ゼームス坂(大井町)
大井町駅の東側は古い時代の海岸岬である。 まだ海面が高かった時代、目黒川は御殿山とこの大井町東側の台地を河口にして東京湾に注いでいた。 また中延辺りから大井町に流下する川もあった。 その立会川暗渠にできた道が緩やかに曲がっている立会道路。 品川区南部(大井)の坂道はこの地形にできたものである。
「もとは浅間坂と呼ばれ、かなり急な坂でした。片側は切り落としになっていて、崖の向こうには品川の海が間近に迫って見えたそうです。 明治時代、この坂の途中に英国人のJ.M.ゼームスが住んでいたことから、ゼームズ坂と呼ばれるようになりました。」
坂の途中の脇道に昔の海岸と思われる段差がある。 どちらの道も行き止まりだが、地形は素直に昔の記憶をとどめている。
浅間坂という古い名前は大井町東側が昔、浅間台と呼ばれていたことにちなむ。 ゼームス氏の名が残ったのは、日本の造船に大きな影響を残した彼が、かつて急坂であったこの坂を、私費を投じて緩やかに改修した。 それを感謝する土地の人々がいつからともなくゼームス坂と呼ぶようになったためである。
明治初期の地図を見ると、この坂の西側の崖線に1軒の広い屋敷がある。 おそらくこれがゼームス邸だろう。 ほぼ現在の三越ゼームス坂マンションのA、B,C3棟を合わせたほどの敷地だったようだ。 マンションの裏にある駐車場の入口にゼームスの説明を書いた石碑がある。
ちなみにゼームスというのはJamesで、当時の日本語には「ジェ」という表記はなかったためゼームスになったのだろう。 石碑には次のように書かれていた。
<ゼームス邸跡地について>
此の処は南品川英国人ジョン・M・ジェームス邸跡地である。 M・ジェームスは慶応2年(1863)28歳の時来日した。 そして坂本龍馬等とも知り合い、後に日本海軍創設に貢献し、明治5年海軍省雇入れ以降、幾多の変遷を経て住まいを此の地に構え、隣人に慕われつつ、明治41年70歳にて没した。 墓は身延山本堂裏山に在り、「日本帝国勲二等英国人甲比丹ゼームス之墓」と刻まれている。その頃のジェームス在りし日を偲ぶ庭の欅も品川区の保護指定樹として樹齢百数十年の姿そのままに苔むす石垣と共に昔の面影を今に止めている。
残念ながら最も大きな欅は折れて切られてしまったが、まだ何本か残っている。 また道路の向かい側には高村光太郎の「レモン哀歌」が美しい御影石に刻まれているが、それはここが高村智恵子終焉の地だからである。
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コメント
× 千恵子
○ 智恵子
よろしく。
投稿: 通りすがりの者ですが | 2018年1月10日 (水) 21時40分
ありがとうございます。間違いを訂正させていただきました。不勉強をご容赦ください。今後ともよろしくお願いします。
投稿: ぼのぼのぶろぐ管理人 | 2018年1月10日 (水) 21時50分