けこぼ坂(けころ坂)
中目黒の駒沢通りの坂。 坂下は山手通りとの中目黒立体交差、すぐに上り坂になり中目黒小学校の辺りまで坂になっている。 当時目黒区役所は千代田生命本社だったが、1966年まではアメリカンスクールだった。関東大震災以前は山林で、震災後急に民家が建つようになったようである。
目黒区役所の前に東京都の説明板があるが落書きで読みにくい。 落書きは民度の低さと治安の悪さのバロメータなので、ぜひ厳しく取り締まってもらいたいものである。 その説明板には次のように書かれていた。
「この道は昔の祐天寺道で、祐天寺を経て碑文谷裏に続く目黒の主要道路であった。 かつて、このあたりは急坂であったため、斜面を切り開く切り通しの工事が何回となく繰り返された。その結果、道の両側の土手はますます高くなり、風雨にさらされた土手からは、赤土のかたまりが ざらざらこぼれ落ちた。 この状態を目黒の古い方言で『けこぼ』といい、土地の人々は、この坂を 『けこぼ坂』と呼んでいた。」
坂下の正覚寺は江戸切絵図には鬼子母神が大きく書かれており、庶民に人気だったという。 また祐天寺は江戸切絵図にも大きく描かれており、両寺とも高い人気があった。 江戸時代の地図で町奉行の江戸の範囲を表した線が墨引(黒引)で、寺社奉行の範囲が朱引で表されていたが、中目黒と下目黒は町奉行の墨引外なのに寺社奉行の朱引の内側になっていた。これは目黒不動、祐天寺、正覚寺が管理範囲ということで、それだけ人が訪れていたのである。
この正覚寺の門前には水茶屋があったようだ。その水茶屋というのはいわゆる風俗で私娼がいた。 私娼を江戸時代の俗語では「けころ」と呼んでいたので、坂名になったという別説もある。
しかし目黒区はその説を否定しているようで、「けこぼ」というのはこの地域の古い方言で、切通しの壁などで赤土が崩れて、穴のように凹んでいる様をいい、それが由来としている。「けこぼ」なのか「けころ」なのかがポイントだが、江戸っ子が洒落て両方の呼び方があったのではないかと思うがどうだろうか。
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