜ける道すじ。 玉林寺の墓地裏に差し掛かると急に下り坂になる。 坂を下りきると、臨江寺の塀脇に台東区の設置した説明板がある。

「『御府内備考』は三浦坂について、「三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり、一名中坂と称す」と記している。三浦家下屋敷前の坂道だったので、三浦坂と呼ばれたのである。安政3年(1856)尾張屋版の切絵図には「ミウラサカ」「三浦志摩守」の書入れがあるのに基づくと、三浦家下屋敷は坂を上る左側にあった。

三浦氏は美作国(現岡山県北部)真島郡勝山二万三千石の藩主。勝山藩は幕末慶応の頃、藩名を真島藩と改めた。明治5年(1872)から昭和42年1月まで、三浦坂両側一帯の地を真島町といった。(中略)

別名の中坂は、この坂が三崎坂と善光寺坂の中間に位置していたのにちなむという。」

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坂上からあかじ坂方向に少し入ったところに「大名時計博物館」の入口がある。 興味がないので博物館に入ったことはないが、その入り口に勝山藩下屋敷跡の石碑がある。

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週末に三浦坂を訪ねると妙に女性の人通りが多い。なぜかと思ったら。、坂の途中の『ねんねこ家』に来る人達と、谷根千をめぐる人たちでにぎわっているのであった。 ねんねこ家は猫カフェのはしりで、古民家を利用して猫カフェに猫グッズを置いて商売している。 実際に人慣れした猫もたくさんいて、たいそうな人気である。週末は予約が必要なほどだという。

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善光寺坂(谷中)

言問通りは浅草の隅田川にかかる言問橋から根岸を通り、寛永寺坂、善光寺坂、弥生坂を経て春日駅の西片に至る。 その間で二つの台地を越えるのだが、上野台地から藍染川の谷に下るのが善光寺坂である。善光寺坂の坂上からは弥生坂の向こうの東京大学の建物が遠望できる。

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善光寺坂周辺の旧町名は「谷中坂町」といい、その昔は谷中村だった。元禄時代(1688~1704)に寛永寺領となったが、町屋が形成されるにつれ、付近に善光寺があったことから、「谷中善光寺前町」と呼ばれた。その後、玉林寺門前町と谷中村飛び地を合わせて、明治2年(1869)谷中坂町と命名された。

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坂上の妙情寺の植込みに台東区の設置した説明板がある。

「谷中から文京区根津の谷に下りる坂には、この坂と北方の三浦坂・あかぢ坂とがあり、あかぢ坂は明治以降の新設である。善光寺坂は信濃坂ともいい、その名はこの坂上の北側にあった善光寺にちなむ。

善光寺は、慶長6年(1601)信濃善光寺の宿院として建立され門前町もできた。寺は元禄16年(1703)の大火に類焼して、青山(現港区青山三丁目)に移転し、善光寺門前町の名称のみが明治5年まで坂の南側にあった。

善光寺坂のことは、明和9年(1772)刊行の『江戸砂子』にも見え、『御府内備考』の文政9年(1826)の書上には、幅二間(3.6m)、長さ16間(29m)、高さ一丈五尺(4.5m)ほどとある。」

坂の途中にある玉林寺の脇から寺の間を抜ける路地があり、探検ムードを感じさせる面白い細路地になっている。

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三段坂(池之端)

清水坂上、護国院大黒天前の北側から入る路地。 不思議な傾斜の道である。 坂上近くに標柱がある。

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『台東区史』はこの坂について、「戦後、この清水町に新しい呼名の坂が、ここ屋敷町の大通りに生れた。段のついた坂で、三段坂と呼ばれている」と記している。戦後は第二次大戦後であろう。清水町はこの地の旧町名で、この坂道は 明治20年(1887)版地図になく、同29年版地図が描いている。したがって、明治20年代に造られた坂である。

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坂の場所は、江戸時代末期は三河吉田(現在の豊橋)藩主大河内氏の屋敷内だった。 坂上からだとわかりにくいが、坂下からまっすぐに見ると、本当に三段になっているのがわかる。

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2017年12月25日 (月)

清水坂(上野)

上野動物園の裏手から都立上野高校脇を上っていくのが清水坂(しみずざか)。 別名暗闇坂とも言われた。 上野高校の敷地は元は護国院の墓地であった。 旧町名は谷中清水町。 これは護国院の清水門がここにあったことが由来。 この道が上野の山との境界だった。 道の西側は松平伊豆守の下屋敷、松平伊豆守は老中大河内松平家である。

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坂のカーブの所に標柱がある。

「坂近くに、弘法大師に因む清泉が湧いていたといわれ、坂名はそれに由来したらしい。坂上にあった寛永寺の門を清水門と呼び、この付近を清水谷と称していた。かつては樹木繁茂し昼でも暗く、別名「暗闇坂」ともいう。」

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この坂のカーブのところにある明治大正期っぽい煉瓦作りの館、ブラタモリの第1シリーズで紹介された。 元は都電の変電所として建てられたが、現在は上野動物園で販売したりしている品物を保管している倉庫らしい。

江戸切絵図を見ると、不忍池の東側の道がそのままこの道になって折れながら護国院に繋がっている。 江戸時代の道筋のままである。 北側の谷中にはたくさんの寺院があるが、江戸時代はもっとたくさんの寺院が集まっていた。

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新坂(鶯谷)

東京国立博物館の裏手(北側)にJR鶯谷駅の南口がある。 その前を上野の山から言問通りに下るのが新坂。 この坂は鉄道が敷設される以前からあったもので、明治期に現在の京浜東北線が開通するとそれを跨ぐようになった。

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坂の北側は寛永寺の墓地、南側は忍岡中学校。 坂の途中にある忍岡中学校の校門脇に標柱が立っている。

「明治になって,新しく作られた坂である。それで,新坂という。明治11年(1878) 内務省製作の『上野公園実測図』にある「鶯坂」がこの坂のことと考えられ,少なくともこの時期には造られたらしい。鶯谷を通る坂だったので,「鶯坂」ともいわれ,坂下の根岸にちなんだ「根岸坂」という別名もある。」

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明治維新後に松林を切り開いて作られた坂で、坂下一帯はウグイスの名所として知られ鶯谷と呼ばれていた。 坂上からは根岸下谷を一望でき、かつ反対側の上野全山の桜も見渡せるという条件だったので、かつてここには出店が並ぶ賑やかな坂だった。 松林というのは海辺にあることが多く、ここも大昔は海辺だったのでその名残かもしれない。実際にこの坂の辺りでは貝塚も見つかっている。

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京浜東北線(敷設当時は中山道鉄道)は台地の縁を削って明治15年頃に敷設された。坂の傾斜は鉄道敷設前とそれほど変わっていないのではないだろうか。 この橋ができる前は、ウグイスの聲を聞くために線路に入り轢死する人が多かったというが、当時の汽車はせいぜい40キロていどの速度だったと思われるので、相当のんびりと跳ねられたに違いない。 汽車が危ないという認識をまだ人々が持っていない時代の話だろう。

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2017年12月24日 (日)

稲荷坂(上野)

忍坂を上ると左手に赤い鳥居が見えてきた。 「花園稲荷神社」と書いた提灯が鳥居の両脇にぶら下がっている。 場所柄外国人観光客が多いのと、彼らが赤い鳥居が並ぶのに好反応なのとが相まって外国人比率が高い。

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穴稲荷は五條天神社の境内社とあるが、どうも向かいにある穴稲荷の方が古いようだ。 稲荷の前の稲荷、五條天神社の花園稲荷は後にできたものだが、なぜこのような形になったのかはよくわからない。 江戸が開けるよりも以前からこの地には忍岡稲荷があり、それが岩窟の上にあったので穴稲荷となった。花園稲荷は明治以降らしいので、江戸切絵図にある「イナリ」は穴稲荷のことだろう。

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稲荷坂はこの鳥居の間の階段のことを指す。 明治に花園稲荷が新しく再興され、大正時代になってからアメ横入口にあった五條天神社がここに移り、花園稲荷を兼務社とするようになった。しかしやはりこの地の主は穴稲荷(忍岡稲荷)であろう。

階段上の鳥居脇に標柱があり、次のように書かれていた。

「花園稲荷神社は「穴稲荷」「忍岡稲荷」とも呼ばれ、創建年代は諸説あるが、江戸時代初期には創建されていた。これにより江戸時代から「稲荷坂」の名がある。享保17年(1732)の『江戸砂子』にその名がみえ、明治29年(1896)の『新撰東京名所図会』には「稲荷坂 忍ケ丘の西方に在りて、穴稲荷社へ出る坂路をいふ」とある。」

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忍坂(上野)

