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2018年4月 4日 (水)

弔い坂(祖師谷)

世田谷の細道の坂である。 この坂に到達するのは地元民でないと難しいかもしれない。 ちょっと見は住宅地の中の路地にすぎないが、この弔い坂は相当古い道であると同時に、祖師谷と上祖師谷の町境でもある。 坂の東側が祖師谷、西側が上祖師谷。 元禄8年(1695)の検地で祖師谷は上と下に分割された。 その境の道である。
P1040721路地を入り数十m北上するとカーブしながら上っていく弔い坂が見えてくる。 弔い坂というのは、江戸時代、まだ土葬の頃、死者を載せた輿を、組合の若い衆が担いで、安穏寺に運んだ道だったために呼ばれるようになった坂名である。 昔は弔い道というのが決まっていて、菩提寺までの葬送行進の道筋がどの村にも定めとして存在したらしい。 世田谷の各地でそれぞれの地区の弔いの道の言い伝えを聞く。 P1040725 この道を歩くと、この坂以外は古い道という感じがしない。 時代の流れというのは、地形以外の表面物を見事に消し去ってしまう。 しかしここに弔い坂があるだけで、昔の葬式の葬送行進がイメージされてくる。 まさに土地の記憶である。
弔い坂の東側にもう一つ古い道がある。 変形の丁字路に住宅地には不似合いな空き地があり、庚申塔の社とその向こうに広がる空き地に鳥居と小さな社がある。「ここは神明社の境内」と立て札にあるが、実はこの土地には長い歴史がある。
P1040731 祖師谷が分割された元禄時代、上祖師谷の村社は仙川宮下橋脇の神明社、祖師谷の村社は祖師谷商店街近くの神明社となったが、明治までこの空き地に熊野神社と稲荷森稲荷社があった。 稲荷神社は明治7年に氏子の申請で熊野神社に合祀された。 しかし明治43年に行政が熊野神社を神明社に合祀したという。 されども庚申塔の社だけは残され現在に至っている。 実物は祠の中で読めないが、享保4年(1719)の三猿の庚申塔とされている。
 

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