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2018年4月30日 (月)

フランス坂(渋谷)

きわめて新しい道路である。 消防署とハローワークの間を上るほぼ直線の坂(途中で少しだけ曲がっている)。 東京オリンピック前後に区画整理されたときに作られた道路である。 それ以前から消防署と職業安定所は今の場所にあった。 この道は細い道で、この辺りは北谷町と呼ばれていた。

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坂下の消防署の駅寄りにあった東京電力の電力館の辺りが渋谷区役所だった。 東京オリンピックの翌年(1965)に今のNHK前に移転したが、その区役所も現在建て替え中である。 奇しくもここに私の本籍がある。 山口県生まれなのだが、30数年前に結婚した時にここを本籍とした。

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渋谷区のHPによると、この道はイエローストリートとも、バスティーユ通りとも呼ばれるが、由来は分からないとある。 昭和という新しい時代なのに由来が分からないというのは、調べて切れていないという気がする。 私が渋谷をうろついていた時期は1970年代後半から1990年代半ばまでだが、坂下の道をファイヤー通りと呼んでいたものの、この坂にそんな名前はなかった。 何かシャレオツな小説か何かでそういう呼ばれ方をしたのが広まったとか、黄色い建物が一時期あったとか、そういう類ではないかと想像している。 江戸っ子も現代の烏合の衆も坂名というのは単純につけるのが常だからである。

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2018年4月29日 (日)

金王坂(渋谷)

通称青山通り、国道246号線が六本木通りと分岐して、青山に向かって上る広い坂道が金王坂。 古い道ではあるが、坂名は本来なかった。 東京都内で昭和の中期に町名変更が進むにつれて、古い地名が消えていった時代、宮益坂の北側は美竹町、南側が金王町と呼ばれていた。

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金王町の町会の人々が、渋谷金王丸に因むこの地名を何とか残そうと、この新しい国道の坂道に「金王坂」という名前を付けたのが、昭和54年(1979)のことだった。 その4年前の昭和50年に坂の脇に32階建ての東邦生命ビルが竣工した。 渋谷地区では初めての高層ビルだった。 現在は東邦生命が無くなり、渋谷クロスタワーという名称になったが、当時は渋谷のランドマークのような建物だった。

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坂上に黒御影石の墓石のような金王坂の石柱が立っている。

「明治、大正、昭和と波瀾万丈の過程を経て市区改正、町名変更に伴い、先輩諸氏の築かれた幾多の功績をたたえ、由緒ある金王の地名を保存し、ここに [金王坂] と命名する。」 とある。

この区間の青山通りと六本木通りが開通したのは、オリンピック前の昭和30年代に入ったころ。 ちょうどこの時期に東急文化会館(なんとル・コルビュジェの設計)が建てられた。今の渋谷と同じような大変遷の時期だった。 それから60年後の現在、この街はまた造り直しをしている真っ最中である。

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2018年4月28日 (土)

宮益坂(渋谷)

渋谷では道玄坂の次にメジャーな坂。 山手線から青山方面に上る坂で、古くからの街道でもある。鎌倉時代は鎌倉街道の主要道である中道は、代官山から並木橋、八幡坂を経て青山学院大学、表参道北青山のまい泉の通りから勢揃坂を経て鳩森八幡へというのが主要道だったが、江戸時代になってからは大山街道が主要道に変わっていった。

大山街道は三軒茶屋から池尻大橋、道玄坂を経て渋谷川に架かる富士見橋を渡り宮益坂(江戸時代は富士見坂と呼んだ)を通って江戸城へ向かった道である。

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坂上のガソリンスタンド辺りから建物の低かった昔は富士が見えたそうだが、もちろん今は見える由もない。 坂の途中に標柱がある。

「かって、富士見坂とも呼ばれたこの坂一帯は、古くから矢倉沢往還(大山道中)として江戸の町と郊外農村との接続点であったので、ささやかな商人町を形成していました。 ここが渋谷宮益町と称されていたので、宮益坂と呼ばれるようになりました。」

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東京は日本で最も変化の激しい都市、その中でも渋谷は群を抜いて変化しつつある街である。 現在東急東横店は半分取り壊され、渋谷川の流路の付け替えが終わり、ここから何本かの超高層ビルが建ち始める。 長年親しんできた東急東横線も地面の下に消え、宮益坂下は超高速早送りのように毎日変貌している。私の渋谷はプラネタリウムのドームのある文化会館と場末感満載の道玄坂、路地に入ると妙にハイカラな店があったりして、ここから新たな文化が生まれる予感、そういう昭和の渋谷である。

小説家田山花袋(明治4年~昭和5年)の記述が興味深い。

「宮益の坂を下りると、あたりが何処となく田舎々々して来て、藁葺の家があったり、小川があったり、橋があったり、水車がそこにめぐっていたりした。 私はそこを歩くと、故郷にでも帰っていったような気がして、何となく母親や祖父母のいる田舎の藁葺が思い出された。」

明治までは田んぼの中に小川が流れていた渋谷の街だが、どんなに開発が進んでも銀座線は上層階から発着し、井の頭線はトンネルを抜けないと下北沢には行くことが出来ない。 超高層ビルに上って文明を喜んでいる人間は、高い樹木に上って安心している猿に似ている。

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2018年4月27日 (金)

勢揃坂(青山)

渋谷には「谷」が付き、千駄ヶ谷には「谷」、青山には「山」が付く。 しかし山が所以ではなく、江戸時代初期にこの地に郡上八幡藩主の青山氏の下屋敷があったためというのが定説。 現在の墓地が屋敷の場所。 勢揃坂周辺は青山と言っても神宮前の北の方になるので、渋谷川が近く江戸以前は田んぼだった。

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この坂を歩いていて違和感を感じたのは、並行する渋谷川が南に向かって流下しているのに、この坂は南に向かって上っていくことだった。 ただ地図を見ると渋谷川は勢揃坂の北端辺りから流れを南西に変えて、隠田(今の裏原宿)に流れている。 勢揃坂は川から離れていく形になるので、上りになるのだった。

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江戸時代も下期になると、この辺りまで大名屋敷、武家屋敷が広がってくる。 渋谷川から見ると高台なので武家屋敷になったのだろう。  現在は青山高校、國學院高校、移転した日本青年館がある場所は大名屋敷と百人組屋敷だった。 百人組は江戸城の警備を受け持つ鉄砲隊で、青山には甲賀の者が多かったようだ。

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坂上に近い国外院高校と公園の間あたりに説明板がある。

ここのゆるい勾配の坂を 勢揃坂 といい、渋谷区内に残っている 古道のひとつです。後三年の役 -- 永保三(1083)年に八幡太郎義家が奥州征伐にむかうとき、ここで軍勢をそろえて出陣して行ったといわれ、この名が残されております。
 このとき従軍した武士のなかに 板東八平氏(平氏の一族)のひとり川崎重家(渋谷の領主)がおり,手柄をたてたという伝説があります。真偽についてはもちろんわかりませんが,区内に伝わる 源氏に関する伝説のひとつとして注目されます。

