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2017年12月29日 (金)

御殿坂(谷中)

JR西日暮里駅の北口を出ると、左に桜並木の短い坂がある。南側を谷中の墓地、北側を本行寺に挟まれて、いかにも谷中の入口という雰囲気を醸し出している。 谷中霊園は江戸時代以前は広大な天王寺の境内だった。明治になって東京府に移管されるまで、天王寺はこの広大な寺域を有していた。

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現在は日暮里駅北口から西が御殿坂だが、江戸時代は日暮里駅東口の低地から坂が上っていた。 東口の駅前ロータリーに南北から入る道路はかつての川筋であった。現在駅前にある荒川消防署は寮を併設しているが、この寮の名前が「音無川寮」という。 この川沿いにかつては王子街道が付いており、音無川は王子駅前にある親水公園の音無川の下流にあたる。

御殿坂に戻ろう。 御殿坂は七面坂同様、台東区と荒川区の区境の道路である。なので、坂の説明板(標柱も)坂の両側にあり、北側の本行寺前にあるのが荒川区のもの、南の歩道の植込みにあるのが台東区のものである。

<荒川区の説明板>

西日暮里3丁目と台東区谷中7丁目の境を七面坂上から日暮里駅方面へ下る坂。江戸時代から用いられていた呼称である。当時の絵図などから、天王寺(現谷中墓地)の下を通り芋坂下に続いていたことがうかがえる。天保9年(1838)刊の「妙めお(みょうみょう)奇談」は、寛永(1624~44)の頃、白山御殿(将軍綱吉の御殿)や小菅御殿(将軍御膳所)と同様の御殿がこのあたりにあったことにより付いたというが、坂名の由来は明確ではない。

<台東区の標柱>

文政12年(1829)に成立した『御府内備考』には、「感応寺後と本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが、「根岸」の誤写の可能性がある。明治5年『東京府志料』には、長さ十五間(約27.3メートル)幅二間(約3.6メートル)とあるが、現在の坂の長さは50メートル以上あり、数値が一致しない。以前は、谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅やJRの線路ができた際に消滅したため、その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこの先にあったからといわれるが、根拠は定かではない。

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江戸時代は、音無川の削った谷に向かって急坂があったはずである。 長さ27mの坂とあるが、高低差は15mほどあるので相当な急坂だったと思われる。由来は区の説明では不明としているが、天王寺の南側にあった御隠殿に回り込む坂だったので御殿坂となったという説が有力。 ただ別名で乞食坂とも呼ばれたのは、門前には昔よく乞食が定着して施しを要求していたため寺の近くに乞食坂がしばしばみられることの一例だろうと思う。

上の写真の山門のある本行寺には、私の生まれた山口県の種田山頭火の句碑がある。

「ほっと月がある東京に来てゐる」

個人的な解釈だが、東京のような雑踏の町に来てしまったが、月はどこで見ても同じ月なのだなあ…と、ほっとしたのではないだろうか。

写真: 2016/5/5

加筆: 2018/12/7

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