謡坂(中目黒)
稲荷坂の坂上は東横線にぶつかる。車道としてはその先でガードをくぐり祐天寺駅前へ抜けているが、ガード手前で西に曲がると、謡坂の下りになる。 坂の途中に目黒区の標柱と、地元の方が立てたと思われる石柱がある。
「昭和の始め頃、この坂の近くに謡の好きな人が住んでいたので謡坂と呼ぶようになったといわれる。」と標柱には書かれている。 しかし、石川悌二氏は『江戸東京坂道事典』の中で、「坂名の由来を書いたものがないが、北区の宇都布(うとふ)坂や新宿区の歌坂と同義の「ウタ、ウト、ウタイ」に起源しているのではないか。地形上から見ると、蛇崩川は坂下を北東に迂回しており、アイヌ語のウタ、ウトの出崎の意味に通じるようである。」と書いている。 興味深い解釈だが確かに蛇崩川の流路はその通りである。
目黒区が土地の古老に聞いて由来を調べている。祐天寺の田中さんという長老に聞くと、「この辺には、昔は何もなかった。周囲は、畑とナラ林だけ。震災の後だったか、坂のわきに16軒長屋なんてものが建って、人がぽつりぽつりと住み始めたっけ。そこの人たちが、「坂に何か名をつけよう」ということで「うたい坂」とつけたんだね。この長屋に長唄か踊りを教える人がいたなんて話も聞いたことがあったな。」ということだったので、標柱の説明になったのだろう。
坂下には蛇崩川の支流が暗渠として残っている。 この支流は学芸大駅北の五本木小学校辺りを源頭にこの謡坂の北側で蛇崩川に合流していた。 この暗渠の面白いのは1mほどの細路地が祐天寺駅の南側にまで残っており、その源頭近くの守屋図書館裏には五本木庚申塔群がある。
その蛇崩川支流を越えると坂は上りに変わり、蛇崩交差点に向かう。 このS字カーブはいつからあるのだろうと調べたら、どうも江戸時代からの道筋が変わっていないようである。 カーブの北側の蛇崩川支流の西側は明治時代は池だった。 台地の縁の一部なのでもしかしたら湧水の池かもしれないが、現在は住宅の立ち並ぶ路地裏になっている。
関東大震災前の地図を見ると謡坂には1軒しか家がない。このS字の南西側である。 それを考えると古老の話がなるほどと思えてくる。
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