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2017年12月 9日 (土)

清戸坂(目白台)

清戸というのは現在の清瀬市あたり、江戸時代の延宝4年(1676)に尾張徳川家の御鷹場御殿が中清戸(現在清瀬市内)にできてから、将軍が鷹狩りに通う道が開かれたのが清戸道(目白通り)。 当時は江戸川橋から目白坂を上り、日無坂の坂上の現日本女子大前を西へ通るのが清戸への鷹狩り道だったわけだ。 その日無坂上から護国寺に下る道が、清戸道へ上がる坂道ということで清戸坂と呼ばれた。

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現在は4車線の広い道になっている。広いので傾斜はあまり感じないが、8mほどの高低差がある。 女子大側の歩道に文京区と東京都のそれぞれの説明板が立っている。

坂上幽霊坂出合いの目白通り寄りに文京区の説明板。

「延宝4年(1676年)、御三家尾張徳川家の御鷹場が中清戸(現 清瀬市)につくられた。将軍もしばしば出かけて鷹狩りを行った。これが現在の目白通りである。首都高速道路(5号線)護国寺出入口(護国寺側)から 目白通りに向かっての広い道は、昔から〝清戸道に登る坂″ということで『清戸坂』といわれた。

江戸時代、この坂の北側一帯は、雑司ケ谷村の畑(現在の雑司ケ谷墓地)で、坂の道に沿って雑司ケ谷清土村百姓町があった。明治10年代から坂の北側には牧場と牧舎が建ち、平田牧場と言った。牛乳を売る小売店があり、人々が休憩した。旗竿には、『官許の牛の乳』と仮名とローマ字で書かれていたという。」

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そこから護国寺方面へ歩いていくと女子大の敷地の端近くに東京都の説明板がある。 これはあの青銅っぽい読みにくいタイプ。

「目白台上の目白通りは、江戸時代清戸道といった。中清戸(元清瀬市内)に御鷹場御殿があり、将軍が鷹狩に通う道が造られた。これが清戸道である。この清戸道から護国寺に下るわき道が清戸坂で,清戸道へ上る坂ということで 坂名がつけられた。坂道の北側に雑司谷清土村があったので清土坂とも呼ばれた。」

読み方は清戸(きよと)道に清土(せいど)村である。

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