目切坂(暗闇坂)
目切坂は古い坂である。 別名を〆切坂、あるいは暗闇坂という。 坂下に標柱と説明板がそれぞれある。
「目の前が目切坂。江戸時代、近くに石臼の目切りをする腕の良い石工が住んでいたことから、この名前が付いたという。 この道はかつての鎌倉街道でもある。源頼朝が鎌倉に幕府を開いた後、変事の際に援軍が鎌倉に急行できるようにと作られた道の一つ。「いざ鎌倉へ」と、鎧兜の武者たちが馬を飛ばしたのは800年も昔の話だ。」(説明板)
「江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の上目黒村の項には「メキリ坂」という坂名がみえ、渋谷との境にあり石臼の目を切る職人が住んでいたために目切坂になったと記されています。 由来については諸説ありますが、1800年代前半には「めきり坂」と呼ばれていたようです。」(標柱)
昔中目黒駅前に住んでいた頃(1970年代)からこの道は何度も使ったが景色はあまり変わっていない。 この坂の坂上南側のキングホームズ代官山からいつも見下ろされているようだった。 目切坂は長い間代官山から山手通りへの抜け道として、多くの営業車が利用しているので交通量は意外に多い。
坂上には昔、富士講の目黒富士があった。 キングホームズ代官山の敷地内にあったこの富士は、文化9年(1812)に上目黒の富士講の人々によって築かれた。高さは12mあったという。 文政2年(1819)に少し東南の別所坂上に新しく富士塚が築かれると、そちらは新富士と呼ばれ、目切坂の富士塚は元富士と呼ばれるようになった。
元富士は明治以降取り壊され、石祠や石碑は大橋の上目黒氷川神社に移されたが、この目黒元富士からは富士山の眺望もあり、たいそう人気だった。 そのためか、歌川広重の『名所江戸百景』には、『目黒元不二』、『目黒新富士』として、それぞれ描かれている。
坂上は崖線と土地の所有者に合わせて、渋谷区と目黒区の区境が複雑に絡んでいる。 渋谷区側になるが、ヒルサイドテラスの敷地内に猿楽塚古墳がある。
これは6~7世紀の古墳時代の円墳で、猿楽塚と古くから呼ばれそれが猿楽町の由来になっている。 大昔の鎌倉街道はこの辺りを通っていて、その後目切坂に移っていったのは、この急坂が相当な傾斜で難儀をしたからだろうと思う。
また、目切坂の坂上には地蔵尊と道しるべがあり、建てられたのは文政元年(1818)とある。 昔から崖線の上と下を結ぶ重要な道だったのであろう。
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