南坂(馬込)
第二京浜の馬込坂の東側、二本木坂の道筋の続きで再び台地に上っていく坂が南坂である。 何に対して南坂かというと、坂上にある馬込八幡神社から見て南ということらしい。 馬込八幡は馬込村の総鎮守として、鎌倉時代からこの辺りの中心であった。 江戸時代になるよりも前にその北隣に長遠寺が移転してきた。昔は玉川八十八カ所霊場の第七十二番札所、また御府内八十八カ所霊場の八番札所の馬込不動として有名だったという。
坂の南には湯殿神社があり、その境内周辺は戦国時代北条氏の家臣である梶原氏の城があった場所。 ここが北西の端で、北側の内川と南の呑川の間の台地全体のおよそ1㎞四方が中世の城郭だった。 南坂の辺りの古い地名を根古屋(根古谷)と呼んだが、その城郭は周囲が崖に囲まれ、周辺の谷には沼を配置して敵の攻めに備えていたという。
昔の南坂は道幅も狭く、急峻な坂道で、西は二本木坂を通って旧池上村の根方(現在の中池上1丁目辺り)に繋がっていた。 坂上の区立馬込小学校はとても古く、創立は明治11年(1878)で、古くからこの辺りが栄えていたことがわかる。
坂上と坂下に標柱がある。「馬込の中心にある八幡神社から見て、南側にあるので南坂と言われている。昔の坂は、道幅も狭く急な坂で、今の第二京浜国道の中央あたりまであったという。この坂道は西へ下って、二本木を通り、池上の根方に通じた古い道である。」 と書かれていた。
昔は、坂は切通しで高い崖に挟まれていて、東の崖には樹木が生い茂り、西側は竹藪だったという。 明治大正以降の耕地整理で坂は相当緩やかになった。
八幡神社の鳥居と、その前の「村社」と彫られた石柱が素晴らしい。村社という呼び名は明治時代のもので、江戸時代は総鎮守と言われていたようである。 鎌倉時代初期、源頼朝の家臣の渡辺氏が松原橋の辺りに住んでおり、京都石清水八幡宮の分霊を勧請し開いた。その後荒廃したが、江戸時代後期に名主らが再興したと伝えられる。
| 固定リンク | 0
コメント