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2018年5月31日 (木)

ゆうれい坂(東中野)

東中野駅は駅に沿って脇の道が下り坂。 線路面を1階とすると西口は2階が出口になる。 ところが東口はほぼ線路面になる。 しかし東口を利用する人は階段を使って地下1階から上ってくる。 ホームの東端の先はがーとになっていて道路が下をくぐっているのだ。 東西の高低差は15m近くある。

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その地形を作ったのは神田川。 しかし不思議なのは幽霊坂の頂点から北側の東中野5丁目にあたる地域がまるで山のように高いのである。 幽霊坂の道は少し低い西側からいったん坂を上り、丘を越えて神田川側に下ってくる。 下の写真は、反対側の入口である。そしてこの坂に並ぶ路地は押しなべて名坂である。じっくりと全部回ってみたいものだ。

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こういう形の坂はよく鍋割坂と呼ばれる。 しかしここはゆうれい坂。 どうもその名が付いた理由が分からない。 飯田橋の庾嶺坂(別名幽霊坂)の場合は、梅の花がきれいな場所を中国(唐)の故事に習って「ユレイ」と呼んだのが由来だった。その他の多くの幽霊坂は武家屋敷周りで樹木が生い茂って暗い場所であることが多い。

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ここの場合は飯田橋の庾嶺坂と同じだと思いたい。 中野は梅園を代表するように梅の花見の名所だった。 ここは少し離れているとはいえ、神田川脇の丘の上、遠くまで見渡せる丘だったので、昔の人が梅を植えて楽しんだ可能性は高い。 そう推定して、資料を探してみた。

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明治の地図を見ると、この坂から北側が華州園という広い庭になっている。 この台地の名前は小滝台といい、江戸時代は農村、大正時代は相撲界の力士の屋敷街だったという。そして華州園というのは今も一部に存在している。明治から大正にかけてここは四季折々の各種花々が咲き、東京市中に出荷される花園だったのである。 ここのゆうれい坂の由来は、おそらくは庾嶺坂と同じものであろう。

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2018年5月30日 (水)

十貫坂(中野富士見町)

青梅街道の丸の内線新中野駅の近くに鍋屋横丁という交差点がある。 都電が荻久保まで走っていた時代、鍋屋横丁という停車場があった。大正から昭和にかけて、中野銀座と言われ、青梅街道筋では最も賑やかな場所だった。

しかし鍋屋横丁の歴史はさらに古く、江戸時代に遡る。『東海道中膝栗毛』を書いた十返舎一九が鍋屋横丁のことを書き残している。 江戸時代末期にここに鍋屋という茶屋があった。鍋屋はたいそうな豪商で、広大な梅園も持っており、花見の客で賑わったという。 明治の初期までは花見というと梅が主体で、桜は後になって、特に戦後復興と桜が結びついて爆発的にソメイヨシノが広がったという経過がある。 江戸時代から明治にかけての花見の多くは、実は梅なのである。

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その鍋屋横丁を下り、中野通りを横切ると十貫坂のプレートを貼った街灯がある。 「これより十貫坂 - 十貫坂の由来:付近から十貫文の入った壺が出てきたという説と、中野長者が坂の上から見渡す限りの土地を十貫文で買ったためと記録にあります。」と書かれている。 磯田道史氏原作の映画『殿、利息でござる!』のレートを使うと、十貫文というのは町民の通貨レートで、武士の通貨レートにすると2両となり、現在に換算ずると60万円程度となる。 60万円で見渡す限りの土地が買えるなら、自分も買うぞと言いたくなる。

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坂は緩やかに下っていく。 両側に中層のマンションが迫るが、この道は江戸時代から続く古道である。 微妙なカーブがそれを示している。 もう一つの説、古銭十貫文というと重さで37.5㎏。 しかし10円玉や100円玉で37.5㎏というと大したことはない。 100円玉は4.8gなので、78万円。 中野長者の十貫文と大差ない。

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十貫坂は坂下まで緩やかなカーブの坂道になっている。この坂の傾斜を形成したのは神田川だけではなく、その支流の沢もかかわっている。 昔はこの周辺は湧水も多かったのだろうか、昭和前期以前の地図にはたくさんの池が描かれている。沢の源頭は堀之内の環七沿いにある真盛寺の池のようだ。 この沢は古くに消えた沢だが、暗渠が意外に明確に残っている。