徳川の時代よりもさらに遡る坂名の由来であった。 別名を源氏坂という。 この道は鎌倉時代の古道で、中世の頃は京の都から来ると、宮益坂を経てここを通過し、麹町、赤坂、霞が関を経て隅田川橋場の渡しへと繋がっていたという。 ただ諸説あり、この道から北上して、豊島区北区を抜け岩渕の渡しで隅田川を越えるルート説もある。

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2018年4月26日 (木)

榎坂(千駄ヶ谷)

観音寺坂の途中から南に入る道がある。 すぐに古刹の瑞円寺の入口があり、緩やかな石組みの階段になっていていい雰囲気を出している。 瑞円寺は当初鳩森八幡の別当寺だった。 静かな寺である。 この門前から下る道が榎坂と呼ばれる。

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坂名の由来は、この坂の途中(上の写真の石塀の辺り)に榎の巨樹があったためである。 戦前まではあった。 この辺りは戦火に遭い、ほぼ焼失してしまったので戦後は坂名だけが残った。 この榎は「お万榎」とよばれた。というのも幹が二股に分かれ、その付け根が空洞になっていたことから、性的な信仰を集め、樹下には榎稲荷が祀られ、江戸時代は内藤新宿辺り(今の新宿御苑前)の遊女や女将がたくさんお参りに訪れたという。

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坂下の通りに標柱が立っている。

「榎坂」とは、ここから右手に瑞円寺の門前へ向かって登る細い坂道のことです。 かって、榎の巨木があったことから「榎坂」と名づけられたといわれており、現在は鳩森八幡へ向かうこの道の右手に商売繁盛、縁結び、金縁、子授かりや子供の病気平癒などの信仰を集める榎稲荷があります。

と書かれている。今の榎稲荷は少しだけ八幡寄りに移築され残っている。

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2018年4月25日 (水)

観音坂(渋谷区千駄ヶ谷)

千駄ヶ谷駅の南にある東京体育館の敷地は明治維新以降徳川家の瀟洒な館だった。 その南側、鳩森八幡から東に向かって下る坂道は江戸時代からの古い道で観音坂と呼ばれた。 この坂の北側には今も聖輪寺がある。 南にある瑞円寺は鳩森八幡の別当、その隣にはお化けトンネルの上の墓所を持つ千寿院が、江戸時代から変わることなく現在も存続している。

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この観音坂を下ると工事中の国立競技場にぶつかる手前の観音橋で昔は渋谷川を渡っていた。 現在も交差点名に「観音橋」とある。 川の辺りにも立法寺などいくつか寺院があったが、明治時代に青山練兵場となってしまった。 現在の国立競技場、神宮球場、神宮外苑などはその練兵場の跡地である。

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坂下に標柱が立っている。

「坂名は、真言宗観谷山聖輪寺の本尊であった如意輪観音像に由来します。観音は当寺の開山とされる行基の作と伝えられていましたが、残念ながら戦災によって焼失してしまいました。江戸名所図会によると、身の丈は三尺五寸で、両眼は金で作られていたといいます。」

と書かれている。

この聖輪寺の如意輪観音は開山の僧行基によって彫られたと伝えられる。 行基は奈良時代の著名な僧。 後の江戸時代になる少し前頃、この本尊の丁目が精金(印子:いんず=中国の明から輸入された純金の舟形)であるという話を聞いた盗賊が、忍び込んでこれを削り取ろうとしたところ、神罰が下り、自らの刀で貫かれて死んだ。 これを見て感心した人がお堂を再興して、それ以来地域の人々は目玉観音と呼んだという。

(追記) 2018/12/29

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2018年4月24日 (火)

八幡坂(鳩森)

原宿と千駄ヶ谷の間に鳩森八幡神社がある。 富士塚で有名。 千駄ヶ谷一帯の総鎮守として、昔から親しまれてきた。 創建は貞観2年(860)、平安時代前期である。 千駄ヶ谷の富士塚は管制7年(1789)の築造。 昔のままの姿を残している東京都内では最古の富士塚。

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年々説明板やおまけのPRが増えてきて俗っぽくなってきたのが残念。 ただ都内の富士塚の中ではやはり横綱級で、ビルの上に上るよりもここから望む方が満足度が高いから不思議である。 

渋谷区には八幡坂が二つ、一つは金王八幡宮の東側、青山学院大学から並木橋に下る坂道。 もうひとつがこの鳩森八幡の脇の八幡坂である。

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神社の入口の北西側の道路が八幡坂。 傾斜もさほどではないし、まっすぐで普通の坂道である。 江戸期にはなかった道で、明治期以降に開かれた。 江戸時代が終わっても徳川家は特別の扱いを受けており、この少し北側にある現在の東京体育館の敷地すべてが徳川邸だった。 また神社の南側にも明治時代から戦前まで徳川邸があり関係があるのではないかと調べたがわからなかった。

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坂下から望むとここが上り坂だということがよくわかる。  ここは東側には新宿御苑西の天龍寺を源頭とする渋谷川が流れ、文化服装学院の西側を源頭とするその支流が代々木を経て神宮前で渋谷川に合流していた、その二つの流れの間の台地である。

瑞円寺はその尾根筋だが、尾根の先っぽはビクタースタジオの裏手のあの何故ここにあるかわからないトンネルの南にある。 仙寿院というお寺の墓所になっているので、ビクタースタジオは都市伝説に事欠かない。 その辺りはどんなに都会化しても、土地の記憶がきちんと残っている例であろう。

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2018年4月23日 (月)

いなり坂(恵比寿)

2015年にJR東日本管内で連続放火事件があった。 その中でJR山手線恵比寿駅の放火はここのケーブルだけで、山手線、埼京線、湘南新宿ラインをすべて止めてしまうという事態になった。 この線路わきケーブルは線路わきの道路近くにあり、設置場所にリスク認識がなかったと言わざるを得ない。 翌月自称ミュージシャンという怪しい男が逮捕され事件は決着した。

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その事件場所はこのいなり坂の坂上から線路脇に入ったところ。 いなり坂は恵比寿駅の西口脇から線路沿いに高度を上げていく。 貨物駅時代の恵比寿駅はこの坂の中腹あたりにあった。 西口はなく、東口のみだった。 こちらは台地の上に上るための古くからの道なのである。

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線路沿いに山手線のホームを見下ろしながら上っていくのだが、線路との間には網塀とガードレールがある。 この二重構造は線路に車が転落しないようにするためだろう。 しかし古いガードレールで裏側は錆びている。 事故防止目的ならそろそろ交換した方がいいかもしれない。

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坂上に近づくとビルの隙間にお稲荷さんがある。 これがいなり坂の由来である。 この稲荷は意外と古いもののようだ。 明治の地図にはここに鳥居マークが既にある。 稲荷は福徳稲荷という。 最近パワースポットブームで人気が出てきたようで、残念ながら入口にロープが張ってある。 神社というのはそういうものではないのだが、どうもズレてきているように思う。

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江戸時代はこの辺りを稲荷山と呼んだという。 当時からこの稲荷を信仰する人は多く、明治時代に貨物駅だった恵比寿駅を乗客も乗降りする駅に変える工事中に、絵馬を割って焚火をしたり、小便を掛けたりすると祟りがあったという。 もっとも昨今のパワースポット情報そのものが、くだらないものばかりで辟易しているが、こういう街の稲荷は大切にそして親しみ深くしなければならないと思う。

