富士見坂(日暮里)
東京には富士見坂と呼ばれる坂道が16ヶ所あるそうだが、もう富士山を望める坂道は都心にはない。 2000年以降まだ富士が眺められたのは大塚の富士見坂とこの日暮里の富士見坂のみになっていた。 しかし相次ぐビル建設で大塚は2005年に見えなくなり、この日暮里もニュースになるほどの運動を展開していたが、残念ながら2013年に最後の富士見坂としての役割を終えた。 そのいきさつは「日暮里富士見坂を守る会」のページに詳しく書かれている。下の写真の遠景真ん中に茶色のマンションがあるが、これがこの坂の富士見にとどめを刺した。
坂の別名は花見坂、妙隆寺坂。 その説明が坂上の荒川区の説明板にあった。
「坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺(修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と呼ばれたことから、この坂も通称「花見坂」、または「妙隆寺坂」と称された。 都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことができる坂である。」
その説明板に追記がされていた。『都心にいくつかある富士見坂のうち、最近まで地上から富士山が見える坂でした。「関東の富士見百景」にも選ばれています。』
地元の人々にとっては相当無念だったのだろう。
坂に設置されている街灯も富士のモニュメントを入れたものになっている。しかし周辺住民の意見をゼネコンが聞き入れた例はほとんどない。その辺りは日本が先進国になりきれない後進的な象徴のように思う。 ただこの国の特徴としては内側からは変化できない。 守る会がイコモスに嘆願したのはその点的を射ているが力及ばずであった。
日暮里の地名は昔は「新堀」と書いた。江戸時代から眺めの良い場所で、人々が日暮れを眺めては酒を楽しむ景勝地だったため、いつしか「日暮里」と書くようになった。
それでも最後の富士見坂になったことでこの坂はいつまでも富士見坂として伝えられると思う。 実際には世田谷区のいくつかの坂道で今でも地上から富士を望めるのだが、江戸時代は世田谷は江戸の外だった。
坂上は諏方神社に由来する諏訪台と呼ばれ、江戸時代はこの見晴らしの良い高台から行楽客がのどかな風景をひぐらし楽しんだという。歌川広重の名所江戸百景にも描かれている。(日暮里諏訪の台)
写真: 2016/5/5
加筆: 2018/12/7
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