忍坂(しのぶざか)は不忍池の東側の道路から上野の山に登る車道。 車は忍坂を上り、上野精養軒を包むように回って再び池下の道路に戻る。 不忍池から忍坂で上るのは何となく矛盾を感じる。 上野の山に上る坂道はたくさんあるが、不忍池側はこの道だけである。 緩やかなカーブを描きながら上っていく道には樹木が掛かり暗めの雰囲気である。

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坂の池側には、五條天神社、花園稲荷神社、穴稲荷がある。 五條天神社は天神だが主神は医薬祖神(薬祖神)だが、天神と呼ぶのに菅公が祭られないのはと天海らが開眼供養をして合祀した。

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上野の山は江戸以前は忍が岡と呼ばれていたことに由来する坂名である。 別名を女坂と呼ぶが、その由来は不明。 樹木に覆われていて静かな坂で歩くのは気持ちがいいが、車が通るのでのんびりというわけにはいかない。

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清水坂(上野)

上野の地名の由来については諸説あるが、地形からくるものが有力で、縄文海進時代は上野台地の突端の上野は自然の岬で、御徒町あたりまで入江だったため、低地を下谷、台地を上野と呼んだのが起こりと言われる。

徳川が江戸に入り、天下統一後江戸を開発する折、家康・秀忠・家光が帰依していた天台宗の天海に寛永8年(1622)に創建させたのが寛永寺。 年号をとって寺名とした。 京都を意識して、山号を比叡山に模して東叡山とし、不忍池を琵琶湖に見立てて、清水観音堂も建立した。

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その清水観音堂に不忍池側から上がる階段が清水坂(きよみずざか)である。階段脇に標柱が立っている。

「この石段坂を「清水坂」という。 坂の上には東叡山寛永寺清水観音堂があり、坂の名はその堂の名称に因む。 清水観音堂は寛永8年(1631)に京都の清水寺を模し摺鉢山の上に創建され、元禄7年(1694)に現在地へ移転した。国の重要文化財に指定されている。」

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階段の段数は31段。 昔、この階段下にあったという黒門には上野戦争(明治維新の前の彰義隊の幕府軍と薩長の新政府軍の戦い)の際の弾痕などが生々しく残っていたが、明治40年(1907)に荒川区の円通寺に移築され現存する。

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2017年12月23日 (土)

車坂(台東区上野)

現在「車坂」と呼ばれる上野の坂は、西郷さんの像の下、上野駅不忍口から、JR上野駅の公園口に上る坂道のこと。 明治以降上野駅周辺は大きく変貌してきた。 その中でいつからこの坂を車坂と呼ぶようになったのかは実はよく分かっていない。

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江戸時代の寛永寺は膨大な敷地を有していた。 上野公園から北は谷中墓地の近くまでの30万坪以上が境内であった。 現在の寛永寺(上野桜木町)は北の端っこだったのである。 江戸切絵図を見ると、現在の上野駅の場所は寛永寺の門前の寺(塔頭)が並んでいる。 駅敷地から昭和通りまでの幅が寛永寺の下寺が立ち並んでいたエリア。 江戸時代はその下寺から寛永寺に上る坂道が3つあったが、どれも現在の車坂とは異なる場所で、向きも違っている。

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切絵図では南から、車坂、屏風坂、信濃坂となっている。 どれも階段坂だったようだ。 それらの坂の下にはさらに門があり、車坂門、屏風坂門、坂下門…大門と増上寺のような位置関係で3つの坂が並んでいた。

旧町名でも、上野駅の東側には下車坂町、上車坂町、車坂町と並んでいた。 上野駅は明治16年(1883)に仮開業、2年後には宇都宮まで開通。 昭和戦後には上野駅は出稼ぎや集団就職の駅としてにぎわったものである。 私が上京した1976年頃、上野駅のホームにはまだ急行の青森行が何本も発着していて、乗客はホームにゴザを敷いて汽車を待っていた。 二等車の自由席で席を確保するためである。 出稼ぎを終えて青森に帰る方から話しかけられ、おむすびを分けていただき食べた時のことを今でもよく覚えている。

photo : 2016/5/6

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神明坂(本駒込)

本駒込5丁目の不忍通りの坂で、東京都の説明板が立っている。 「このあたりは、旧町名を駒込神明町といった。駒込の総鎮守の天祖神社(旧称神明社)にあやかったものである。現在この坂道は通称不忍通りにあるが、道路の開設は新しく、大正11年である。町内の坂ということで神明坂と名づけられた。大正の坂、東京の坂である。」

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神明坂は駒込稲荷坂下から、本郷通りとの交差点である上富士前までをゆったりと上り、本駒込5丁目交差点あたりが最も傾斜を感じられる。 江戸時代は駒込村、明治24年(1891)に東京市に編入され、駒込神明町となった。

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坂下の駒込稲荷坂下にある文京区の施設が集約した一角は、昭和時代は神明町都電車庫だった。 停車場は「神明町車庫前」。 そのため敷地の神明都電車庫跡公園には懐かしの都電の電車と貨物車が展示されている。

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坂上の上富士前交差点は駒込富士神社に由来する。 ここの富士神社は社殿が富士を模した山の上に建てられている。 この富士は、駒込の名主が天正元年(1573)に本郷の地に富士浅間社を勧請したのが起こり。 江戸幕府になり、本郷の地が加賀藩屋敷となると、寛延6年(1629)に浅間社はこの地に移された。 一説によると、移転前からこの地にはこのこんもりとした山があり、古墳だったとも言われる。 ただしここの富士塚は江戸の七富士には含まれていない。

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2017年12月22日 (金)

稲荷坂(本駒込)

文京区本駒込4丁目と5丁目の間を上るのが稲荷坂。 坂下の交差点名は稲荷坂下、坂上は丁字路になる。 その裏には文治5年(1189)に源頼朝が奥羽征伐の途中、神明(天照大神)を祭ったのが起源と伝えられる神明神社(天祖神社)がある。 江戸時代は鷹匠と深い係わりを持った神社である。 その傍に名主屋敷が残っている。

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名主の姓は高木家。当時伝通院領であった駒込の開拓を許可され住み着いたと言われる。家の門は薬医門形式で家屋とともに宝永年間に建てられたが、火災に遭い享保2年(1717)に再建された。 それでも300年は経過している素晴らしいものだ。 この名主屋敷の近くが稲荷坂の坂上になる。

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かつてはこの稲荷坂より西が駒込神明町という町名だった。町名は天祖神社(神明社)から名付けられた。川柳に「駒込は一富士二鷹三茄子」というのがあるが、富士は富士神社、鷹は鷹匠、茄子は実際に富士神社裏一帯の名物(農産物)だった。

坂の途中にある神明公園に稲荷坂の説明板がある。

「坂の名は、かつてこの辺りにあった「宗十郎稲荷」に由来する。伝承では、この宗十郎稲荷は「おこり」(瘧:間欠熱の一種で多くはマラリアを指す)にご利益があり、「おこり」の罹患者が平癒の願をかけ、全治すると履いてきた草履を脱いで宗十郎稲荷の祠前に奉納したという。

またこの坂道は宗十郎稲荷の杉林の中にできた道であり、坂下の田端方面から駒込朝嘉町の駒込土者店(つちものだな)へ野菜等を出荷するために、百姓が毎朝急いで通った近道であったという。」

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宗十郎稲荷は前述の高木家(名主)の邸内にあったようだ。 江戸時代は邸内に稲荷を祭る風習が広まった。 稲荷というのは農業の神様である。 この辺りが茄子の名産だったり、植木屋が多くあったりしたので、稲荷を大切に祭ってきたのだろう。 実は銀座や日本橋にもたくさんの稲荷があったが、今は少なくなってしまった。 それでもビル街のあちこちに稲荷が点々と残っている。

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2017年12月21日 (木)

動坂(本駒込)

むじな坂の北側は動坂である。 動坂を含む都道は田端駅から本駒込駅までの道筋で、田端駅付近は切通しになっており、そのまま藍染川流域の低地を南西に向かうと、動坂で初めて台地に上る。 動坂上には駒込公園があり、動坂遺跡がある。 その向こう側は駒込病院。

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動坂には文京区の立てた説明板と東京都の立てた説明板(青銅タイプ)がある。 文京区の説明をまず先に。

「この坂の由来については下記のとおりである。 『千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂のありし旧地なり』(江戸名所図会)

元和年間(1615~1624)万行上人が伊勢の国赤目山で不動明王像を授けられ、衆生済度(しゅじょうさいど:仏語。迷いの苦しみから衆生を救って、悟りの 世界に渡し導くこと)のため諸国を回り、駒込村のこの地に庵を設けた。その後三代将軍家光により現在の本駒込1丁目に移された(現南谷寺)。この本堂は江戸時代から五色不動の一つとして有名である(目赤不動)。 (中略)

