禿坂(西五反田)
東急目黒線不動前駅近く、目黒線と平行に南北に延びるのが禿坂である。 坂下の山手通りとの交差点は「かむろ坂下」という名称。 そこから緩やかに、微妙にカーブを描きながら500mほど上っていく。 歩道付きの二車線路で道幅があるが、ずっと続く桜並木が坂の景色に色を添えている。
「禿(かむろ)」というのは普通は僧(坊主)のことを指すが、元は遊郭で遊女に仕えながら見習いをする12~13歳程度の少女を禿といった。 彼女らは髪をおかっぱにしていたので禿と呼ばれたのである。 当時のおかっぱは妖怪の河童のように頭の真ん中を剃り、周りを短く切った髪型であった。
河童→髪の毛がない→坊主という解釈の変化で坊主のことを禿と言うようになったが、この禿坂の禿は少女の方である。
坂の途中にあるかむろ坂公園には坂名の由来が掛かれた説明板と禿のレリーフがある。
三百年ほど昔のこと、犯罪を重ねた鳥取の武士「白井権八(本名は鳥取藩の武士で平井権八郎直定)」が鈴ヶ森刑場で処刑され、目黒の冷心寺(別説では目黒不動そばの虚無僧寺)に引き取られ葬られた。 彼と相愛であった吉原三浦屋の花魁「小柴」は、それを聞き目黒へ行き墓前で自害してしまった。
三浦屋の主人は、彼女の付き人をしていた禿を迎えに出したが、禿は冷心寺(別説では目黒不動)で小柴の死を知り、泣きながら帰っていく途中、桐ケ谷で暴徒に襲われ逃げたが「二ツ池」に飛び込んで死んでしまった。
それを見た村人たちは憐れんで、禿を丘の中腹に葬り、かむろ塚と呼んでいたが、時代が過ぎて、その丘はかむろ山、池はかむろが池と呼ばれるようになり、この坂名が残されたと伝えられる。
その二ツ池の場所は、今のかむろ坂公園の北側の第四日野小学校のあたりだった。 確かにこの辺りは明治期には「谷戸窪」という地名で、それからすると江戸時代に池であった可能性は高い。
古い中原道の道筋は国道1号線筋にあり、都心から来ると五反田を過ぎて目黒川を大崎橋で渡る。 その先に辻がありその地名が桐ケ谷。 そこから平塚橋に至るが、桐ケ谷の辻で目黒不動方面へ道があった。 昔の目黒不動は江戸の郊外の一大レジャースポットだったので、五反田桐ケ谷ルートか目黒行人坂ルートが使われた。 花魁小柴も禿もこの五反田桐ケ谷ルートを使ったのだろう。
禿坂はその五反田桐ケ谷ルートのさらにう回路にあたるが、二ツ池から目黒川へ直接下る道筋は江戸期からあったので、禿坂は江戸時代から続く坂道と言える。
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