臼田坂(馬込)
最寄り駅は西馬込か大森か微妙なエリアにある坂だが、荏原町から池上通りの大田文化の森へのバス通りの一部である。 坂下の大田文化の森というのは面白い名前だが、森はない。 区民情報センターのビルでスタジオなどいろいろな施設が入っている。元は大田区役所だったが、1998年に蒲田駅東口のバブリーな庁舎に移転した。 かつて区役所のある区の中心だったから中央という地名にしたのかどうかは調べたが明確には書かれていなかった。容易に分かりそうなことなのに解明できずにいささか消化不良気味である。
臼田坂は緩やかにカーブしながら上っていく。昭和時代には区役所があった関係で臼田坂の坂下までは賑やかな商店街だったが、役所の移転後は寂れてしまった。池上通りは昔、鎌倉街道で平間街道(池上道)とも呼ばれ、多摩川を平間の渡しで越えていた東海道のサブルートだった。
臼田坂の由来は単純で、坂の上下にある標柱には、「坂付近に、古くから臼田を姓とする人が多く住んでいた関係から、この名が起こったといわれている。」とある。
大田区によると、昔から馬込より大森に出る主な道で「田無街道」と呼ばれていた。 馬込を抜け、荏原町から三軒茶屋を経て田無に向かう道という意味合いだそうだが、三軒茶屋から田無はいささか遠すぎる気がする。 ただ、明治になってからもこの道路は府道56号大森田無線とされていたので、間違いではないようだ。
この田無街道は実は台地の峰を這うように続いており、3D地形図を見ると見事に稜線を走っているのがわかる。江戸時代から主要地方道だったといえるだろう。
坂上の社は何の説明も書かれていないので正体がよくわからなかったが、その先の民家の間にある塚は磨墨塚(するすみづか)という由緒ある塚で、源平の合戦で活躍した磨墨(するすみ)という名馬がこの地の産だとか、ここで死んだとか伝えられ、それにちなんで明治33年(1900)に馬込村の人々が建てたもの。しかし磨墨塚は全国にいくつもあるという。
また周辺は馬込文士村と言われ、大正末期から昭和にかけて多くの文人が好んで住んだエリアである。臼田坂には川端康成や石坂洋次郎が住んでいた。
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