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2018年4月22日 (日)

和田坂(恵比寿)

殆ど資料のない路地の坂道である。 渋谷区の情報によると、この坂に住んでいた人の名前から和田坂と呼ばれるとあるが、和田氏の名前が分からない。 もっとも人名が坂の名になることはしばしば起こる。 新宿区の渡邊坂、大田区の清浦さんの坂、文京区の服部坂など、意外に多い。

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恵比寿駅からのバス通りと外苑西通りの交差点(恵比寿三丁目)は大通りの十字路だが、それぞれの角に45度の角度で出合う路地があり、8つの道が集まっている。 そのうちの北西にあるのが和田坂。 昔は豊澤町と言われいた区画なので、路地の奥にはキリスト教の豊沢教会がある。

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路地を入ったところの看板が昭和っぽくていい。 宮下質店の「新客歓迎最高評価」というのは郷愁をそそる。 電話番号が7桁なのもいい。 この坂を上ってまっすぐ行った先には、伊達坂のところで出てきた散歩犬の獣医があった。 古い道と新しい道がしのぎを削り、徐々に駆逐されていく様子が分かる路地が多い。 昭和になってバス通りが通されるまではこの道が主要道だった。

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バス通りの南側は昔の伊達前地区。 8差路の交差点に伊達前から下ってくる古い道が素晴らしい無名坂。ゆるゆるとカーブを描きながら下っていく姿には、人間が坂道を作った時の自然のままの姿が残っている。

こういう道路の多くは不動産業界で言う「2項道路」で、現在の法律(建築基準法)では公道は4m以上でなければならないとされるが、それ以前からある道ならばセットバックすれば建物を建てられる。 2項道路は殺したくても殺せない「存在が必要な道」かつ昔からの姿をとどめている道として貴重な文化財だと私は思っている。 坂道好きにとっては2項道路は魅力満載なのである。

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2018年4月21日 (土)

伊達坂(恵比寿)

恵比寿駅東口のエリアは駒沢通り、渋谷川、高速目黒線に囲まれた地域を恵比寿1丁目~4丁目としているが、昔は1丁目が山下町および新橋、2丁目が豊澤町、3丁目が伊達町、4丁目が景丘町だった。 渋谷区と目黒区の区境がガーデンプレイスの真ん中あたりを東西に走っており、北半分が渋谷区恵比寿、南半分が目黒区三田となる。

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その区境の由来は江戸時代に遡り、渋谷区側は南豊島郡渋谷村、目黒区側は荏原郡三田村だったことに起因する。 この辺りは江戸の外れも外れ、郊外の農村だった。 渋谷川が削った谷と目黒川が削った谷の間の台地が恵比寿であり、伊達坂は渋谷川側の崖線を上る坂道になる。

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坂は路地奥にひっそりとあるので探すのはなかなか大変だろう。 とはいえこの坂の坂下に知人の家があるので、私はこの辺りの地形は割と知っている方である。  影丘町と伊達町は崖線の町なのである。 坂の入口からしばらく行くと急に勾配が増す。

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途中クランクになっている辺りに擁壁上に築かれた橋の古い手すりが残っている。 昭和の中期にタイムスリップしたような街角の風景である。坂は70mほどで勾配は11%だが、途中の急な部分は20%近くある。 再開発の話が昔から聞かれているので、そのうち消滅してしまう可能性もある。

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坂名の由来は伊達町だが、伊達町の町名の由来は、この坂上にあった伊予宇和島藩伊達家の下屋敷(享保3年:1718年~)がもとになっている。 それ以前は長州毛利家の屋敷だったが毛利の名は残っていない。 明治中期になり、坂上一帯を伊達跡、伊達前と呼ばれたのが昭和になって伊達町となった。

なお恵比寿駅から延びるバス通りのバス停に「恵比寿二丁目(伊達坂上)」とあるが、これは間違いである。 広い意味では昔の伊達町の標高の高いエリアにあるので言えなくもないが、バス停の場所は厳密には坂下である。

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2018年4月20日 (金)

ビール坂(恵比寿)

恵比寿はビールの街だった。 現在の恵比寿ガーデンプレイスの敷地全体が明治以降日本麦酒(株)の工場。 主なブランドが恵比寿麦酒。 明治34年に恵比寿駅が開業するが、駅名は恵比寿ビール工場から恵比寿となった。それまで周辺には恵比寿という地名はなく、渋谷川より内側は広尾という地名だった。

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恵比寿駅はもともとビール工場のための貨物駅であったが、当初は駅とは反対側の出入り口から物流をおこなっていた。 工場門の北側に隣接するのは加計塚小学校。 その東側にまっすぐな道と、左に分岐する坂があるが、まっすぐな道は関東大震災後に開かれた車道。 それ以前は左の細いほうの坂道が坂下の渋谷川方面へのメインルートだった。 しかし地元ではどちらもビール坂と呼んでいた。

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現在の坂道は緩やかにカーブしながら下っていくが、これは度重なる修復を経ての結果で、昔はもっと急な坂だったといわれる。 工場で製造したビールは荷馬車でこの坂を下って出荷された。 その時代(明治)から地元ではこの坂をビール坂として親しんだ。

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現在はビルが立ち並ぶが、恵比寿が大きく変化したのはビール工場が閉鎖(1988年)し、恵比寿ガーデンプレイスが開業してからである。 ビール坂周辺は町家の立ち並ぶ通りだった。 周辺は景丘町と呼ばれ、名前の通り渋谷川周辺の山下町、新橋町から見ると丘の上だった。 山手線は恵比寿から目黒の間、切通しで通過している。 ビール工場は丘の上にあったわけだ。そのために貨物駅はビール工場脇に作ることが出来ず、現在の恵比寿駅の場所になった。
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家内と義父は加計塚小学校の出身で、実家は山下町にあったので、この辺りは庭の様な認識である。 景丘町は犬の散歩で歩き回ったが、坂の多い街だった。 散歩の終わりはビール坂を下ってくるルートが定番だった。 ビール工場辺りにはうず高くビール箱が積み上げられていた。

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恵比寿駅東口に短い坂があり、石畳が残っている。 これはビール坂から運ばれてきたビールを満載した荷馬車が上りやすいようにと敷かれた石畳である。 昭和後期から徐々にアスファルトで補修されてきて徐々に石畳が消えつつあるのは極めて残念。 この坂もまたビール坂と呼ぶに値する坂なので石畳も含めて残したい文化遺産である。

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2018年4月19日 (木)

ネギ山坂(恵比寿)

恵比寿駅の北側、明治通りからさらに路地を入ったところにある坂道。 昔この辺りにネギ畑があったことに由来するという。 坂の脇にあるのが法雲寺、坂上にあるのが東北寺。 法雲寺は山門をくぐるといきなり階段になる。 ここが渋谷川の河岸段丘であるためである。

