八ツ山の坂(北品川)
品川半島の突端は品川神社である。 神社の階段下はかつては東京湾の波打ち際だった。 目黒川が運んだ土砂が海岸に溜まると青物横丁周辺のかつての品川宿までが陸地になった。 東海道線はこの岬の半島を切通しで貫いた。江戸時代に栄華を誇った東海寺は同じ名前の東海道線に境内をぶった切られる形になり、線路の裏側に創建者である沢庵和尚の墓がある。
そんな半島の岬より少し手前の山が御殿山だった。江戸時代は将軍の鷹狩り休憩所の御殿。ところが黒船来航後の江戸防衛のために御殿山は削られお台場の土として使われた。その後明治になってからは、三菱財閥の岩崎家邸宅、原六郎(渋沢栄一・安田善次郎・大倉喜八郎・古川市兵衛と並んで日本財界5人男と称された)の屋敷などが建てられた。 今も残るマリオットホテルと御殿山庭園は彼の庭だった。
そんな御殿山に五反田方面から上る坂が八ツ山の坂である。周辺はかつてはSONYの関連施設や工場が立ち並んでおり、この道もソニー通りを呼ばれていたが、今はSONYとわかるものは少ししかない。 坂の辺りは江戸時代は、松江藩松平家下屋敷、のちに鳥取藩池田家の下屋敷となった。 海側は将軍家の御殿山にあたる。
坂上のバス停脇と坂下に標柱がある。
「このあたりは武蔵野台地の突端にあたる丘陵で、海岸に突き出た洲が八つあったところから八ツ山と呼ばれた。この地にある坂のために、いつしか八ツ山の坂という名がつけられた。 この道は、もと三間道路と呼ばれ、道幅は三間(約6m)で、あたりには人家も少なく、夜はさびしい通りであったという。」
通りは両側がかなりの傾斜地になっているが、これは江戸時代に目黒川の氾濫のたびにここから土を削り五反田方面の護岸工事などに使われ切り崩された歴史があるという。 それでも江戸時代はまだ曲がりながら上っていく坂道だったようだ。
八ツ山に関しては諸説ある。 この地に八つの岬があったので八ツ山という説や、この地がかつての谷山(谷はやつと読む)村だったので転化して八ツ山いう説がある。
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