『動坂は田畑町へ通ずる往来にあり、坂の側に石の不動像在り、是れ目赤不動の旧地なり。よりて不動坂と称すべきを上略せりなりと言う(御府内備考)』」

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一方東京都の説明板は例の読みづらい逆U字型だが、ここのは読みやすかった。

「 『千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂のありし旧地なり』(江戸名所図会)

坂上の北側に、日限(ひぎり)地蔵堂があったが、ここは目赤不動尊の旧跡である。三代将軍家光の目にとまり、本駒込1丁目に移った。これが江戸時代有名な五色不動の一つ、目赤不動を祭る南谷寺である。」

動坂上駒込病院周辺は江戸時代将軍の鷹狩り場で、切絵図にも『御鷹匠屋敷』とある。また動坂の北側には『御鷹部屋』という記述もあり、将軍はかなり頻繁に訪れた可能性がある。その鷹場の脇には天祖神社(神明社)があり、江戸時代から駒込の氏神として信仰されてきた。

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動坂遺跡は縄文時代のものである。 ここには縄文のムラがあり、発見されただけでも22軒、推定で50軒ほどのムラだったようだ。 昭和49年に駒込病院の外構工事中に貝塚が発見され、長期の発掘調査が行われた。 すると縄文時代の遺跡の層の上に江戸時代の鷹匠関連の遺跡があり、この地が何千年もの間、人の営みを続けてきた地であることが証明されたのである。

興味深いのは縄文人が食べていたものの痕跡について、貝はヤマトシジミ、マガキ、ハマグリなど、魚はクロダイ、コチ、アジなどと書かれていた。 当時ここは入江で汽水域だったので、川のものも海のものも獲れたのだろう。

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2017年12月20日 (水)

むじな坂(千駄木)

大給坂と動坂の間にある三つの動物坂、三番目はむじな坂だ。 不忍通りと薮下通りの間を結ぶ比較的道路幅の広い坂道。 この辺りの藍染川の河岸段丘はかなり低くなっていて、坂上と坂下の高低差は10m程度しかない。 それでも不忍通りからむじな坂に入ってすぐは少し傾斜がある。

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むじな坂も坂名の由来などの史料が殆どない。 きつね坂とむじな坂の間が酒井安芸守の下屋敷だった場所。坂下は木村杢之助屋敷と江戸切絵図にはあるが、そこから下はほぼ一面が田んぼになっている。これらの坂を下り、田園地帯を横切り上野台地に上るとそこは道灌山。道灌山は江戸以前にこの地を治めていた太田道灌の出城があった場所。 古くは縄文時代から人間の営みがあり遺跡も多い。

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不忍通りには巨大なマンションが立ち並ぶが、その一角、サンライズブールバードの横に「下徳」という2階建ての和家具店がある。 指物師と言われる木工芸品の精密な細工を行う職人の店。釘をほとんど使わない江戸指物は武家や歌舞伎役者に好まれ伝えられてきた。 港区三田にある下徳の暖簾を引き継いでこの地で営業している。 桐ダンスは1棹百万を超える。

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きつね坂(千駄木)

千駄木には動物坂シリーズがある。 狸坂、きつね坂、むじな坂である。 狸坂の北にあるのがきつね坂。 残念ながらきつね坂に関する史料はほとんどない。 坂下は不忍通り、坂上は薮下通りで、団子坂などと同じである。

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坂上は緩やかな傾斜、坂下はなぜかクランクに近いカーブになっている。 きつね坂は江戸切絵図にも道筋が描かれている古い道。 坂上には酒井安芸守の下屋敷があった。 大名屋敷としては相当な田舎である。 坂上はまた植木屋多しとあるので、駒込染井の植木屋がこの辺りまで広がっていたのだろう。

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植木屋多しと書かれているのは現在の千駄木小学校の辺り。 この辺の標高は22mあるが、きつね坂上は17m、坂下は8m、標高差があるが藍染川の河岸段丘が2段に分かれているので、均された現在はあまり傾斜を感じない。

坂下の曲りの原因は、明治末期の地図を見ると、この上の折れたところに道が繋がっていて、それが河岸段丘に沿ってできた明治期の道路で、きつね坂をまっすぐに下った場所には大きな家がすでにあったためのようだ。 その後大正時代にさらに下側に電車道が通った。 「道灌山下」という停車場が作られ、きつね坂を曲げる理由になった道は裏の路地になってしまったのである。

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2017年12月19日 (火)

狸坂(千駄木)

大給坂は明治時代に開通した道だが、北隣の狸坂は江戸時代からあった坂道である。坂上を南北に走る薮下通りよりも西側の丘陵地(本郷台地)は千駄木御林と呼ばれた上野寛永寺の所領。 千駄木山とも呼ばれた。

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この千駄木山に登る坂道の上が狸山と呼ばれており、それが狸坂の由来という。 坂下には藍染川(昔は谷戸川と呼ばれた)が流れており、その向こうは上野台地で日暮里に続く。 日暮里にある諏訪神社の祭りが8月27日なのだが、それが終わってからもどこからともなくお囃子が聞こえてきた。 地元の人々はそれを千駄木山の天狗ばやし、馬鹿ばやしなどと言って、千駄木山の狸の仕業だと言い伝えてきた。

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東京23区内にはここ以外に麻布十番に狸坂がある。 また飯倉には狸穴坂がある。 都心にも狸がいたということなので、この辺りだったら日常頻繁に現れたことだろう。 坂上には区立駒込林町公園という旧町名のついた公園がある。 またはす向かいには、和風建築の素晴らしい建物があるが、これは武者小路千家の官休庵という茶室。 お茶の世界には多くの家元があるので、よくわからないが千利休の孫が3つの千家を名乗ってそれで「三千家」。 その三千家は、表千家、裏千家、武者小路千家に分かれるそうである。

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2017年12月18日 (月)

大給坂(千駄木)

千駄木辺りの坂は坂上の薮下通りと坂下の不忍通りを結ぶ坂道が殆どである。 須藤公園(旧須藤邸)の上は旧町名では駒込林町、元は雑木林の千駄木山の一部で、千駄木御林と呼ばれた土地。 「御林」というのは、この辺りは上野寛永寺の所領で、ここから将軍家霊廟の材木を供給したからである。 町屋になってきたのは延享3年(1746)以降。 江戸の半ばまではこの辺りはほとんど武蔵野の山林だったわけである。

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大給坂は明治の地図には道筋が見えない。まばらな町屋はあったようだが、概ね崖線は雑木林で谷は田んぼだった。 それが大正時代にはかなり町屋が広がっているので、坂下は急速に発展した様子。

坂名の由来は、坂上にかつて子爵大給邸があったことによる。 大給家は戦国時代三河の国の豪族で、徳川家に仕えた。 現在坂上の児童公園に残っている大銀杏は大給邸の中にあったものだった。

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団子坂上から動坂上を結ぶ坂上の道筋は古くからある薮下通り(通称本郷保健所通り)。 大給坂を上り、薮下通りに出たところに高村光太郎夫妻が住んでいた。

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2017年12月17日 (日)

しろへび坂(千駄木)

薮下通りに絡む階段で東側に下るのはこのしろへび坂のみである。 しろへび坂というのは通称で、いつからそう呼ばれたのかも、その由来も不明。 森鴎外記念館の前、区立第八中学校の北側を下る階段坂である。

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薮下通り(汐見坂)のところでもこの写真を使ったが、この辺りは薮下通りの中でもっとも標高が高いところ。 根津神社裏門から始まる薮下通りは神社のところでは11mほどの標高だが、森鴎外記念館のところでは20mを超える。 緩やかに上っているのである。(だから汐見坂という名がついている)

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根津神社から薮下通りを歩いていると最初は崖が西側にあるのだが、汐見小学校あたりからは崖が東側に変わってくる。 古い地図を見るとこの坂は明治時代後期からある。なので森鴎外も歩いたはず。 実際に森鴎外は著書の中で、「右手に上野の山の端が見え、この端と忍ケ丘の間が開いていて、そこには地平線に続く人家の海と、浜離宮の木立の上を走る品川沖の白帆が見える」と書いている。

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お化けだんだん(千駄木)

汐見小学校の前のだんだん坂を上ると路地は突き当り、右に折れる。 その角には昭和時代の門構えの塀があり、その脇に細路地が通っている。

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この細路地を入ると、すぐに急な石の階段で崖を下る。 ここが地元では「お化けだんだん」と呼ばれている階段である。千駄木1丁目8番と10番の間が路地になる。 ここの路地塀に文京区の旧町名由来板が貼ってある。