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坂の上下でおよそ8mの高低差がある。 しかし坂上の東北寺の墓地は向こう側に向かって斜面になっている。 坂上が尾根になっている。 これは北東側にかつて渋谷川の支流イモリ川が流れており、それが刻んだ谷のせいである。 イモリ川は現在の青山学院大学構内を源頭に、常盤松から東京女学館前を流れて、臨川小学校下で渋谷川に注いだ。 東京女学館脇にはイモリ川階段という不思議な入口があり、そこから暗渠が下流に向かって続いている。

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江戸時代の切絵図を見ると東北寺はそのままの地だが、法雲寺の場所は祥雲寺となっている。 法雲寺は明治になってからここに移転してきたとあるので、現在広尾にある広い境内を持つ祥雲寺の別当だったのだろうか。

山手線、明治通りの近くにありながら、静かな路地を上ると江戸時代からの寺院墓所がある。 東京という場所が世俗をシャッフルしてまとめているような気がした。

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2018年4月18日 (水)

南郭坂(渋谷区東)

明治通りの東三丁目交差点から広尾高校へ上る坂道が南郭坂である。 南郭というのは人の名前、江戸時代中期の儒学者で、荻生徂徠の門下の服部南郭。 彼の別邸がここにあったのでこの坂道を南郭坂と呼ぶようになったという。 長い坂道なので傾斜はそれほど強く感じないが、広尾高校と明治通りの高低差は18mもある。

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この坂は江戸時代からある古い道で、広尾高校周辺には大阪府和泉辺りを治めていた備中伯太(はかた)藩藩主の渡辺氏の下屋敷があった。 その坂下に南郭の別宅があったことになるが、おそらく時代は南郭の方が先であろう。 江戸時代の大名屋敷は結構頻繁に変わっているので難しい。

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この南郭坂は別名を富士見坂という。 広尾周辺には富士見坂と呼ばれる坂が複数ある。南西の方向に下る坂の多くは富士見坂となり得たのは高い建物がなかったからで、現在の都心では富士見坂は絶滅した。

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坂上から坂下を望むと右手に水色の塀と服部南郭別邸跡の説明板がある。 この中に南郭坂と呼んだという記述がある。 南郭はもっぱら学問と風流を友としたが、温厚な人柄を慕う人も多く、ここにはいろいろな人が訪れていたという。

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この台地の高低差を知るには、南郭坂から渋谷寄りにある氷川神社を訪ねるといい。 國學院大學への上り坂や南郭坂では感じられない崖線を参道で味わうことが出来る。氷川神社は、古くは氷川大明神と呼ばれ、渋谷村・豊澤村の総鎮守であった。創建は不明(社伝には紀元1世紀日本武尊が勧請したとある)。

江戸名所図会に描かれた渋谷氷川神社には手前に水を湛えて流れる渋谷川、その向こうに奉納相撲の土俵と参道、階段を上ると社殿という風に描かれている。現在の社殿とは90度向きが違うのは何故だかわからない。 現在の社殿の向きは南南東向きで、江戸時代の社殿は渋谷川向きである。参道は渋谷川向きなので、最後に建て替えられて向きが変わったと推測される。

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2018年4月17日 (火)

八幡坂(渋谷)

昔、渋谷駅近くに城があったというのは知る人ぞ知る話。 渋谷駅の東口首都高速脇の渋谷警察署の裏手に金王八幡宮がある。 この八幡神社の場所が渋谷城の跡である。 平安時代末期から地方豪族の渋谷氏がこの辺りを統治、このちょっとした高台に平城を構えていた。 南側は渋谷川が堀の役割を、また東側はその支流の沢がやはり堀代わりになっていた。 城は1524年に北条氏に滅ぼされるまで存在した。

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実は初期のブラタモリでも渋谷城は取り上げていた。 写真のように現在でも境内は3mほど盛り上がった上にある。 神社の宝物館にこの渋谷城のジオラマが置いてあった。 金王八幡宮の由緒によると創建は1092年とされ、渋谷氏の氏神として場内に祀られたのが始まりとなっている。当初は渋谷八幡宮としていたが、渋谷家の金王丸が活躍したのちから金王八幡宮となった。

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境内にある説明板には、東に鎌倉街道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があったとある。また当時は辺りにいくつもの湧水があって、居城には条件の良い場所だったようだ。 鎌倉街道というのは現在の青山学院大学南側から代官山へと伸びた道がそれにあたる。

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八幡坂は台地から渋谷川へと下っていく坂道である。 江戸時代はこの辺りまでが大名屋敷のエリアで、なぜか切絵図では渋谷川に橋は架かっていない。 昔の渋谷川はかなり水量の豊かな川だったようだが、土壌が赤土なのであまりきれいな水ではなかっただろう。 また周辺人口も増えて、渋谷城があった時代にいくつもあった湧水がその後どうなったかは分からない。

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現在の道では並木橋で渋谷川を渡す。 明治通りを越えると上り坂が始まる。 六本木通りの北側の青学の辺りの標高が35mなのに対して、渋谷川付近は13mと20m以上の高低差がある。 これをほぼ直線で上っていく。 青山学院大学の敷地は江戸時代の広島県西条藩の上屋敷。 その手前の実践女子大学の辺りは、江戸末期にはNHK大河ドラマ『西郷どん』で話題の島津斉彬の下屋敷になっていた。安政の大地震で上屋敷が倒壊した島津家はここに篤姫も共に避難してきたという。

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2018年4月16日 (月)

原の坂(中町)

上野毛通りは多摩川沿いから環八を横切り等々力六丁目で目黒通りにぶつかる都道。 国分寺崖線を上野毛の稲荷坂で急登し、環八を過ぎると谷沢川へ緩やかに下っていく。 谷沢川を宮前橋で越えると、今度は玉川警察署交差点に向かって原の坂を上っていく。坂上は駒沢から等々力までの尾根筋を通る江戸道と呼ばれた古道。そして上野毛通りも二子道と呼ばれた古道である。

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中町付近は昔は野良田と呼ばれた地域で、清流の谷沢川の周りに田畑が広がるのどかな里だった。 野良田というのは、もともと草の生い茂った野原を開いて田んぼを作ったことに由来する地名である。坂下の谷沢川の宮前橋下流には姫の滝という数メートルの滝があった。 昭和13年の水害で滝は崩壊し現在は堰堤になっている。

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また橋と坂の間には天祖神社がある。創立は不明。 もとは神明宮と呼ばれ、明治になってから天祖神社となった。境内には弁財天もあり、谷沢川とは深い関係の村社だったことが分かる。 神社は小高い丘にあることが多いが、この天祖神社は川から遠くない平地にあるのはいかにも野良田の鎮守という気がする。

原の坂の名前の由来はこの辺りを「原」と呼んだことに因むという説がある。 旧地名では坂上を東原・麦原久保、坂の南側を南原と言っていた。 原という地名は記録にはなかったが、それら旧地名を総称して坂名が付いたのかもしれない。

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この辺りは現在でもまだ畑の残るところがあり、昔の風景を偲ばせる。 いったん丘の上まで原の坂で上った道は、尾根筋の江戸道を越えると再び下り坂になり、深沢方面から流下してきた呑川に向かう。 古道なので切通しになっておらず、土地の起伏をそのまま上下するので歩いても楽しい道である。

