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2017年12月 5日 (火)

目白新坂(目白台)

目白通りの起点は九段下である。 江戸川橋からは一旦新目白通りと名を変えて、その先は関越道の入口までを目白通りとしている。 文京区内では、江戸川橋から護国寺方面へ向かいすぐに西側に接続する4車線の目白通りがある。 ここが目白新坂である。別名を椿坂という。

この辺りの旧町名は関口だが、鎌倉時代からこの崖線は椿の名所で、里俗に椿山と呼んだ。 山形有朋がここに屋敷を建てた折に、その屋敷を椿山荘と呼んだのが、現在の椿山荘の名残である。 大正期以降は財閥藤田家の所有で、戦後藤田観光が椿山荘としてオープンした。古来からの椿山の名前が椿山荘として残ったわけだ。

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坂の中腹北側に東京都の建てた青銅?の説明板がある。

「この坂より南にある目白坂のいわばバイパスとして、明治20年代の半ば頃新しくつくられた坂で、古い目白坂にたいして 目白新坂という。明治末に書かれた「新撰東京名所図会」によると「音羽8丁目と同9丁目間より西の方関口台町へ上る坂あり椿坂という、近年開創する所、坂名は椿山の旧跡に因むなり、里俗又新坂ともいへり、道幅広く、傾斜緩なり」とあり、椿坂、新坂ともいう。」

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急だった目白坂のバイパスとして明治20年代に開かれた坂だが、都電はここを通っていない。 しかし当時から広い道だったようだ。 その昔は南の目白坂から目白通りは清戸道といい、江戸川橋と清瀬を結ぶ古い街道だった。 目白坂には、江戸時代に「立ん坊」と呼ばれる自由労働者がたむろしていた。この坂で農民が農産物や下肥を満載した荷車を上り下りさせる際に手助けし、その駄賃で生活していたというが、この新坂ができてから彼らはどうしたのだろうと、今は昔のことを想像してしまう。

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