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この辺りは昭和40年まで駒込千駄木町という地名だった。 日本武尊がここの林に駒(馬)を集めて木々につなげたので「駒込」の地名ができ、また昔この辺りで雑木を切り出し、一日に千駄(「駄」は江戸時代の重さの単位で、馬1頭が背負わされる重さを1駄=36貫(135㎏)とした)を切り出したので千駄木と呼んだことが書かれている。

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お化けだんだんの下には緑地が残されており、「千駄木ふれあいの杜」と書かれていた。 地元の住民が守っている、太田道灌の系列の太田家の下屋敷跡の森で、都心では珍しい昔ながらの姿を残している。 明治以前はこの階段下は大きな池になっており、そのためか現在でも少し湿気を感じる崖下だった。

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だんだん坂(千駄木)

文京区立汐見小学校の前を薮下通りが通っている。 その薮下通りのなかでも最も江戸時代の雰囲気を残した小学校前の路地の階段を地元ではだんだん坂と呼んでいる。

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丸石の石垣は実は比較的時代の新しいものが多く、この石垣もさほど年数を経たとは思えないが雰囲気はいい。 階段は段差が小さく、昔はただの坂道だった可能性がある。 路地としては大正期の地図にはすでに載っているので、それ以降の開通であろう。

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二段になった鉄製の手すりがアクセントになっている。 明治の末期までここは広葉樹の林になっているので、人口が増加した関東大震災前の開発で家屋が建てられたようだ。

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アトリエ坂(千駄木)

江戸の坂ではないが、良い景色の坂である。 千駄木3丁目の裏手に須藤公園がある。 南隣に講談社社宅があり「講談社発祥の地」の石のオブジェが門脇に置かれ、野間清治が明治42年(1909)にこの地で講談社を創業したとある。

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講談社社宅と須藤公園の間を上るのがアトリエ坂。  江戸時代は加賀大聖寺藩松平備後守の下屋敷で、明治以降民間の所有となり、須藤氏が大名屋敷の庭園を残したこの土地を昭和9年(1934)に東京市に寄贈した。 池の中島の弁財天は大名屋敷時代から続くもので、須藤の滝という小滝も配置されて崖線の大名庭園の雰囲気を残している。

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アトリエ坂の由来はよくわからないが、谷根千の地域雑誌の工房があり1984年から息の長い活動をしているその工房があるのでアトリエ坂と呼ばれるようになったではないかと思う。 この工房の作っている谷根千地図はなかなかの情報量である。デフォルメされているが、坂道の名前もきちんと入っていて参考になる。

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団子坂(千駄木)

白山上から千駄木を通り、谷中へ抜ける都道の千駄木付近、団子坂上から団子坂下までを東に向かって下る坂道。 別名が多く、潮見坂、千駄木坂、七面坂などの名がある。 里俗には団子坂と呼んだ。江戸時代後期から染井や巣鴨の植木職人が作る菊人形の見世物小屋が秋には立つようになり、秋の江戸の名物として大変賑わった。 菊人形は明治になってからも盛んで、二葉亭四迷の『浮雲』、夏目漱石の『三四郎』などにも登場する。

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坂の途中の説明板には、団子坂の由来は坂近くに団子屋があったこと、または坂が急で転ぶと団子のようになるからというようなことが書かれている。 七面坂というのは、坂下に木造の七面堂があったため、潮見坂というのは、坂上から東京湾の入江が眺められたからというような説がある。

昔は幅も二間というから、4mほどの道路で、そこを往来する人力車がよく転倒したらしい。坂途中には坂下の植木屋宇平次という人が梅園を開き、紫泉亭という眺望のいい茶亭を作って人気になった。

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この辺りのかつての賑わいは広重の描いた名所江戸百景の『千駄木団子屋花屋敷』にも描かれている。 今の風景とは似ても似つかないような風光明媚な様子が描かれている。団子坂菊人形は明治後期に衰退し、両国国技館で大規模な菊人形開始されたため、明治44年で終わっている。

この坂に関する史料を読んでいくと、坂上からは上野の山が見渡せ、寛永寺や五重塔の向こうには東京湾が望めたと多くの文献に書かれている。 どうも現代のビルやマンションだらけの街を歩きすぎて、自分が想像力を失いかけたような反省しきりである。

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2017年12月16日 (土)

汐見坂(薮下通り)

薮下通りというのは、中山道だった尾根筋の本郷通りと藍染川沿いの谷あいに走る不忍通りの間を並行している古くからある崖線の道である。 根津神社裏門から団子坂上、動坂上を通り駒込に抜けている。 しかし江戸時代の切絵図を見ると、薮下通りはそのままカーブして団子坂を経て谷中ミチに繋がっている。 そこで明治時代の地図を確かめてみると団子坂上でY字に分岐していて、右が団子坂、左が千駄木から動坂上へ繋がっている。 江戸時代の団子坂は辺りで一番にぎわっていた通りだったので、そういう描画になったのだろうか。

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その江戸切絵図を見ると、この辺りの薮下通りを「シヲミサカ」と記している。 そのすぐ東側の汐見小学校・区立第八中学校辺りは「四季花屋敷紫泉亭 眺望好し」とあるくらいだから、相当眺めのいい道だったに違いない。

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薮下通りは昔は道幅も狭く、両側は笹藪で、雪の日にはその重みで垂れた笹が道を塞いで通れなくなったほどの藪だったと伝えられる。 自然に曲がりながら続くこの道は、昔からの道のルートを残している。

また中学校の向かいに森鴎外記念館があるが、大正11年(1922)に亡くなるまでの30年間ここに住んでいた。 その屋敷の名前は「観潮楼」といい、やはり江戸湊が見えたということなのかと思えなくもないが、地形図を見る限りではやや訝しい。

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上の写真は、森鴎外記念館前の中学校の脇の階段(「しろへび坂」の通称)から眺めた景色だが、ビルの隙間にスカイツリーが見える。 確かに中学校の建物とその向こうのビルがなければ海は見えたのだろう。

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汐見坂(解剖坂)

日本医科大学病院の裏手の路地にあたる階段道。 夏目漱石の旧居跡手前を下る。 夏目漱石は早稲田の名主の家の出だが、イギリス留学から帰国した明治36年から4年近くここに住み、ここで『吾輩は猫である』を書き、文壇デビューした。 そのためここは「猫の家」と呼ばれた。 その後、『坊ちゃん』『草枕』もこの地で書いている。

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坂名の由来は病院坂かつ裏の坂ということだろう。「解剖坂」というのは後につけられた名前ではないかと思う。 汐見坂と書かれている文献が多いが、幽霊坂とされているものもある。 とかく病院周りは寺社仏閣や墓地よりも、西洋的なインパクトの強いおどろおどろしさがある。 それは生と死のギャップを感じさせるからであろう。

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傾斜は階段でなくとも何とかなる程度である。 江戸以前はこの坂下は藍染川の流域で、その向こうに上野台地があったので、本当に汐見ができたのかは不明。 ただ本郷台地は20m程度、上野台地は15mほどの標高なので上野台地の向こうに江戸湊が見えた可能性はありそうだ。 もっとも今のようにビルが立ち並んだ東京では望むべくもない。

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根津裏門坂(根津)

坂上の日本医科大学病院前から千駄木二丁目へ下る坂道。 単純に根津神社の裏を通る道なので根津裏門坂というわけだ。 江戸の坂道の雰囲気はない。 病院客を狙ってか、あるいは根津神社参詣者を目的にか、タクシーが並ぶことが多い。「客待ちはできません」の看板前に堂々と止めて客待ちをしているモラルに問題がありそうである。

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この坂道の魅力は根津神社があるという点だけかもしれない。 坂の途中に説明板がある。

「根津神社の裏門前を、根津谷から本郷通りに上る坂道である。根津神社(根津権現)の現在の社殿は、宝永3年(1706)五代将軍綱吉によって、世継ぎの綱豊(六代目家宣)の産土神として創建された。 形式は権現造、規模も大きく華麗で、国の重要文化財である。

坂上の日本医科大学の西横を曲がった同大学同窓会館の地に、夏目漱石の住んだ家〝猫の家″があった。『吾輩は猫である』を書き、一躍文壇に出た記念すべき所である。」

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江戸時代この坂は日本医科大学病院の角までで、今のように直接本郷通り(中山道)にはつながっていなかった。 そこから南に折れ、東大地震研究所裏を通って、西教寺あたりで本郷通りに抜ける道が江戸時代からの道である。

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2017年12月15日 (金)

新坂(権現坂・S坂)