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2018年4月15日 (日)

満願寺坂(等々力)

満願寺坂は目黒通りの等々力跨線橋から駒沢公園通りとの交差点までの坂道。 坂下は東急大井町線等々力駅、坂上は玉川神社前になる。 等々力の地名の由来は、深沢城址の別名「兎々呂城」という説が有力だが、等々力渓谷の不動の滝の轟く音に由来するなどいくつかの諸説がある。 1551年に北条氏の配下の吉良氏の家臣南条右京亮が深沢城を築いたが、北条氏が豊臣に滅ぼされてからは南条氏はこの地に土着して開発をした。

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坂の途中に満願寺がある。 吉良家によって1470年に創建された古い寺で、もとは深沢坂にあったが、火事によって焼失し1564年頃この地に移転してきた。 その北側に隣接するのは玉川神社で、1501~4年頃やはり吉良氏によって熊野神社として創建された。 その後いくつかの神社を合祀して、明治末期に玉川神社となった。

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この満願寺辺りにはかつて4カ所の湧水があり、ここから等々力駅近くの谷沢川(等々力渓谷)に逆川という小さな流れがあった。 渓谷に架かるゴルフ橋前のポストのところに暗渠として残っている。 ここはもともと用賀から九品仏川として東に流れ呑川に注いでいたのだが、地学的には等々力渓谷の元の小さな沢が谷頭侵食して河川争奪し流れを変えた珍しい例である。

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等々力の本来の地形は、北の方が台地で樹林や畑、中程は底なし田んぼと言われるコメは作れるが軟弱な土壌、そして満願寺坂から下の地域は崖線の森というものであった。 多摩川の国分寺崖線の坂ではないので傾斜は緩やかだが、この傾斜も呑川が長い時間をかけて形成したものである。

 

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2018年4月14日 (土)

深沢坂(深沢)

駒沢公園通りは駒沢通りとの交差点「深沢不動」の南で二つの道に分岐する。 左の広いほうが昭和に入って開通した駒沢公園通り、右側が古道「江戸道」で、大山街道(国道246号線)から分かれた裏街道。 この江戸道は深沢から等々力を抜け、多摩川を渡して川崎の中原へとつながる道で、江戸へ行く道ということで江戸道と呼ばれていたようである。

深沢の地名の由来は呑川の沢が深い事から来ている。 呑川は8ヶ所の湧水を持つ沢を集めて大森の海岸に注ぐ東京の小河川だが、呑川の川名の由来は飲料に出来るほど水がきれいということで付いた。 深沢坂の傍にも8つの沢のひとつの源頭がある。 深沢神社の隣の三島公園にある弁天様の池がその一つ。

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三島は古い字名で、公園にかつての地名が残っていることは意外に多い。この弁天の池の湧水はすぐに呑川本流に注ぎ、沢というほどの沢ではないが、深沢坂はこの池の傍の深沢橋から等々力方面に上っていく。 古くはこの近くに満願寺があって満願寺坂と呼んでいたとか、またお茶屋があったことから、お茶屋坂と呼んだと伝えられる。 満願寺は1560年頃に等々力に移転した。

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深沢坂下のバス停は新道にあるが、元々の坂下は呑川の深沢橋である。一方深沢坂上のバス停は間違いなくこの坂の上にあり、近くに深沢坂上公園もある。 坂上近くに都立園芸高校があるが、ここは北条氏の家臣の深沢城(兎々呂城)があったところ。 兎々呂城の名前がのちに等々力の地名となったという説もある。

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2018年4月13日 (金)

馬場坂(北沢)

茶沢通り(通称)は三軒茶屋から下北沢を経て東北沢に至る通り名である。小田急が地上を走っていた時代には下北沢のすずなり劇場近くの踏切でいつも渋滞していた。 もっとも古道は北沢タウンホールのあるバス通りではなく、一本線路側のあずま通り商店街の筋。

現在の茶沢通りはかつて流れていた森厳寺川沿いに戦後通された道路で、ザ・スズナリの先からは折れ曲がって北上する。 間もなく傘履物村田屋と地蔵堂に突き当りクランクになるが、この地蔵堂の庚申塔は1677年と1692年のもの。 その先再び北に向かうと道は東に折れ曲がり、森厳寺川の暗渠を横切る。

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この暗渠を過ぎたところから馬場坂の上りになる。 坂の高低差は8mほどで現在はそれほどの坂には見えないが、昔は農家の人々が作物を荷車に載せて上るのに相当苦労したと伝えられる。坂の北側、井の頭通りの大山交差点近くに北沢小学校がある。 ここは江戸時代、馬場だったところで、それが馬場坂の由来であろう。

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坂の途中の辻に長命地蔵尊のお堂がある。 この付近の茶沢通り筋には200mおきに地蔵堂があって、古道であることを現在に残してくれている。ただこの長命地蔵尊は昔からの野地蔵を地元の人々が大正5年にここに祀ったもので、それ以前の場所は不明である。この地蔵の辻を北に入った辺りに、水車があったという。 川のない場所だが、坂上の丁字路になっているところには三田用水が流れていた。 佐伯医院がまだ角にあるが、そこが三田用水を渡る御馬橋で、その近くから坂下の森厳寺川へ水を流しており、その途中に水車があったようだ。

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坂上の通りは井の頭通りの大山交差点から山手通りの東大裏に抜ける道で、この道はかつての三田用水である。三田用水は笹塚で玉川上水から取水し、渋谷、目黒、五反田、大崎あたりまでを潤していた。 江戸時代は農業用水主体だったが、明治以降は工業用水としても使われ、エビスビールもこの用水の恩恵を受けた企業だった。

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2018年4月12日 (木)

テコテン坂(野沢)

野沢と下馬の町境の道にあるのがテコテン坂。 坂名の由来は、月夜に狸が出没してテコテンと踊ったという言い伝えによる。 地元の資料によると、手鼓天坂と書いた。 この辺りは田昭和の初期まで昼間でも暗い樹林で、野沢稲荷神社から三軒茶屋方面への農道の様な道だった。

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野沢児童館の脇で二つに分かれる道があるが、道なりの方がテコテン坂である。 テコテン坂よりも東側は土地が低くなっていて、昔は蛇崩川に注ぐ小さな沢筋だった。 その源頭に野沢八幡神社があり、その下流にあたる土地が現在の鶴が久保公園。 この鶴が久保という地名は徳川吉宗(第8代将軍)がこの地に狩りに来て、傷ついた鶴を追ってくると、湧水地で鶴が傷を癒していたという逸話から来ているという。

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坂の途中には三猿の庚申塔がある。 いずれ道路拡張で移転を余儀なくされるようだが、まだ残っている。寛文10年(1670)の古い庚申塔である。 路傍にこういう歴史が残っていると無性にうれしくなる。 多少場所の移動はあっただろうが、この石が地域の人々に350年も守り通されているのである。

東京の南西部には鎌倉街道と呼ばれる道が多数あるが、この道もそのひとつという説がある。確かにこの道も明治以前からの古道である。

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坂下から望むと緩やかな傾斜、そのまま日大キャンパス先の蛇崩川暗渠までわずかづつ標高を下げている。 その蛇崩川の少し下流には駒繋神社があり、そのさらに下流脇の道路の真ん中には不思議な塚「葦毛塚」がある。