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坂下近くには十貫坂地蔵堂がある。 ここには6基の石塔が保存されている。概ね1692年~1717年の元禄から享保にかけてのものである。周辺にあったものをまとめたと考えられるが、こういうものが大切に保存されている町はいい街である。かつ体の不自由な方にもお参りしやすいようにバリアフリーのスロープになっているところはかなり珍しい。

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2018年5月29日 (火)

レンガ坂(中野)

レンガ坂を坂道シリーズに入れるかどうかいささか悩んだ。 しかし、こういう坂があってもいいという広いフトコロで道を見るべきかもしれないという点から、あえて含めた。 いつからこの路地がレンガ坂になったのかはわからない。 2010年以前から煉瓦道にはなっていた。 レンガの歩道に「レンガさか」という埋め込みがあった。

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2013年頃に入口のモニュメントが新たに設置され、RENGA ZAKAと表示された。 渋谷ののんべえ横町や新宿の思い出横丁(小便横丁)、吉祥寺のハーモニカ横町を目指しているのだろうか。 個人的には昔の地名「桃園」の方が魅力的に感じるので、桃園坂でも良いような気がする。

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通りは結構賑わっていて商店会もある。中野レンガ坂商店会という。三菱UFJ銀行とドラッグストアの間を入っていく。 いずれにせよ、この辺りは江戸時代はお犬様のいぬやしきが広がっていた場所である。ここを通り、「五の囲」のいぬやしきに入る。

5代将軍綱吉は、それまでの将軍が中野近辺で鷹狩りを好んで行ってきたのに対し、この一帯を「お囲い(巨大な犬小屋)」にしてからは鷹狩りをやめたという。 それを暴れん坊将軍?吉宗が復活させたというのもまた面白い。 その吉宗がここを気に入り、桃を植えさせて桃園になったというのが地名の由来である。

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2018年5月28日 (月)

水車坂(中野)

水車坂は鳥見坂から150mほど西側にある、やはり青梅街道から桃園川に下る坂道である。 大正時代以前は、お鳥見通り(鳥見坂)の裏道として使われていたようだ。 桃園川の当時の流れはもっと北側の大久保通り寄りで、鳥見坂下から桃園川の流れを分けて、この水車坂の下あたりに水車を設置していた。

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明治から大正にかけての地図を見ると、桃園川には意外と水車は少なく、神田川合流点から遡るとここが初めての水車になる。大正期の地図ではここが桃園川唯一の水車なので、水車坂を名乗る事にはまったく問題ない。 甲武鉄道と青梅街道に挟まれた地域なので、ほかの地域に比べて農家も少なかったのかもしれない。

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以前はこの坂の駐車場側に民家があり、大谷石の擁壁があって、その上の植込みに「水車坂」という手書きの金属板があったようだが、今は写真の通りコインパーキングになってしまっている。 坂上の東西の道は、青梅街道の裏道で、江戸時代の街道は間口税を取る関係上、敷地が何百mも裏に伸びているもので、ここも青梅街道から200m近く離れているが、多くの家の裏庭がここまであったはずである。

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2018年5月27日 (日)

鳥見坂(中野)

中野区中央5丁目の区立桃花小学校の前にある坂道。 以前は桃園第三小学校という校名だったが、2008年に桃丘小学校、仲町小学校を併合して桃花小学校となった。桃丘小は中野駅南口すぐ西側、仲町小は堀越学園近くだったので、児童はかなり遠くから通学しなければならなくなった。小学校の統廃合は行政の効率化の課題。 子供と老人が住みにくい街を作ってはいけないように思う。

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坂下には桃園川の暗渠と大久保通りが通っている。 大久保通りは中野駅の南側で桃園川の左岸から右岸へ大きく曲がっているが、大久保通りができた関東大震災後はまだ駅周辺にしか民家はなく、この辺は田んぼだったから、駅南側の民家を避けて、道を通しやすい農地に沿って曲がったのではないかと思われる。

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鳥見坂は学校の南側から西側へ回り込むようにカーブして下っていく。 校庭には大きなケヤキがある。樹齢600年と言われる通称「千年ケヤキ」で、学校のシンボルになっている。そのケヤキが見下ろす鳥見坂は江戸時代からあった古い道で、明治大正時代も甲州街道側から谷に下り中野駅に向かう道として使われていた。 この通りの古い呼び名が「お鳥見通り」で坂名はそこから来たものである。鳥見の意味は分からないが、将軍の鷹狩りと何か関係がありそうな名前である。

