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2018年3月25日 (日)

お茶屋坂(成城)

安土桃山時代が終わり徳川家康が江戸入城する以前の戦国時代は多くの中小藩主が諸大名の傘下に入ることで生き延びていた。 その中小藩主を「国衆」と呼んだ。 江戸城を築城した太田道灌もその一人、そして世田谷の城主吉良氏もまた国衆の一人だった。 その吉良氏の家臣に江戸氏がいて喜多見郷を治めていた。

徳川家康が江戸入城すると、北条の配下であった吉良氏は江戸を追放されたが、江戸氏は喜多見に潜伏し留まった。 江戸(勝重)氏はその後北見村(現喜多見)を治めることを許されたが、徳川の居城「江戸」の名前を使うことを憚って「北見→のちに喜多見」に改姓した。

江戸時代になり、大阪の陣で手柄を挙げた喜多見(江戸)勝重は奉行を務めるまでになり、その子の重勝(久太夫)は茶人として喜多見流茶道を当時の茶道の一派にまで育てた。

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崖線上の明生小学校脇から野川方面に下るまっすぐな急坂がお茶屋坂である。 坂名の由来は、前述の喜多見重勝の茶室がこの坂上にあったことに由来する。 しかし彼の死後、わずか4年後のお家騒動で喜多見家は御家取り潰しとなった。茶室はそれ以前だとすると、御家断絶の1689年までの江戸時代前期にあたる。

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このお茶屋坂は小学校の通学路になっている。 当然ながら車もバイクも通行禁止である。 この急坂を毎日上り下りするのは気の毒であるが、崖線の坂のおかげで体力は付くだろう。

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坂は下半分が広くなり、そこは住民の自動車が出入りする。 きつい坂だが、国分寺崖線を十分に味わえる。西南向きの坂なので、日当たりはよく明るい坂になっているのが特徴である。 坂下は丁字路になるが、昔は世田谷通りの向こう側の野川に架かる雁追橋まで繋がっていたようだ。 橋向こうで再び丁字路になるが、その川向うの左右の道は田淵道と呼ばれていた古道である。

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