鎌倉時代の始まりの頃、源頼朝が奥州平泉の藤原氏征伐に向かう道すがらこの蛇崩川に差し掛かったところ、突然頼朝の乗っていた馬が暴れだし、沢の深みに落ちてしまった。頼朝達は馬を救おうとしたが馬はまもなく死んでしまった。 その馬を葬ったのが下馬の道路の真ん中に鎮座し車を左右に避けさせる葦毛塚である。

頼朝は「以後この沢(蛇崩川)は馬を引いて渡るべし」としたので、馬引沢村の地名が生まれ、それが江戸時代に上馬引沢村、下馬引沢村に分かれ、その名残が上馬、下馬という地名になった。 また駒繋神社は明治時代からの神社名でそれ以前は子の神と呼ばれていたが、ここの松に頼朝の葦毛の馬を繋いだという言い伝えから駒繋神社と呼ばれるようになった。

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2018年4月11日 (水)

小坂(上馬)

三軒茶屋から国道246号線を下っていくと、間もなく左斜めに旧道が分岐する。 500mほど進むと再び現在の国道246号(玉川通り)に合流するが、街灯には旧街道らしく「大山街道」のシールが貼ってある。 途中には古い商家の建物も残っているが、古風な建物がバイク屋さんだったりする。

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緩やかな坂だが、かつての大山街道が茶屋下橋で蛇崩川を渡っていたところから上馬方面への上り坂になっている。 この旧道が分かれている区間だけは玉電は単独軌道だった。 明治時代は三軒茶屋を過ぎるとすぐに田園地帯が広がっていたが、明治に玉電が通ってからはこの旧道沿いにも何軒か商家が見られるようになった。

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小坂の上りが始まると家が増えて、現在の上馬交差点の辺りが上馬の本村で民家がたくさんあった。 現在の環七の筋には品川用水が流れていた。 用水は尾根筋に通されるので、ここが一番高く、蛇崩川が一番低い。 蛇崩川は水量の少ない川だったが、一旦大雨に降られるとたちまち氾濫する川だった。 蛇崩という名前はまさにそういう川の性格を表している。 特に大山街道の付近(中里地区)には池が出来、上流から大きな木材が流されてきて溜まったという。 周辺の人はそれを片っ端から引き揚げて燃料の足しにしたというから、昔の人はたくましい。

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坂上に近いハイム清光園の前に地蔵尊がある。 正保2年(1645)に立てられた地蔵がある。 妙にいろんなものがくっついているので、いささか怪しげな雰囲気を醸し出しているが、地蔵尊だけは400年近く前のものである。 反政府ビラのようなものがいつも掲示されている。 先日は「安倍おろし…」という見出しの日刊ゲンダイが貼り付けてあった。 地蔵にだけは敬意を表したい。

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2018年4月10日 (火)

富士見坂(駒場)

目黒区駒場の西側は世田谷区代沢1丁目。 この代沢1丁目と2丁目の境界はかつての沢筋である。淡島交番脇から井の頭線までの路地は暗渠の道で、この暗渠は北沢川の支流の痕跡。 この辺りも明治時代までは農村で、この支流にも山女魚伝説がある。

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上の地形図の池ノ上支流(仮)は北沢川に注ぎ、その池ノ上支流から東に上る坂が駒場の富士見坂である。 かつて出合には大きく南北に伸びた池があり、その池の上流が池ノ上、池の南が池尻となったと伝えられている。(西側の下北沢支流は古老の話では森厳寺川と呼ばれていたらしい)

この辺りは江戸時代は下北沢村という地域で、江戸時代後期でも北沢八幡宮と森厳寺周辺に数十戸の民家ののどかな農村地帯だった。沢は湧水が流れて削られたもので、低地には田んぼが広がっていた。この北側駒場東大前は将軍の御鷹場で駒場野と呼ばれ、台地の上には森と野原が広がっており、沢筋に田んぼというのが当時の実際の風景なのである。

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坂下の横断歩道辺りがかつての支流の筋。 池がなくなってからは2本の流れがあったようだ。 横断歩道の手前の路地が暗渠だが、横断歩道の向こう側にも細い暗渠筋が残っている。 土地の記憶は残るもので、この2本の沢筋は北の方に延びていて、井の頭線を越えて東北沢の松蔭高校まで残っている。

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そういう地形なのでこの辺りには坂が多い。 しかし名前の付いた坂は極めて少ない。 作家の坂口安吾が下北沢(代沢小学校)で代用教員をしていた大正時代のことを書いている。学校の前に学用品やパン・飴を売る店が1軒ある外は四方はただ広汒かぎりもない田園で…というのが安吾の大正時代の記述で、200年前と100年前はほとんど変わっていない。 もし彼が今のこの地域を見たら腰を抜かすだろう。

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2018年4月 9日 (月)

宮の坂(宮坂)

宮坂(みやのさか)は東急世田谷線の駅である。 坂名がそのまま駅になった例としては東京都内には例を見ない。 志村坂上が近いが、坂名のままではない。 宮の坂の宮とは駅の傍にある世田谷八幡宮である。 昔は宇佐八幡という名の神社だったが、いくつかの神社を合祀するうちに世田谷八幡宮となった。 大分県の宇佐八幡宮は全国の4万柱の八幡の総本社で、世田谷八幡宮となるといささかローカル感がある。 元の宇佐八幡の方が個人的には良かった。

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関東の神社の歴史にしばしば登場する源義家が勧請したのが寛治元年(1087)なのでもうすぐ1,000年の歴史を有する。 境内には相撲場(観客席付きの土俵)があり、昔は「江戸三相撲」のひとつに数えられたほど大掛かりなものだった。 その歴史もあってか境内には力石が9つも並んでいる。

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神社の東側に沿って緩やかに上る坂が宮の坂。 誰ともなく普通にそう呼ばれるようになったという。 この坂道は半田坂から南に続く大山街道で、道は上町を経て大山道へと繋がっていた。

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昔はもっと急な坂だったらしいが、東急世田谷線沿いということもあり、かなり改修されて緩やかになった。 境内の中の傾斜が本来の土地の高低差だと思われる。 神社の北側を東西に滝坂道が走っている。 大山街道と滝坂道の交差点、かつボロ市に近い郷社ということで、古くから賑わってきた神社の脇の坂は道幅もいびつで古道の雰囲気を濃く残している。

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2018年4月 8日 (日)

半田坂(松原)

凧坂とは馬頭観音で左右に分岐する。 その角度は30度もなく、それぞれの道が甲州街道にぶつかっても300mほどしか離れていない。 それでもこの半田坂も凧坂も重要な古道だった。 凧坂がすぐに高度を上げるのに対して、半田坂はゆっくりと上っていく。

半田坂は地元ではえんま坂と呼ばれていた。 江戸時代には半田坂の坂下馬頭観音から少し北の東側に約90坪の敷地に複数のお堂(十王堂、十三堂)があり、そこにえんま様が祀られていたことに由来している。戦前までえんま坂とも呼んでいたようなので、江戸から昭和までの変化はゆっくりだったのだろう。

