テコテン坂(野沢)
野沢と下馬の町境の道にあるのがテコテン坂。 坂名の由来は、月夜に狸が出没してテコテンと踊ったという言い伝えによる。 地元の資料によると、手鼓天坂と書いた。 この辺りは田昭和の初期まで昼間でも暗い樹林で、野沢稲荷神社から三軒茶屋方面への農道の様な道だった。
野沢児童館の脇で二つに分かれる道があるが、道なりの方がテコテン坂である。 テコテン坂よりも東側は土地が低くなっていて、昔は蛇崩川に注ぐ小さな沢筋だった。 その源頭に野沢八幡神社があり、その下流にあたる土地が現在の鶴が久保公園。 この鶴が久保という地名は徳川吉宗(第8代将軍)がこの地に狩りに来て、傷ついた鶴を追ってくると、湧水地で鶴が傷を癒していたという逸話から来ているという。
坂の途中には三猿の庚申塔がある。 いずれ道路拡張で移転を余儀なくされるようだが、まだ残っている。寛文10年(1670)の古い庚申塔である。 路傍にこういう歴史が残っていると無性にうれしくなる。 多少場所の移動はあっただろうが、この石が地域の人々に350年も守り通されているのである。
東京の南西部には鎌倉街道と呼ばれる道が多数あるが、この道もそのひとつという説がある。確かにこの道も明治以前からの古道である。
坂下から望むと緩やかな傾斜、そのまま日大キャンパス先の蛇崩川暗渠までわずかづつ標高を下げている。 その蛇崩川の少し下流には駒繋神社があり、そのさらに下流脇の道路の真ん中には不思議な塚「葦毛塚」がある。
鎌倉時代の始まりの頃、源頼朝が奥州平泉の藤原氏征伐に向かう道すがらこの蛇崩川に差し掛かったところ、突然頼朝の乗っていた馬が暴れだし、沢の深みに落ちてしまった。頼朝達は馬を救おうとしたが馬はまもなく死んでしまった。 その馬を葬ったのが下馬の道路の真ん中に鎮座し車を左右に避けさせる葦毛塚である。
頼朝は「以後この沢(蛇崩川)は馬を引いて渡るべし」としたので、馬引沢村の地名が生まれ、それが江戸時代に上馬引沢村、下馬引沢村に分かれ、その名残が上馬、下馬という地名になった。 また駒繋神社は明治時代からの神社名でそれ以前は子の神と呼ばれていたが、ここの松に頼朝の葦毛の馬を繋いだという言い伝えから駒繋神社と呼ばれるようになった。
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