八幡坂(渋谷)
昔、渋谷駅近くに城があったというのは知る人ぞ知る話。 渋谷駅の東口首都高速脇の渋谷警察署の裏手に金王八幡宮がある。 この八幡神社の場所が渋谷城の跡である。 平安時代末期から地方豪族の渋谷氏がこの辺りを統治、このちょっとした高台に平城を構えていた。 南側は渋谷川が堀の役割を、また東側はその支流の沢がやはり堀代わりになっていた。 城は1524年に北条氏に滅ぼされるまで存在した。
実は初期のブラタモリでも渋谷城は取り上げていた。 写真のように現在でも境内は3mほど盛り上がった上にある。 神社の宝物館にこの渋谷城のジオラマが置いてあった。 金王八幡宮の由緒によると創建は1092年とされ、渋谷氏の氏神として場内に祀られたのが始まりとなっている。当初は渋谷八幡宮としていたが、渋谷家の金王丸が活躍したのちから金王八幡宮となった。
境内にある説明板には、東に鎌倉街道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があったとある。また当時は辺りにいくつもの湧水があって、居城には条件の良い場所だったようだ。 鎌倉街道というのは現在の青山学院大学南側から代官山へと伸びた道がそれにあたる。
八幡坂は台地から渋谷川へと下っていく坂道である。 江戸時代はこの辺りまでが大名屋敷のエリアで、なぜか切絵図では渋谷川に橋は架かっていない。 昔の渋谷川はかなり水量の豊かな川だったようだが、土壌が赤土なのであまりきれいな水ではなかっただろう。 また周辺人口も増えて、渋谷城があった時代にいくつもあった湧水がその後どうなったかは分からない。
現在の道では並木橋で渋谷川を渡す。 明治通りを越えると上り坂が始まる。 六本木通りの北側の青学の辺りの標高が35mなのに対して、渋谷川付近は13mと20m以上の高低差がある。 これをほぼ直線で上っていく。 青山学院大学の敷地は江戸時代の広島県西条藩の上屋敷。 その手前の実践女子大学の辺りは、江戸末期にはNHK大河ドラマ『西郷どん』で話題の島津斉彬の下屋敷になっていた。安政の大地震で上屋敷が倒壊した島津家はここに篤姫も共に避難してきたという。
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