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凧坂の「菅原天神通り」に対して半田坂から甲州街道までは「松山大山通り」と呼ばれていた。  甲州街道を西進してきた旅人が、現在の明治大学の辺りで角にある「大山石尊」と書かれた道標を見て、この道に入り大山道(現在の国道246号線)に向かった。 そのルートならば少しでも短いこちらの道が開けたのは理解できる。

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半田坂が凧坂と分岐したすぐ北側を、両坂を貫くように東西に通っているのが羽根木通りという古道。 東進すると井の頭線の東松原駅前を通り環七を横切って井の頭通りに至る、こちらも古道。 都内の古道の多くは明治初期の地図のままの道筋なので、当時の地図を見ながら歩くのは面白い。 僅かに曲がったりくねったりしている道はほぼ古道である。

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半田坂の坂名の由来は半田塚に因る。 なぜか半田塚は凧坂にある。 半田塚については諸説あり、不明な点も多いという。 1,300年~1,400年前にここに塚があってのちに祠が建てられていたといい、墳墓とされている。 土地の人は「大塚さま」と呼んでいる。 祠に祀られているのは、後の鎌倉時代に新田一族が川越城を攻め落としたときに、多摩川原での戦いに敗れ傷ついた残党たちでここで息絶えたという。

坂名のある坂はしばしば古道にあり、そして古道には古い歴史が積み重ねられていることを感じる半田坂、凧坂である。

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2018年4月 7日 (土)

凧坂(松原)

甲州街道から現在の豪徳寺を経て代官屋敷のあった上町への南北の古道にある坂道。 凧坂の南で半田坂が若干東寄りに分岐している。 凧坂が甲州街道に出合うのは首都高速永福料金所の辺り。 一方の半田坂は明治大学近く、凧坂よりも300mほど東で甲州街道に出合う。

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上の写真の左側が凧坂、右側が半田坂である。 凧坂の方が傾斜はきつい。 坂名の由来は「たこう坂」の当て字で、傾斜が急な坂の意味があるという。 二又の頂点に小さな馬頭観音がある。馬頭観音は本来人を救う観音様なのだが、いつしか馬を救う観音様にされてしまった。 こういう分岐点に見かける民間信仰の形である。

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ただ江戸時代の絵図にはこの馬頭観音の場所に「死馬捨場」と書かれている。 なんだか哀れな気持ちになる。 伝承では、ここの馬頭観音は人の足となっていた大切な馬が死んだときにその霊を祀る供養塔と伝わっている。

坂下を南に進むと北沢川の暗渠を渡るところがある。 そこには大正時代まで水車があった。 そのあたりの旧地名を前田というが、現在は豪徳寺1丁目である。 つまり凧坂、半田坂は北沢川の削った谷の坂である。

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現在は何の変哲もない住宅街になっている。 そのまま甲州街道方面へ北上すると、京王線を横切る手前に菅原神社がある。「松原の菅原神社」と呼ばれ、江戸時代に石井兵助という人が寺子屋を開き、学問の神様である菅原道真公を祀ったのが始まりらしい。 天満宮を名乗らないのが奥ゆかしい。 学業祈願の絵馬札がこじんまりとぶら下がっている。 寛文5年(1665)の創建というが、最初は松原の天満宮と呼ばれていたようだ。 朱塗りのきれいな社殿で、地元の人々の思い入れが感じられる。 凧坂から甲州街道までのこの通りは地元では「菅原天神通り」と呼ばれた。

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2018年4月 6日 (金)

だんご坂(千歳台)

環八通りの環八千歳台交差点から西に向かう都道のガスタンク手前までがだんご坂である。 現在は坂というよりも、わずかな高低差というくらいしかない。 高低差は地形図データでは4mあるが、実際には2mくらいしか下がっていないように感じられる。

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長い間ここはなかなか開通しない計画都道のひとつという認識だった。 しかし調べてみると、この道は江戸時代からある道だった。 環八の交差点に北東の明治大グラウンドから斜めに入ってくる道がある。 環八ができる以前はそれがこの坂に繋がっていてどちらも滝坂道の一部だったのである。
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ガスタンクを挟んで北側に斜めに走る道は、かつての烏山川の本流筋で現在は暗渠だが、その気配を見せない普通の道路になっている。 まっすぐにだんご坂を西に上って進むと、榎の交差点から安穏寺坂になる道筋である。

東京が急速に都市化された昭和30年代にこの辺りにはいくつもの団地や新しい道路(環八)ができ、昭和31年には廻沢に東京ガスの巨大なガスタンクが出現した。 都内では昔、西新宿のパークハイアットホテルの場所に巨大なガスタンクがあったが、ここは今でも5基の巨大タンクが残っている。 このタンクはガスホルダーと呼ばれ、昭和の高度成長期の象徴的な存在である。

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ガスタンクの北側に広がるのは蘆花公園(蘆花恒春園)。 徳富蘇峰(徳富蘆花)は明治40年(1907)に青山からこの地に引っ越してきた。 当時はここは千歳村粕谷という小さな農村だったが、蘆花は住民に慕われてその後もここで暮らした。 『みみずのたはこと』という彼の著書がこの辺りの当時の民俗を詳しく伝えている。 現在は徳富蘆花の旧居も公開され、武蔵野の面影を残す公園の中でゆったりとした時間を過ごすことが出来る。

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2018年4月 5日 (木)

地福寺坂(祖師谷)

祖師谷5丁目にある釣鐘池は古くからの湧水池。 かつては豊富な水量を誇っていたが、現在はわずかに池底から湧くのが確認できるレベルである。 池を中心に縄文時代から人が住着き、周辺には遺跡も多い。 戦後湧水が枯れ始め、昔の様な池ではなくなったが、今も仙川に注ぐ沢は一部開渠であとは暗渠化されているが沢筋は確実に残っている。

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釣鐘池の名前の由来は、日照り続きで農民が困ったとき、それを救おうと僧が寺の鐘を抱いて入水したところ、たちまち大雨が降った、というような言い伝えが複数諸説ある。 実際には単純に武蔵野ローム層の地層によるものである。

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釣鐘池の北側を西に上る坂がある。 これが地福寺坂。 2014年までは坂の北側に豊かな樹木に囲まれた成城学園哲士寮があったが、2014年に売却され切り売りされて戸建が並んでしまった。 この場所は、この坂の名前の由来にもなった地福寺があった土地。 成城学園はここを大正時代の初期から区分所有していたから地福寺は明治以前に廃寺になったのだろう。 それでも残された崖線の自然だったが残念である。

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この細い坂道は明治以前から、金兵衛坂下の鞍橋からこの地福寺坂を経て塚戸へと繋がる古い道。 しかし今でも住民にとっては重要な道なので、世田谷区と小田急が運行するコミュニティバスも走っている。

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2018年4月 4日 (水)

弔い坂(祖師谷)

