行人坂(目黒)
江戸時代の目黒は郊外のリゾート地としての役割を果たしていた。 目黒のサンマのモデルは将軍家光と爺々ヶ茶屋の主人だが、将軍鷹狩りの場であると同時に目黒不動詣でに多くの江戸っ子が遠出をする場所だった。 白金高輪に下屋敷を持っていた熊本肥後国の細川氏は、目黒の崖線にも抱屋敷を持っていた。 現在の雅叙園の敷地である。
雅叙園は日本初の総合結婚式場で、昭和6年(1931)に料亭として開業した。 当初の建築で残っている「百段階段」(実際は99段)は都指定有形文化財になっているが、ちょいと見に行くというわけにはいかないのが残念。細川家時代の崖の傾斜を使った見事な木造建築で、ぜひ一度見てみたいと思っている。
坂の中央、目黒川架橋供養勢至菩薩石造の祠の脇に目黒区の立てた説明板がある。 「寛永の頃、出羽(山形県)の湯殿山の行人が、この辺りに大日如来堂を建立し修行を始めました。次第に多くの行人が集まり住むようになったので、行人坂と呼ばれるようになったといわれています。」と書かれている。
もう一つの説明板は雅叙園が建てたもの。 「行人坂の由来は大円寺にまつわるもので、寛永年間(1624)この辺りに巣食う、住民を苦しめている不良の輩を放逐する為に、徳川家は奥州(湯殿山)から高僧行人「大海法師」を勧請して、開山した。その後不良の輩を一掃した功で、家康から「大円寺」の寺号を与えられた。 当時この寺に「行人」が多く住んでいた為、いつとはなしに江戸市中に通じるこの坂道は行人坂と呼ばれるようになった。」
大円寺というと、江戸三大火事の一つ「行人坂の火事」で有名である。 明和9年(1772)に江戸市中を焼く大火があり、火元とみられたのが大円寺であった。 大円寺の境内にある写真の五百羅漢はこの火事で亡くなった人々を供養する為に建立されたと伝えられる。 明和9年の出来事であったので、だれいうとなく「めいわくの年」だと言い出したので、幕府は年号を「安永」と改めたといわれている。
目黒川は昨今桜の名所となって、中目黒駅前を中心にこの雅叙園の辺りも多くの花見客でにぎわうようになった。 かつての江戸の賑わいが復活したようである。 江戸時代は目黒不動に参詣した帰り道、目黒川の太鼓橋を渡り、行人坂を上って振り返ると、遠くに富士がそびえる素晴らしい風景が見られたことでも人気になったという。また雅叙園のある付近一帯は、かつて「夕日の岡」と呼ばれ、紅葉が夕陽に映えるさまは実に見事で、品川の海晏寺かいあんじとともに、江戸中に知れわたっていたところである。
ただこの行人坂があまりに急峻だったため、坂で止まりきれない馬車が目黒川に突っ込む事故などが多発、そのために権之助坂が開かれたといわれる。 確かにここが舗装されていなかったら、どれほど難儀かは想像に難くない。
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