根津神社門前から東京大学地震研究所に上る坂が新坂である。 別名、権現坂、S坂。 東大地震研究所と農学部のある一帯は大正期まで第一高等学校で、そこの生徒たちはこの坂をS坂と見た目まんまの呼び方をしていたという。 森鴎外もS字型の坂と呼んでいる。しかし実際は逆S字にそれも僅か緩やかにカーブしている程度だが、なぜ皆そうS字と呼ぶのかはわからない。

一方の権現坂は根津神社のことで根津権現に由来している。新坂ということについてはどの本も詳しく触れていないが、江戸切絵図には描かれていないものの、明治の初期以降の地図にはこの道が載っている。 坂下南側は水戸藩の屋敷だったので、明治に入ってから開かれた坂道の可能性が高い。

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坂の途中にある説明板には次のように書かれている。

「本郷通りから根津谷への便を考えてつくられた新しい坂のため新坂と呼んだ。 また根津権現(根津神社の旧称)の表門に下る坂なので権現坂ともいわれる。

森鴎外の小説『青年』(明治42年作)に.「(中略)… 坂の上に出た。 地図では知れないが, 割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている。 ……」とある。 旧制第一高等学校の生徒たちが、この小説『青年』を読み、好んでS坂と呼んだ。したがってS坂の名は近くの観潮楼に住んだ森鴎外の命名である。

根津神社現社殿の造営は宝永3年(1706)である。 五代将軍徳川綱吉が、綱豊(六代将軍家宣)を世継ぎとしたとき、その産土神として団子坂北の元根津から遷座したものである。」

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諸説あるが、森鴎外が名付けたというのは決めすぎだと思う。 一高生が自然に呼んだものというのが自然である。

根津神社は徳川六代家宣の産土神とあるが、元は千駄木にあった神社を宝永3年(1706)に遷座したもの。 本殿や山門などの建築物は1706年に造営されたものが焼けずに現存している。

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お化け階段(根津)

お化け階段というからには暗くて細い階段を思い浮かべて訪問すると落胆するかもしれない。 ただ、近年この手の階段はほとんどがきれいに補修されたり、作り直されたりしていて、なかなか昔のままの姿にはお目にかかれない。

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異人坂の坂上から細路地をくねくねと進むとお化け階段の上に出る。 一方、逆ルートは根津神社の前からやはり路地を入っていく。 いずれにせよ地図なしで到達するのは難しい。

上りと下りで段数が違うということから「お化け階段」として知られる坂道で、かつては狭くて薄暗い道だったが、拡幅され手すりもついて整備された。 昔は上り40段下り39段といわれ、途中の曲りの所の段が詰まっていてそう勘違いするというものだったようだ。

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『ぶんきょうの坂道』には、「子供達は階段が何段あるか、当てっこして遊んだ。段差が低く、数え間違いをしたので、お化け階段の名がついたともいわれる。 かつて、この階段坂は人通りが少なく、木が繁り、日暮れになると親たちは子供たちを遊びに行かせなかったという。お化けが出るのでお化け階段の名がついたという説もある。 またの名を幽霊坂とも言われる。 」と書かれている。

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上の写真は古い写真の合成。 昔の景色はなかなかのものがあったようだ。 古い地図を見ると、明治の末期にこの崖線の道は開かれた様子。  こういう風景がだんだんと消えていくのがさみしい。

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2017年12月14日 (木)

異人坂(根津)

明治の中頃になり、東大の間を抜ける現在の言問通りが根津方面につながると、向ヶ岡と弥生町は住宅開発が進んだ。 ただし本郷台地の東の崖線なので、地形は複雑で道も同様だった。 人がある程度住むようになったのは明治末期から大正時代に入る頃だったようだ。

そんな複雑な地形なので、異人坂のアプローチはいささかわかりにくいが、不忍通りの根津駅の1本目の路地を入ればいい。 その先の右手には根津小学校があるが、ここは直進すると目の前に坂が現れる。

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明治期の地図にはこの道はない。 崖線らしき緑地があるのみである。 坂の途中に説明板がある。

「坂上の地に明治時代東京大学のお雇い外国人教師の官舎があった。ここに住む外国人はこの坂を通り不忍池や上野公園を散策した。当時は外国人が珍しかったことも手伝って、誰いうとなく、外国人が多く上り下りした坂なので、異人坂と呼ぶようになった。

外国人の中には、有名なベルツ(ドイツ人)がいた。明治9年(1876)ベルツは東京医学校の教師として来日し、日本の医学の発展に貢献した。ベルツは不忍池を愛し、日本の自然を愛した。異人坂を下りきった東側に、明治25年(1892)高林レンズ工場が建てられた。今の2丁目13番付近の地である。その経営者は朝倉松五郎で日本のレンズ工業の生みの親である。」

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坂上の欄干には昭和初期の施工者の名前が彫られているが、坂との関係はわからない。 ただ、この坂上の道は明治初期からあった道らしい。 崖線の上下を繋いだ坂らしい景色である。

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榎坂(東大構内)

東大本郷キャンパス裏を暗闇坂から下っていくとやがて無縁坂の坂下になる。 二つの坂下の間の最も不忍池に近い辺りに東大の池之端門がある。 門の脇に境稲荷がある。境という名は、忍ヶ岡と向ヶ岡の境にあることにち由来する。 社は小さいが鳥居は立派なものが立っている。

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校門を入って右へ進むと石畳の坂道が続く。 これが榎坂である。 今は石畳の素敵な坂道だが、江戸以前の奥州街道の一部だったという説がある。  一方で暗闇坂奥州街道だったという説もあるが、江戸以前の話だから分からない。 大学敷地になって間もないころの地図には道が描かれていないので、江戸時代は加賀藩の屋敷の森の中だったはずである。

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坂は東大構内になるドナルドハウスの脇を走っている。 坂上に一里塚の榎があったという江戸時代の記録がかろうじてここを榎坂と称する史実である。 この場所は本郷台地の縁であるがゆえに、時代とともに変遷が大きいのが崖筋である。 榎坂は樹木の間から、崖下の暗闇坂を眺める。

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2017年12月13日 (水)

弥生坂(根津)

日本の古代史は縄文時代、弥生時代に始まる。 縄文時代は土器の紋様が縄目だったことでわかるのだが、弥生時代というのはいったいどういう意味なのだろうと、これまで思ったことはなかった。 東大の間を根津に向かって下ると、右手に弥生式土器発掘ゆかりの記念碑が立っている。

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東京大学工学部は根津駅近くの本郷台地の縁にある。 工学部の敷地はかつて浅野家の邸宅だったが、明治20年(1887)に東京大学の敷地となった。 その少し前明治17年(1884)、東大の研究者たちは根津の谷に面した貝塚から赤焼の壺を発見し、縄文式土器とは明らかに異なることから、ここの地名を冠して「弥生式土器」と名付けた。 その土器が発掘される時代をそれ以降弥生時代と呼んだ。

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この通りは言問通りという都道である。 台地の縁なので、最後にぐっと高低差を示す。 この坂が弥生坂である。 坂上に説明板がある。

「弥生坂(鉄砲坂): かつてこの辺り一帯は「向ヶ岡弥生町」といわれていた。 元和年間(1615~1624)の頃から、御三家水戸藩の屋敷(現東大農学部、地震研究所)であった。 隣接して、小笠原信濃守の屋敷があり、南隣は加賀藩前田家の屋敷(現東大)であった。

明治2年(1869)これらの地は明治政府に収公されて大学用地となった。明治5年(1872)には、この周辺に町屋が開かれ、向ヶ岡弥生町と名付けられた。その頃、新しい坂道がつけられ、町の名をとって弥生坂と呼ばれた。明治の新坂で、また坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったので、鉄砲坂とも言われた。

弥生とは、水戸徳川斉昭候が、文政11年(1828)3月に、この辺りの景色を読んだ歌碑を、屋敷内に立てたからという。」

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弥生坂の坂下の谷を形成したのは藍染川という小さな川である。 この川が本郷台地と上野台地の間の広い谷を作った。 この坂下をそのまままっすぐに進むと善光寺坂を上って上野寛永寺になる。 藍染川は流下して不忍池に注いでいた。

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2017年12月12日 (火)

暗闇坂(本郷)

東京大学(本郷)の敷地は加賀藩前田家の上屋敷だった。 加賀藩といえば前田利家で有名な100万石のトップ大名である。赤門はその加賀藩邸の門で、加賀藩邸の敷地は東京ドーム7個分以上の広さがあった。 また下屋敷の一つが今の東京大学駒場キャンパスというわけで、東大は加賀藩の一部と言っていいかもしれない。 その東大本郷キャンパスの裏手を本郷台地から不忍池に向かって下っていくのが暗闇坂である。

