権之助坂(目黒)
江戸中期、中目黒の田道に菅沼権之助という名主がいた。村人のために年貢の取立てを緩めてくれるよう訴えるが、逆に咎められ処刑されることになった。村人のために罪を負った権之助を思って彼が最後に村を振り返ったこの坂を権之助坂と呼ぶようになったという話がある。また別に権之助が悪人だったという話も残っている。
また、それ以前の道は東に行人坂はあるものの、中目黒方面への道は現在の富士見坂下の道を経て、田道経由で目黒川の右岸に渡る道で、相当な遠回りになっていたため、、現在の権之助坂ルートを彼が許可なく切り開いたので処刑されたという説もある。
江戸時代の郊外の目黒不動へのメインルートは行人坂を下る道筋だった。大正3年(1914)に都電が目黒駅前まで伸びたのに続いて、権之助坂が目黒村や平塚村への主要道に変わっていった。 権之助坂下の目黒川を渡る橋は目黒新橋という。 昭和に入ってからもまだ蛍が飛び交うような風景だった。
現在はビルが立ち並び、溢れるような数の車が下る喧騒の権之助坂になっている。 目黒駅前の集中混雑を避けるため、放射3号支線が出来て、権之助坂は下り専用になったが、それでも溢れている。
ちなみに目黒駅は品川区にあるが、山手線計画当初は目黒川近くを通るようになっていた。 しかし目黒川周辺(当時は田園地帯であった)の農民の反対にあい、台地の上を通ることになったのである。
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