豊坂(目白台)
目白台運動公園の西隣は田中邸。数千坪を物納したあともまだビルが二つばかり建つくらいの敷地がある。 私事だが昔、上野毛に住んでいた時、近所に小佐野賢治邸があった(今もある)が、それも多摩川河岸段丘に一辺300m程の広い敷地だった。 わたしの世代にとってロッキード事件というのはとても大きなエポックだったものである。
田中邸の向かいには日本女子大(通称ポン女)、西隣には女子大付属の豊明幼稚園と豊明小学校があり、幼稚園と小学校の間を神田川に向かって下るのが豊坂である。この辺の旧町名は高田豊川町といい、江戸時代は大岡越前の家系である埼玉県の岩槻藩主大岡主膳正(じゅぜんのしょう)、三重県の鳥羽藩主稲垣摂津守、兵庫県の安志藩主小笠原信濃守らの大名屋敷だったエリアを町屋にしていった。
「坂の名は、坂下に豊川稲荷社があるところから名づけられた。江戸期この一帯は、大岡主膳守の下屋敷で,明治になって開発された坂である。坂を下ると 神田川にかかる豊橋があり、坂を上ると日本女子大学前に出る。
目白台に住んだ大町桂月(けいげつ)は『東京遊行記』に明治末期このあたりの路上風景を、次のように述べている。「目白台に上れば,女子大学校程近し。さきに早稲田大学の辺りを通りける時、路上の行人はほとんど皆男の学生なりしが、ここでは海老茶袴をつけたる女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ、云々」
坂下の神田川は井之頭池に源を発し、途中、善福寺川、妙正寺川を併せて、流量を増し、区の南辺を経て、隅田川に注いでいる。江戸時代、今の大滝橋のあたりに大洗堰を築いて分水し、小日向台地の下を素堀りで通し、江戸市民の飲料水とした。これが神田上水である。」
豊坂は幼稚園の南端でクランクして下っていく。、坂下に豊川稲荷というが、実際の豊川稲荷はこの豊坂の坂下よりも随分と東の幽霊坂下肥後細川庭園寄りにある。 明治33年(1900)に日本女子大が創設され、大正6年(1917)に坂下の早稲田車庫前まで市電が伸びると、この坂は女子大生で賑やかな通学路になった。しかし 当時の坂道は舗装もされておらず、悪天候の日には彼女らはたいそう難儀をしたことだろう。
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コメント
ロッキード事件は「神田川」が歌われた数年後に起きました。
私が生きていたのは「神田川」みたいにやるせない世界でした(但し彼女なし)が、希望はあったように思います。
友人の下宿に置いてあった「山と渓谷」のリッチで楽しそうな世界に、無限のあこがれを感じました。
だから今でも、山に惹かれます。
本能的に覗き込んだ神田川には、当時は魚影はありませんでした。
投稿: 吉瀬 総 | 2017年12月 6日 (水) 20時55分
吉瀬さん、当時の神田川は臭う川だったように記憶しています。今はさほど臭い川ではなくなりました。昭和から平成を生きてきて思うのは、未来への希望が見えにくくなったり感じづらくなったことでしょうか。あの頃の方が選択肢は少ないけど、希望は広がっていたような感覚がありますね。
話を神田川に戻すと、明治大正昭和とどんどん汚くなって行き、平成になってきれいになってきたというのが多分確かだと思います。希望に対する感覚も、実は自分の想像力と現実が文明の力で近くなったのかもしれませんね。(面白いことではないですが)
投稿: ぼのぼのぶろぐ管理人 | 2017年12月 7日 (木) 01時21分