別所坂(中目黒)
別所坂は名坂である。 個人的な見解だが、目黒川崖線の中でも相ノ坂、目切坂、行人坂とこの別所坂は特別だと思う。 どの坂も坂上は三田用水で、目黒川に下る坂である。 目黒川左岸の旧日向道がどこまでを指すのかはよくわからないが、江戸時代から左岸の道は別所坂まで続いていた。 そして別所坂の東側には三田用水(実際には用水からの取水ではないようだが)から落ちる滝があったという。
別所坂の勾配は上に行けば行くほど急になる。 最大勾配はなんと23%。 江戸時代は雨や雪の日はほとんど通行不可能だっただろう。 坂下に目黒区の標柱がある。
「この辺りの地名であった〝別所″が由来と言われる。 別所坂は古くから麻布方面から目黒へ入る道としてにぎわい、かつて坂の上にあった築山「新富士」は浮世絵にも描かれた江戸の名所であった。」
別所というのは、新しく開いた土地という意味と、もう一つは目黒の方言で突き当りとか行き止まりを別所と言ったという説がある。
別所坂の坂上は新富士があったがその遺跡が1991年に発掘調査がなされた。 そこには弥生時代の住居跡、江戸時代の富士講の胎内遺構、水琴窟など、さらに昭和の防空壕2基まであったという。 坂は上るにつれ勾配を増していく。
坂の頂上はいきなり階段になる。 突き当りの大谷石の擁壁はおそらく三田用水の名残り。 ここを三田用水は流れていたのである。 また現在「テラス恵比寿の丘」というマンションになっている場所は、KDD研究所だった場所。 きわめて眺望の良い崖線上の土地で、江戸時代の北方探検家近藤重蔵の屋敷があった。
近藤重蔵は寛永10年(1798)に蝦夷地御用を命じられ、国後島、択捉島などを探検、択捉島に「大日本恵登呂府」の碑を建て日本の領土であることを明確にした人物。 その屋敷内に重蔵は目黒元富士に遅れること7年後の文政2年(1819)に新富士を築山。 景勝地でもあったので、すぐに江戸の名所として人気を博した。
ところが重蔵が大阪に赴任している間に、家屋管理を託された塚越半之助なる人物が重蔵の屋敷をレジャーセンターにして大儲けした。 塚越は近藤重蔵が江戸にもどってくることになると、あの手この手でそれを妨害した。 それに対して重蔵の長男富蔵が耐え兼ねて、塚越半之助一家を殺害するという事件が発生したのである。 当時の江戸幕府はこういう事件に厳しく、富蔵は八丈島に島流し、父の重蔵も大溝藩に身柄預かりとなり一家断絶という結果になってしまった。
坂上にある庚申塔はその事件や新富士とは関係ない。 江戸時代各地で信仰されいた庚申講で建てられたものである。
江戸時代はこの別所坂は現在の駒沢通りの役割を果たす世田谷道であった。 現在の目黒区役所の前のけころ坂から目黒川を渡り、別所坂上からは中山坂(富士見坂)を下り恵比寿を経て広尾に繋がる街道であった。 都心からの道を進むと富士を眺めながらの好眺望の街道だったことが想像できる。
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