ビール坂(恵比寿)
恵比寿はビールの街だった。 現在の恵比寿ガーデンプレイスの敷地全体が明治以降日本麦酒(株)の工場。 主なブランドが恵比寿麦酒。 明治34年に恵比寿駅が開業するが、駅名は恵比寿ビール工場から恵比寿となった。それまで周辺には恵比寿という地名はなく、渋谷川より内側は広尾という地名だった。
恵比寿駅はもともとビール工場のための貨物駅であったが、当初は駅とは反対側の出入り口から物流をおこなっていた。 工場門の北側に隣接するのは加計塚小学校。 その東側にまっすぐな道と、左に分岐する坂があるが、まっすぐな道は関東大震災後に開かれた車道。 それ以前は左の細いほうの坂道が坂下の渋谷川方面へのメインルートだった。 しかし地元ではどちらもビール坂と呼んでいた。
現在の坂道は緩やかにカーブしながら下っていくが、これは度重なる修復を経ての結果で、昔はもっと急な坂だったといわれる。 工場で製造したビールは荷馬車でこの坂を下って出荷された。 その時代(明治)から地元ではこの坂をビール坂として親しんだ。
現在はビルが立ち並ぶが、恵比寿が大きく変化したのはビール工場が閉鎖(1988年)し、恵比寿ガーデンプレイスが開業してからである。 ビール坂周辺は町家の立ち並ぶ通りだった。 周辺は景丘町と呼ばれ、名前の通り渋谷川周辺の山下町、新橋町から見ると丘の上だった。 山手線は恵比寿から目黒の間、切通しで通過している。 ビール工場は丘の上にあったわけだ。そのために貨物駅はビール工場脇に作ることが出来ず、現在の恵比寿駅の場所になった。
家内と義父は加計塚小学校の出身で、実家は山下町にあったので、この辺りは庭の様な認識である。 景丘町は犬の散歩で歩き回ったが、坂の多い街だった。 散歩の終わりはビール坂を下ってくるルートが定番だった。 ビール工場辺りにはうず高くビール箱が積み上げられていた。
恵比寿駅東口に短い坂があり、石畳が残っている。 これはビール坂から運ばれてきたビールを満載した荷馬車が上りやすいようにと敷かれた石畳である。 昭和後期から徐々にアスファルトで補修されてきて徐々に石畳が消えつつあるのは極めて残念。 この坂もまたビール坂と呼ぶに値する坂なので石畳も含めて残したい文化遺産である。
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