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大名屋敷の裏ということで暗い道だったはず。 反対側は坂上は水戸藩の中屋敷、坂下は寺が立ち並んでいたので、鬱蒼とした樹木の間の道だったと思われる。 現在は勿論明るい道で、東大工学部の煉瓦塀が美しい。

坂の途中に説明板がある。

「江戸時代は、加賀屋敷北裏側と片側寺町の間の坂で、樹木の生い茂った薄暗い寂しい坂であったのであろう。 江戸の庶民は、単純明快にこのような坂を暗闇坂と名付けた。 23区内では同名の坂は12ヶ所ほどある。区内では、白山五丁目の京華女子高校の裏側にもある。(後略)」

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弥生門前に弥生美術館があり、竹久夢二の絵を展示している。 そのため休日はこの狭い歩道を連れ立って女性たちが歩いている。 独特の乙女チックな描画は嫌いではない。 風景画も多く描いている。ただ夢二ブランドというものが出来上がってしまい、本人は風景画を描きたいのに女性画しか売れないと嘆いていたようだ。

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2017年12月11日 (月)

小篠坂(護国寺)

小篠坂(小笹坂)以外に乞食坂の別名がある。 護国寺から池袋へ首都高5号線が走るがその下の道路の一部にあたる。江戸時代は護国寺西側に本浄寺があり、そこから池袋方面に下る坂だった。現在も坂沿いに本浄寺がある。 明治末期以降池袋からの都電がここを走るようになった。 明治期にこの辺りに非人小屋があり、それで乞食坂と呼んだ時代があったようだ。

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坂の説明板には次のように書かれている。

「豊島区と境を接する坂である。 この坂道は、江戸の頃、護国寺の北西に隣合ってあった〝幕府の御鷹部屋御用屋敷(おたかべやごようやしき)″から、坂下の本浄寺(豊島区雑司ヶ谷)に下る道として新しく開かれた。 往時は笹が生い茂っていたことから、この名がついたものであろう。

坂下一帯は、文京の区域も含めて、住居表示改正まで、雑司ヶ谷町とよばれていた。 近くの目白台に長く住んだ窪田空穂は、次のように詠んでいる。

雑司ヶ谷 繁き木立に  降る雨の  降りつのりきて  音の重しも  」

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坂の東側は明治以降陸軍の墓地だった。 そこが共同墓地になり、のちに青柳小学校に一部が提供された。地形的には上っているのか下っているのかわかりにくい。 というのも護国寺前から東に水窪川、西に弦巻川が分かれており、護国寺前の標高が17m、坂のカーブの部分が15m、そこから雑司ヶ谷霊園に向けて再び上りになる。 とても緩やかな坂である。

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2017年12月10日 (日)

薬罐坂(目白台2丁目)

ユーミンが松本隆から作曲を依頼された際に、自分の名前を出さない条件で受けた折の作曲者名が呉田軽穂だった。 そのペンネームのモチーフはハリウッド女優のグレタ・ガルボ(Greta Garbo)だった。 しかしよく似た名前が日本の歌人にいる。 その名前は窪田空穂(くぼたうつぼ)である。 クレタ・ガルボよりも30年ほど前の時代の人だが、私はユーミンは窪田空穂も意識していたのではないかと想像している。

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窪田空穂の話を出したのは、この薬罐坂の上に彼が住んでいたからである。 薬罐坂の別名は夜寒坂。 坂の途中に説明板がある。

「江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが、維新後上地され国の所有となった。現在の筑波大学付属盲学校一帯にあたる。 また、西側には広い矢場があった。 当時は大名屋敷と矢場に挟まれた寂しい所であったと思われる。

やかん坂のやかんとは、野猂とも射犴とも書く。 犬や狐のことをいう。 野犬や狐の出るような寂しい坂道であったのであろう。 また、薬罐のような化け物が転がり出た、とのうわさから、薬罐坂と呼んだ。 夜寒坂のおこりは、この地が「夜さむの里道」と、風雅な呼び方もされていたことによる。

この坂を挟んで、東西に大町桂月(1869~1965、評論家・随筆家)と、窪田空穂(1877~1967、歌人・国文学者)が住んでいた。 (後略)」

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薬罐坂を下ると不忍通りに出る。 東へ行くと護国寺だが、広い不忍通りの南北に斜めに接する細道がある。 どちらも江戸時代からの道で、清戸坂から護国寺へ繋がっていたのが北側の平坦な方の道。 南側の少し坂になった道は筑波大学付属盲学校にぶつかり、南に折れると東大病院分院跡沿いに三丁目坂の上に出る。

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2017年12月 9日 (土)

幽霊坂(女子大)

目白通り日本女子大の西側の路地、豊坂から見ると目白通りを渡った道の続きが幽霊坂である。 和敬塾脇を下る路地も幽霊坂だったが、こちらはもっと古く、江戸時代からの幽霊坂。 江戸切絵図にもこの路地があり「ユウレイサカ」と書かれている。

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幽霊坂は清戸坂に向かって緩やかに下っていく。 東側の塀は日本女子大、かつては西側に本住寺がありこの辺りはその墓地だった。 幽霊坂という名の坂は東京に数か所あるが、墓地の傍が多い。 暗闇坂や三年坂も同じく墓地や寺院のある所につけられた名前。ただ近くにある和敬塾の幽霊坂は近年地元で呼ばれるようになったもので由来は違う。

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坂下から見上げると西側のマンションが影を暗くしているが、かつては墓地の幽霊坂側には竹垣があり、竹の間から墓地が見えたという。 坂の別名を遊霊坂ともいう。 東側の日本女子大は明治34年(1901)に成瀬仁蔵によって創立された。 江戸時代は旗本屋敷が数軒並んでいた。

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清戸坂(目白台)

清戸というのは現在の清瀬市あたり、江戸時代の延宝4年(1676)に尾張徳川家の御鷹場御殿が中清戸(現在清瀬市内)にできてから、将軍が鷹狩りに通う道が開かれたのが清戸道(目白通り)。 当時は江戸川橋から目白坂を上り、日無坂の坂上の現日本女子大前を西へ通るのが清戸への鷹狩り道だったわけだ。 その日無坂上から護国寺に下る道が、清戸道へ上がる坂道ということで清戸坂と呼ばれた。

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現在は4車線の広い道になっている。広いので傾斜はあまり感じないが、8mほどの高低差がある。 女子大側の歩道に文京区と東京都のそれぞれの説明板が立っている。

坂上幽霊坂出合いの目白通り寄りに文京区の説明板。

「延宝4年(1676年)、御三家尾張徳川家の御鷹場が中清戸(現 清瀬市)につくられた。将軍もしばしば出かけて鷹狩りを行った。これが現在の目白通りである。首都高速道路(5号線)護国寺出入口(護国寺側)から 目白通りに向かっての広い道は、昔から〝清戸道に登る坂″ということで『清戸坂』といわれた。

江戸時代、この坂の北側一帯は、雑司ケ谷村の畑(現在の雑司ケ谷墓地)で、坂の道に沿って雑司ケ谷清土村百姓町があった。明治10年代から坂の北側には牧場と牧舎が建ち、平田牧場と言った。牛乳を売る小売店があり、人々が休憩した。旗竿には、『官許の牛の乳』と仮名とローマ字で書かれていたという。」

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そこから護国寺方面へ歩いていくと女子大の敷地の端近くに東京都の説明板がある。 これはあの青銅っぽい読みにくいタイプ。

「目白台上の目白通りは、江戸時代清戸道といった。中清戸(元清瀬市内)に御鷹場御殿があり、将軍が鷹狩に通う道が造られた。これが清戸道である。この清戸道から護国寺に下るわき道が清戸坂で,清戸道へ上る坂ということで 坂名がつけられた。坂道の北側に雑司谷清土村があったので清土坂とも呼ばれた。」

読み方は清戸(きよと)道に清土(せいど)村である。

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2017年12月 8日 (金)

日無坂(目白台)

この坂はとても魅力的な坂道である。 坂上は目白通りに出る手前で富士見坂に合流する。もっとも眺め甲斐があるのが坂の上から富士見坂と日無坂を並べて見る景色。 この日無坂は文京区と豊島区の区境でもある。細い路地を隔ててお向かいさんはほかの区の人というわけだ。

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まずは坂下から歩く。入口はわかりにくい。豊川浴泉の一本西の路地を北に入るところに、「この先階段につき…」という看板が出ている。また、電柱と角の塀に「目白台一丁目13」の住所表示板があるので、そこから入っていく。細路地が緩やかに上っていく。

