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2017年12月 4日 (月)

開運坂(大塚)

面白い坂名である。 不忍通りの富士見坂から坂下通りを大塚に向かって進むと、吹上稲荷神社がある。元和8年(1622)創建、宝暦元年(1751)に旧大塚村の総鎮守となったのち移転を何度かしたがここに落ち着いている。境内には牛馬車止地などと彫られた古い石碑なども転がっていて、その無造作ぶりが面白い。

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坂下通りは水窪川の川筋の暗渠道なので当然谷底の道筋である。東側が小石川台地の首根っこ、西側が雑司ヶ谷の台地になり、吹上稲荷は雑司ヶ谷側の斜面にある。昔の町名は大塚坂下町。古い町並みも若干残っていて歩いて楽しい。 吹上稲荷の裏手はとてつもなく広い豊島岡墓地で皇族の墓所として有名。もとは護国寺の領地だったが明治政府が取り上げた。 標高が34mと高いので権現山と呼ばれていたようだ。

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坂下から少し上ったところに説明板がある。

「坂名の由来についてはよくわからないが、運を開く吉兆を意味するめでたい名をつけたものであろう。このあたりは、富士見坂(大塚3丁目の交差点から護国寺前)の下であるところから、旧町名を大塚坂下町といった。それでこの坂の下の道を坂下通りとも呼んでいる。

坂の上の南側には、5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の願いで建てられた護国寺がある。護国寺の東側には、明治6年(1873)に開かれた豊島岡墓地(皇族墓地)がある。豊島岡墓地の東側は、大塚先儒墓所である。江戸時代の公明な儒学者である木下順庵、室鳩巣、尾藤二州や古賀精里などの墓がある。」

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文京区が発行している『ぶんきょうの坂道』に開運坂の由来が判明したという記述が載っていた。 かつて坂上には講道館の道場があった。 その講道館の古い資料に、師範である嘉納治五郎がこの坂を開運坂と命名したとあるそうだ。しかし何故嘉納治五郎がそう命名したかはわからない。

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