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2018年3月10日 (土)

慈願寺坂(瀬田)

慈願寺あるいは慈眼寺の両表記がある。 現在の寺は慈眼寺としている。 坂に関する情報には慈眼寺坂とある。『新撰東京名所図会』には慈願寺、どうもわからない。区内の古い文献も両方の名前がある。

その慈眼寺は崖線の上にあり、慈願寺坂は大山道とされている。 寺の参道の入口には笠付庚申塔があるが、寺の説明だと元禄年間のものらしい。 開山は徳治元年(1306)、時代としては吉良家により世田谷が統治されていた頃か、その前の喜多見氏(江戸氏)の頃か。 地形的には野城としても機能する場所なので、領主との関係はあったと思われる。

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笠付庚申塔の前から下り坂が始まる。 途中自転車ではとても上れないほどの傾斜になる。 慈眼寺の南側にあるのが瀬田玉川神社。 戦国時代の永禄年間(1558~1570)に御嶽神社として創建され、明治41年に玉川神社と改名された。

ちょうどその頃、明治42年に慈眼寺坂の東側の斜面に「玉川遊園地」が開設され、行善寺下に玉電の駅「遊園地前」もできた。 約1万坪の遊園地には、滝のある池、藤棚、乗り物、小動物の動物園、運動場などがあった。 古い玉川遊園の見取り図には、玉川神社にご神木(松)と書かれていたが、この赤松は樹齢800年の都天然記念物だったが、昭和41年の台風26号の折に倒れてしまった。(古老の話では黒松になっている)

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玉電の「遊園地前駅」は、玉電が深い関係にあった身延山別院玉川寺の開山(昭和7年)の後、「身延山関東別院前」と変更されている。 しかし戦争が本格的になると、駅は昭和18年に廃止された。 このあたりの変遷は聖俗が入り混じった時代感を醸し出している。

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慈眼寺坂の坂下には六郷用水(丸子川)が流れ、治太夫橋が架かっている。 六郷用水は代官小泉次太夫が徳川家康の命により建設し、現在の世田谷区、大田区、狛江市の灌漑のための用水路。 完成は慶長16年(1611)で、後に有名な玉川上水が玉川兄弟により完成(1653)する先駆けとなった。

この橋の治太夫と次太夫堀の小泉次太夫の関係を調べてみた。 やはり大山道という重要な街道に次太夫の名前をということで附けられたようで、「治太夫は次太夫が正名」とある。小泉次太夫は人心をコントロールする能力の高い代官だったらしく、徳川の命で駆り出された村の男たちを十分に活躍させるために、10人に1人の女性を入れて組ませた。 そうすると生産性が大幅に向上したという。 いささか「盛られている」感じがあるが、アイデアとしては真っ当である。

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橋の前のクリーニング屋の角に道標がある。「右むかし筏みち、むかし大山みち」と彫られている。 筏道というのは、多摩川上流の青梅や五日市辺りで切り出した材木を、江戸時代は筏にして多摩川を下り六郷まで運んでいた。 この筏流しは現大田区の六郷で材木を引き渡すと、六郷用水沿いの道を歩いて奥多摩まで帰っていた。 六郷用水沿いにはあちこちに筏宿があり賑わっていたが、大正時代以降は鉄道の発達により筏流しは消えた。

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