江戸時代はこの坂の東側は大岡家の大名屋敷。 切絵図には「ヒナシサカ」と描かれているので、江戸時代からの坂道である。

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路地はだんだん細くなり、最後は階段になる。細路地に植木鉢という江戸情緒のある風景である。人気のある坂なのに説明板がないのは区境だからだろうか。 坂道の説明版や標柱は主に区が設置している。 縦割り区割りの弊害で名坂であっても区境はお互いの領域を侵さないという忖度が働くのかもしれない。

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坂の最上部に来るとさらに狭まってくる。 しかしこれは区境の道、こんなに接近しても別の区のお向かいさんなのだ。

『新撰東京名所図会』に、「ひなし坂は当町(高田豊川町)の南西角。すなはち駒塚橋の通りより北の方雑司ヶ谷に上る坂をいふ。其の路甚だ狭隘(きょうあい)にして、小車を通ずるを得ず。僅かに一人づつの歩を容るのみ。左右樹木等にて蔽ひ居れば、日無坂の義にてかく呼ぶならむか。」とあるように、昔は暗くて鬱蒼とした細路地の階段だった。

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上の写真の左側が日無坂、右側が豊島区の富士見坂である。日無坂には東坂の別名もあって、どうも街道筋だった宿坂の東側にあるからだという説が有力。最上部の富士見坂に挟まれた細い敷地の民家の雰囲気が素晴らしい風情だが、いかんせん老朽化が激しいのでいつまでこの風景が残っているか不安である。

この坂上からの展望はまさに絵になる。新宿の高層ビル群を遠望しながら、戦災で焼ける前の日無坂の鬱蒼とした森のような景色を想像してみる。 富士見坂は昭和に入ってからの開通なので、大正期まで戻ると日無坂のみの風景になる。

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2017年12月 7日 (木)

小布施坂(目白台)

日本女子大からさらに目白通りを西に向かうと、目白台1丁目遊び場という公園があり、その脇を車は入れない道が下っていく。 小布施坂である。 最初はコンクリート舗装の道路だが、すぐに数段の階段がぱらぱらと現れる。

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坂の上の標高は29mで坂下が9mだから20mの高低差がある。 小布施坂は長い坂道だから勾配はそれほどでもないが、なぜか階段で坂上近辺は歩行者のみのアプローチになる。 ただ子供の遊び場という観点では、こういう道路は平地にもたくさん作ってもらいたい。 昔は空き地が子供の遊び場だったが、管理責任なんていう迷惑なものがあって昨今の空き地はどこも完全に隔離されてしまうから、せめて公共の道路だけでもそういう措置は欲しいものである。どうも自分以外に責任を負わせようとする風潮がこの国に蔓延して来たようなうら寂しい思いがしてならない。

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少し下っていくと傾斜は急になる。  昭和の家屋と塀が坂道にマッチしているいい景色だ。この崖上からの新宿高層ビルの眺望はなかなかのものがある。 坂の上の公園脇に説明板が立っている。「おぶせ」ではなく「こぶせ」と読む。

「江戸時代、鳥羽藩主稲垣摂津守の下屋敷と、その西にあった岩槻藩主大岡主膳正の下屋敷の境の野良道を、宝暦11年(1761)に新道として開いた。その道がこの坂である。坂の名は、明治時代に株式の仲介で財をなした小布施新三郎という人の屋敷がこのあたり一帯にあったので、この人の名がとられた。古い坂であるが,その名は明治のものである。」

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坂下には豊川浴泉という銭湯がある。 昔ながらの外観で、小布施坂のこともこの銭湯のホームページにある。 入ったことはないが懐かしく面白い銭湯のようだ。

残念なことが一つ、小布施坂の脇を道路建設が着々と進んでいる。 どうも豊明小学校の下をトンネルで貫いて不忍通りの清戸坂に出るような気配。 立ち退きはほぼ終わっているので、時間の問題だろうが、目白台の崖線を壊されるのはいささか気になる。

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2017年12月 6日 (水)

豊坂(目白台)

目白台運動公園の西隣は田中邸。数千坪を物納したあともまだビルが二つばかり建つくらいの敷地がある。 私事だが昔、上野毛に住んでいた時、近所に小佐野賢治邸があった(今もある)が、それも多摩川河岸段丘に一辺300m程の広い敷地だった。 わたしの世代にとってロッキード事件というのはとても大きなエポックだったものである。

田中邸の向かいには日本女子大(通称ポン女)、西隣には女子大付属の豊明幼稚園と豊明小学校があり、幼稚園と小学校の間を神田川に向かって下るのが豊坂である。この辺の旧町名は高田豊川町といい、江戸時代は大岡越前の家系である埼玉県の岩槻藩主大岡主膳正(じゅぜんのしょう)、三重県の鳥羽藩主稲垣摂津守、兵庫県の安志藩主小笠原信濃守らの大名屋敷だったエリアを町屋にしていった。

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坂の途中に説明板が立っている。

「坂の名は、坂下に豊川稲荷社があるところから名づけられた。江戸期この一帯は、大岡主膳守の下屋敷で,明治になって開発された坂である。坂を下ると 神田川にかかる豊橋があり、坂を上ると日本女子大学前に出る。

目白台に住んだ大町桂月(けいげつ)は『東京遊行記』に明治末期このあたりの路上風景を、次のように述べている。「目白台に上れば,女子大学校程近し。さきに早稲田大学の辺りを通りける時、路上の行人はほとんど皆男の学生なりしが、ここでは海老茶袴をつけたる女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ、云々」

坂下の神田川は井之頭池に源を発し、途中、善福寺川、妙正寺川を併せて、流量を増し、区の南辺を経て、隅田川に注いでいる。江戸時代、今の大滝橋のあたりに大洗堰を築いて分水し、小日向台地の下を素堀りで通し、江戸市民の飲料水とした。これが神田上水である。」

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豊坂は幼稚園の南端でクランクして下っていく。、坂下に豊川稲荷というが、実際の豊川稲荷はこの豊坂の坂下よりも随分と東の幽霊坂下肥後細川庭園寄りにある。 明治33年(1900)に日本女子大が創設され、大正6年(1917)に坂下の早稲田車庫前まで市電が伸びると、この坂は女子大生で賑やかな通学路になった。しかし 当時の坂道は舗装もされておらず、悪天候の日には彼女らはたいそう難儀をしたことだろう。

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幽霊坂(目白台・和敬塾)

目白通りを目白駅方面に歩くと、古い味噌蔵のような建物があり、路地を挟んで小石川消防署老松出張所がある。 旧細川邸にある和敬塾は学生寮。 7000坪の敷地にいくつもの寮が建てられているが、結構古い建物も混じる。 かつての塾生には村上春樹がいて『ノルウェイの森』はこの和敬塾がモチーフである。

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和敬塾の脇を下っていくと、だんだん細く暗い坂道になって下っていく。 この道は細川家が整備して、その後和敬塾の管理となった私道である。昔から大きな木立が両側にあって、またあまり人も通らない寂しい道であった。

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坂の西側は目白台運動公園。 実はこの公園のかなりの面積は、かつての目白御殿、田中角栄の屋敷だった場所。 昭和の宰相としていまだに高い人気を誇る田中角栄だが、晩年は見ていて可哀想なほどだった。 この公園のうち2,000㎡は旧目白御殿の敷地である。(公園の西隣に狭くなった田中邸がある)

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両側から壁が迫ってくるくらい幽霊坂を下るとぱっと開けるような場所に出る。この寂しい坂道を利用して、地元の人々が肝試しの会を行ったという。そして誰ともなく幽霊坂と呼び始めたといわれる。

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坂道はさらに下っていき、左手には肥後細川庭園の松聲閣と公園が広々として陽光を浴びている。 訪問時は松聲閣と公園を整備していたが、もう出来上がっているはずである。ここは熊本の細川家の下屋敷の庭園を一部残した形の回遊式庭園になっている。 上の写真のポリスボックスは田中邸があった時代の名残だが、いつ取り壊されてもおかしくない状態でずっとある。(もしかしたら今はもうないかもしれない)

近辺は散歩するにはもってこいの楽しい崖線である。

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2017年12月 5日 (火)

目白新坂(目白台)

目白通りの起点は九段下である。 江戸川橋からは一旦新目白通りと名を変えて、その先は関越道の入口までを目白通りとしている。 文京区内では、江戸川橋から護国寺方面へ向かいすぐに西側に接続する4車線の目白通りがある。 ここが目白新坂である。別名を椿坂という。

この辺りの旧町名は関口だが、鎌倉時代からこの崖線は椿の名所で、里俗に椿山と呼んだ。 山形有朋がここに屋敷を建てた折に、その屋敷を椿山荘と呼んだのが、現在の椿山荘の名残である。 大正期以降は財閥藤田家の所有で、戦後藤田観光が椿山荘としてオープンした。古来からの椿山の名前が椿山荘として残ったわけだ。