世田谷の細道の坂である。 この坂に到達するのは地元民でないと難しいかもしれない。 ちょっと見は住宅地の中の路地にすぎないが、この弔い坂は相当古い道であると同時に、祖師谷と上祖師谷の町境でもある。 坂の東側が祖師谷、西側が上祖師谷。 元禄8年(1695)の検地で祖師谷は上と下に分割された。 その境の道である。
P1040721路地を入り数十m北上するとカーブしながら上っていく弔い坂が見えてくる。 弔い坂というのは、江戸時代、まだ土葬の頃、死者を載せた輿を、組合の若い衆が担いで、安穏寺に運んだ道だったために呼ばれるようになった坂名である。 昔は弔い道というのが決まっていて、菩提寺までの葬送行進の道筋がどの村にも定めとして存在したらしい。 世田谷の各地でそれぞれの地区の弔いの道の言い伝えを聞く。 P1040725 この道を歩くと、この坂以外は古い道という感じがしない。 時代の流れというのは、地形以外の表面物を見事に消し去ってしまう。 しかしここに弔い坂があるだけで、昔の葬式の葬送行進がイメージされてくる。 まさに土地の記憶である。
弔い坂の東側にもう一つ古い道がある。 変形の丁字路に住宅地には不似合いな空き地があり、庚申塔の社とその向こうに広がる空き地に鳥居と小さな社がある。「ここは神明社の境内」と立て札にあるが、実はこの土地には長い歴史がある。
P1040731 祖師谷が分割された元禄時代、上祖師谷の村社は仙川宮下橋脇の神明社、祖師谷の村社は祖師谷商店街近くの神明社となったが、明治までこの空き地に熊野神社と稲荷森稲荷社があった。 稲荷神社は明治7年に氏子の申請で熊野神社に合祀された。 しかし明治43年に行政が熊野神社を神明社に合祀したという。 されども庚申塔の社だけは残され現在に至っている。 実物は祠の中で読めないが、享保4年(1719)の三猿の庚申塔とされている。
 

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2018年4月 3日 (火)

金兵衛坂(成城)

成城大学の正門前を南北に走る道は江戸時代からの古道である。 途中交差する東西の道は東へ行くと大石橋で仙川を渡り、祖師谷へ繋がる。 大石橋の西側には薬師堂と観世音堂が残っている。観世音堂は承応3年(1654)の創建、薬師堂は享保11年(1726)に安穏寺の別当として創られたものを明治になってここに移してきたものである。 また大石橋の脇には明治時代には水車もあった。

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大石橋への道へ曲がらずにまっすぐに北上すると、やがて下り坂になる。 これが金兵衛坂である。 伝えられるところによると、金兵衛坂の坂名はその昔加々美家のおじいさんが坂下に隠居所を建てたので、その名をとって名づけられたという。

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現在の坂の勾配は緩やかだが、昔は数mの落差を下る坂だった。 坂下を進むと仙川に鞍橋が架かっている。 北側は祖師谷公園。  釣り鐘池から流下する沢は大石橋で仙川に注ぎ、釣り鐘池、鞍橋、大石橋の三地点が囲む地域は田んぼが広がっていた。 その風景は明治大正のものではなく、昭和の中頃までそんな景色が広がっていたという。

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2018年4月 2日 (月)

安穏寺坂(上祖師谷)

環八千歳台から西に延びる都道118号線は何年経っても完成しない計画道路のひとつ。 世田谷にはなぜか一部整備されて途切れている道路がいくつもあってなかなか完成開通しない。 うちの近所にも数十年完成しない道路がたくさんある。 戦後の日本の道路は「通る必要性」ではなく「作る必要性」でできたものが多い。 しかし古道はまったくそれに当てはまらない。 古道は必要から生まれたものだからである。
P1040768_2 安穏寺坂は古道である。 古くから武蔵野台地を削った仙川の谷に向かって下る街道で、仙川を越え、甲州街道に繋がる「滝坂道」とよばれる主要街道であった。坂下で仙川を渡すのが宮下橋、橋の西側に神明社があるので付いた橋名。この辺りは江戸時代に上祖師谷、祖師谷の二つの村に分離されたが、上祖師谷の村社がこの神明社、また祖師谷の村社も神明社である。 村の分離は1695年(元禄時代)なので、ひとつの神明社もふたつに分かれたのではないかと推測したくなる。
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坂の北側はずっと安穏寺の墓所で、その石垣が続いている。安穏寺は江戸前期の開山。 神明社とほぼ同じ時代。 滝坂道に沿って人々が住み始めて村が形成されて寺社が造られていったのだろう。 前述の都道の工事は安穏寺の裏手から宮下橋東の駒沢大学グランドまでは進んでおり、道幅の狭い安穏寺坂で運転が得意でない人々が往生して詰まってしまう交通問題は近々改善されそうだ。
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安穏寺坂下には馬頭観音があって、滝坂道らしい風景を見せてくれる。ここには庚申塔やその他諸尊がいくつかあり、何となくホッとする空間である。 滝坂道の西の終点は、野川の支流入間川の上流の谷にある甲州街道の滝坂、東の終点は渋谷の道玄坂。 西の終点の滝坂をとって滝坂道と言われるが、都心と府中をつなぐ府中道のひとつとも言われている。
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上祖師谷村は江戸時代に入ってから住む人が増え始めたが、安穏寺坂の坂上の辻である「榎」の交差点は江戸時代からの東西南北の交通の分岐点であった。南北の道は六郷田無道で、これは大田区の臼田坂に繋がっていた道である。 エノキはよく街道の目印に植えられていたので、江戸時代にはここにも榎があったのだろう。 現在は榎はない。

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2018年4月 1日 (日)

ビール坂(ハケの坂)

成城四丁目坂の辻から北西に下る桜並木の道がビール坂である。 世田谷区側ではビール坂と呼んでいるが、この道を境界にしている調布市ではハケの坂としている。 世田谷区側は一般財団法人のせたがやトラストまちづくりが中心に管理しており、調布市側は市が直接管理しているが、国分寺崖線上の環境保全については調布市も世田谷区に負けず劣らず頑張っていると思う。
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ビール坂の由来は坂下の一帯をサッポロビールが所有していた成城グリーンプラザというスポーツ施設があったことに由来するようだ。 ゴルフ練習場だったころは、世田谷でも最も広い練習場として人気だったが、その前のビール工場については記憶がない。ビアレストラン併設のゴルフ練習場は2000年に閉鎖された。
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調布市側の呼び名のハケの坂は文字通り国分寺崖線の坂という意味である。 ハケというのは武蔵国のことばで崖を意味する。 桜並木の様子を見るために今年の桜の季節に合わせて再訪した。 崖線の坂は、ランニングする人、犬の散歩をするひと、ただ散歩をする人など、オフタイムを満喫している人が多いように思えた。 ただ崖線を上下できる坂は車の交通量も多いので注意が必要だ。
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世田谷区と調布市の境界線があるのだが、当然道には何も書いていない。しかし上の写真の右側崖側のフェンスに「世田谷区/調布市緑地管理境界」という板が貼ってあった。 また左の斜面側に建っている木柱には「雑木林のみち・調布若葉町コース」とあり、右の掛下の緑地には「世田谷区立ビール坂緑地」の看板が立っている。 民も官も境界線はなんとなくギクシャク感があることが多いようだ。
 

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