勢揃坂(青山)
渋谷には「谷」が付き、千駄ヶ谷には「谷」、青山には「山」が付く。 しかし山が所以ではなく、江戸時代初期にこの地に郡上八幡藩主の青山氏の下屋敷があったためというのが定説。 現在の墓地が屋敷の場所。 勢揃坂周辺は青山と言っても神宮前の北の方になるので、渋谷川が近く江戸以前は田んぼだった。
この坂を歩いていて違和感を感じたのは、並行する渋谷川が南に向かって流下しているのに、この坂は南に向かって上っていくことだった。 ただ地図を見ると渋谷川は勢揃坂の北端辺りから流れを南西に変えて、隠田(今の裏原宿)に流れている。 勢揃坂は川から離れていく形になるので、上りになるのだった。
江戸時代も下期になると、この辺りまで大名屋敷、武家屋敷が広がってくる。 渋谷川から見ると高台なので武家屋敷になったのだろう。 現在は青山高校、國學院高校、移転した日本青年館がある場所は大名屋敷と百人組屋敷だった。 百人組は江戸城の警備を受け持つ鉄砲隊で、青山には甲賀の者が多かったようだ。
ここのゆるい勾配の坂を 勢揃坂 といい、渋谷区内に残っている 古道のひとつです。後三年の役 -- 永保三(1083)年に八幡太郎義家が奥州征伐にむかうとき、ここで軍勢をそろえて出陣して行ったといわれ、この名が残されております。
このとき従軍した武士のなかに 板東八平氏(平氏の一族)のひとり川崎重家(渋谷の領主)がおり,手柄をたてたという伝説があります。真偽についてはもちろんわかりませんが,区内に伝わる 源氏に関する伝説のひとつとして注目されます。
徳川の時代よりもさらに遡る坂名の由来であった。 別名を源氏坂という。 この道は鎌倉時代の古道で、中世の頃は京の都から来ると、宮益坂を経てここを通過し、麹町、赤坂、霞が関を経て隅田川橋場の渡しへと繋がっていたという。 ただ諸説あり、この道から北上して、豊島区北区を抜け岩渕の渡しで隅田川を越えるルート説もある。
| 固定リンク | 0
コメント