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坂の中腹北側に東京都の建てた青銅?の説明板がある。

「この坂より南にある目白坂のいわばバイパスとして、明治20年代の半ば頃新しくつくられた坂で、古い目白坂にたいして 目白新坂という。明治末に書かれた「新撰東京名所図会」によると「音羽8丁目と同9丁目間より西の方関口台町へ上る坂あり椿坂という、近年開創する所、坂名は椿山の旧跡に因むなり、里俗又新坂ともいへり、道幅広く、傾斜緩なり」とあり、椿坂、新坂ともいう。」

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急だった目白坂のバイパスとして明治20年代に開かれた坂だが、都電はここを通っていない。 しかし当時から広い道だったようだ。 その昔は南の目白坂から目白通りは清戸道といい、江戸川橋と清瀬を結ぶ古い街道だった。 目白坂には、江戸時代に「立ん坊」と呼ばれる自由労働者がたむろしていた。この坂で農民が農産物や下肥を満載した荷車を上り下りさせる際に手助けし、その駄賃で生活していたというが、この新坂ができてから彼らはどうしたのだろうと、今は昔のことを想像してしまう。

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目白坂(目白台)

目白通りの坂は目白新坂で、椿山荘の正門前で出合う旧道が目白坂である。 新坂があまりにきれいな道路なので最近の坂かと思いきや、新坂も明治の後半には開通していた。 もちろん江戸時代はこの目白坂が主要道路である。この辺りは台地の縁なので、大名屋敷が多かった。 坂上には肥後熊本の細川家の下屋敷があったが、それは今「永青文庫」のあるブロックである。

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江戸川橋から護国寺方面へ進み、江戸川橋公園前の交差点を左折して首都高速道路をくぐると目白坂の始まり。 現在も大泉寺や永泉寺などの寺があるが、江戸時代はこの辺りに数軒の寺あった。 神田川側(南側)の寺院は目黒不動別当新長谷寺、蓮華寺ともに今はない。しかし坂の雰囲気はその曲がり方と八幡宮辺りの樹木のおかげで江戸情緒を残している。

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坂下に説明板が立っている。

「西方清戸(清瀬市内)から練馬区経由で江戸川橋北詰にぬける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り、このあたりから音羽谷の底地へ急傾斜で下るようになる。 この坂の南面に、元和4年(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。そもそも3代将軍家光が特に「目白」の号を授けたことに由来するとある。

坂名はこれによって名付けられた。『御府内備考』には「目白不動の脇なれば名とす」とある。かつては江戸時代「時の鐘」の寺として寛永寺の鐘とともに庶民に親しまれた寺も明治とともに衰微し,不動尊は豊島区金乗院にまつられている。」

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坂上にある椿山荘は山形有朋の屋敷跡。 別名不動坂と呼ばれたのはここに長谷寺があり、その中に目白不動があったからである。 長谷寺は戦災で焼けてしまった。 ここが目白の地名の由来なのだが、その元が消えてしまったのは残念なことである。

江戸時代幕府に大きな影響を与えた上野寛永寺の天海(慈眼大師)が、江戸の守護のために5色の不動像を作り、目黒、目白、目青、目赤、目黄を設置したのがはじまりである。目赤不動は本駒込、目青不動は世田谷区太子堂、目黄不動は江戸川区平井にある。(ただし目黄不動だけは複数ある)

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2017年12月 4日 (月)

開運坂(大塚)

面白い坂名である。 不忍通りの富士見坂から坂下通りを大塚に向かって進むと、吹上稲荷神社がある。元和8年(1622)創建、宝暦元年(1751)に旧大塚村の総鎮守となったのち移転を何度かしたがここに落ち着いている。境内には牛馬車止地などと彫られた古い石碑なども転がっていて、その無造作ぶりが面白い。

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坂下通りは水窪川の川筋の暗渠道なので当然谷底の道筋である。東側が小石川台地の首根っこ、西側が雑司ヶ谷の台地になり、吹上稲荷は雑司ヶ谷側の斜面にある。昔の町名は大塚坂下町。古い町並みも若干残っていて歩いて楽しい。 吹上稲荷の裏手はとてつもなく広い豊島岡墓地で皇族の墓所として有名。もとは護国寺の領地だったが明治政府が取り上げた。 標高が34mと高いので権現山と呼ばれていたようだ。

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坂下から少し上ったところに説明板がある。

「坂名の由来についてはよくわからないが、運を開く吉兆を意味するめでたい名をつけたものであろう。このあたりは、富士見坂(大塚3丁目の交差点から護国寺前)の下であるところから、旧町名を大塚坂下町といった。それでこの坂の下の道を坂下通りとも呼んでいる。

坂の上の南側には、5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の願いで建てられた護国寺がある。護国寺の東側には、明治6年(1873)に開かれた豊島岡墓地(皇族墓地)がある。豊島岡墓地の東側は、大塚先儒墓所である。江戸時代の公明な儒学者である木下順庵、室鳩巣、尾藤二州や古賀精里などの墓がある。」

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文京区が発行している『ぶんきょうの坂道』に開運坂の由来が判明したという記述が載っていた。 かつて坂上には講道館の道場があった。 その講道館の古い資料に、師範である嘉納治五郎がこの坂を開運坂と命名したとあるそうだ。しかし何故嘉納治五郎がそう命名したかはわからない。

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2017年12月 2日 (土)

富士見坂(大塚)

白鷺坂を上り詰めると大塚三丁目交差点、国道254号(春日通り)と不忍通りが交差する。 そこから護国寺へ向かって下る不忍通りが富士見坂である。 不動坂ともいう。

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坂下に説明板には、「坂上からよく富士山が見えたのでこの名がある。 高台から富士山が眺められたのは、江戸の町の特色で、区内にはも同名の坂が他に二か所ある。 坂上の三角点は、標高28.9mで区内の幹線道路では, 最高地点となっている。 むかしはせまくて急な坂道であった。 大正13年(1924)10月に、旧大塚仲町(現大塚3丁目交差点)から護国寺前まで電車が開通した時、整備坂はゆるやかになり、道幅も広くなった。 またこの坂は多くの文人に愛され、歌や随筆にとりあげられている。」とある。

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大正13年(1924)に電車が通るまでは狭くて急な長い坂だったが、電車を通すために傾斜をなだらかにし拡幅した。ところが盛土をしたので、並んでいた商店が道よりも低くなり軒より下が崖下に隠れるという状態になってしまって気の毒だったという記述がある。坂下通りの角の蕎麦屋など、今でも道路わきの数軒は道路よりも低いところに立ち上がっているが、その名残だったというわけだったのである。

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2017年12月 1日 (金)

白鷺坂(大塚)

文京区の地形は西から、目白台、弦巻川と水窪川の音羽谷、小日向台地、小石川台地、千川(小石川)の谷、本郷台地と、台地と削られた谷とで形成されている。 文京区の北部は大塚だが、大塚の北に豊島区南大塚があるのはいささか地名の違和感を感じる。

そんなアップダウンの地形を東西に横切るのが不忍通り。 本郷台地から猫又坂で下ると、千川跡を過ぎてから小石川台地へ白鷺坂で上っていく。 大通りだから大河のようにゆったりと登っていく(下っていく)感じがする。

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坂下の標高は11mだが坂上は28m、高低差が17mもあるのに大通りで緩やかに登るので車だとあまり傾斜を感じないし、歩いていても緩やかな上りがだらだら続く感じである。 大塚小学校の前の千石三丁目バス停後ろの植え込みに説明板が立っている。

「このあたり一帯は、かつて伊達宇和島藩主の下屋敷であった。近くの区立大塚小学校地は、池を中心とした伊達屋敷の庭園部に相当すると伝えられる。明治時代を迎えて荒廃するが、「古木老樹がうっそうとしげり白鷺の集巣地となって日夜その鳴声になやまされたものである。」とは土地の古老の話である。この白鷺にみせられたアララギの歌人古泉千樫は、ここに毎日通いつめて白鷺を題材とした短歌をつくったといわれる。

明治末期の東京市区改正に伴う道路整備によって不忍通りの前身が伊達屋敷内を貫通したため往時をしのぶものもなく、そこにできたこの長い坂道にも坂名のないままであったが誰いうとなく白鷺にちなんだ坂名が愛称となった。大正から昭和にかけての人によってつけられた坂名といえる。」

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明治末期に都電が走るまでは、この道は狭い道だった。 千川の両岸には多数の池があり、当然白鷺などの水鳥も多く飛来したことだろう。 明治の地図では大塚小学校の辺りは伊達邸とある。 宇和島藩主が明治の中頃まで住んでいて、飛来する白鷺を保護していた。

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