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坂下には桃園川の古い橋の欄干が残されている。 こういうのはとてもうれしいものだ。 親柱には「かう志んばし」と彫られているが、庚申橋だろう。 桃園川暗渠は橋の欄干や親柱が比較的多く残されている。一見無駄に思えるかもしれないが、土地の記憶というものは人々の心の支えにもなりうるので、ぜひ残してほしいものである。

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2018年5月26日 (土)

小笠原坂(中野坂上)

JR中野駅の南口で駅前を掃除している高校生がいた。 見ると堀越学園の生徒である。 堀越学園と言えば、芸能人の多い高校である。 名前を挙げればきりがない。アイドルだけでなく演歌歌手や俳優、スポーツ選手まで、とてつもない著名人を輩出している。 中野駅南口から彼らは歩いて20分くらいのところにある堀越学園高校に通っていた。

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その堀越学園は上野写真の左側の道を行くとある。 そして小笠原坂は右側の道。 緩やかな上り坂で、梅園川の慈眼堂橋から南へ伸びる。 現在は中央2丁目と中央3丁目の町境。 堀越学園の道も小笠原坂も江戸時代からある古い道である。

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坂上を東に進むと、宝仙寺に戻るが、その手前にぽつんと煉瓦塀が立っていた。 近づいてみると、説明板がある。 ヤママサ醤油製造所の煉瓦塀の遺構である。 1899年当時中野で初めての煉瓦建築だったとある。 昔の建築はとても頑丈にできている。 大震災にもびくともしない。 そもそもが現在の東海道線や京浜東北線、山手線も、明治時代に築かれた土台の上を走っているのである。

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2018年5月25日 (金)

犬坂(中野坂上)

中野坂上の北西、宝仙寺裏を北へクランクしながら下る坂道が犬坂。 宝仙寺と宝仙学園中学、高校の間を抜ける。 宝仙寺の竹垣が美しい。 クランクの仕方も窮屈でなく、退屈でなくちょうどいい。 坂を下った先には梅園川の暗渠がある。 犬坂の道が梅園川を渡るのが宝仙橋。
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宝仙寺の裏手はもと杉林で、ここを上る道は野良道だった。大正時代以前の地図には道は描かれておらず、宝仙寺の裏で西に折れた道はそのまままっすぐ金剛橋を渡る古くからの道に接続していた。 坂下はすぐに梅園川でその北側に田んぼが広がっていた。
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犬坂という坂名の由来は、一説には中野のお犬様の保護施設に因むというのがあるが、場所が違いすぎる。 中野区の調査によると、江戸時代に将軍が鷹狩りに出た際に、猟犬がが野犬に襲われることがあり、宝仙寺に勢子を置いて、野犬狩りをし、この坂下あたりに野良犬を拘束していたという。 そうであればうなずける。
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宝仙寺は大きな寺である。昔は山手通りの東側の飛地にあった三重塔が空襲で焼失してしまった。それとほぼ同じ大きさの三重塔が平成4年に再建された。 隣には、珍しい石臼塚がある。 神田川には昔から水車がいくつもあり、そば粉を挽くのに使われていた。 江戸っ子が蕎麦を大量に消費するようになって、玄蕎麦がここ中野に集まるようになり、中野から江戸中の蕎麦屋に供給された。
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その後機械化が進み、石臼は水車と共に見捨てられていった。それを見た僧侶が、ここに石臼の供養をはじめ、それが積み重なって石臼塚になった。 その僧侶が宝仙学園の創始者だと説明板には書かれていた。

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2018年5月24日 (木)

相生二番坂(中野坂上)

環状六号線山手通りが開通したのは戦後になってからだが、青梅街道と甲州街道の間だけは戦前に開通していた。 それ以前は神田川が南北の往来を制限していたのである。 大正時代以前に神田川流域から、青梅街道方面へ上る道のひとつがこの道で、かなり古い道である。
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もちろん現代の道路基準である幅員4mに満たない。 古い道というのは得てしてそういうもので、法律はつい最近できたばかりでこの道を否定することはできないのである。「4mに達しませんが、歴史に敬意を表して道路とお認めします」という感じである。
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坂の途中にある整備された公園は古い公園だったが、近年きれいになり、子供たちの声も響いている。 中野区では通称道路名を明記しているところがいくつもある。 相生一番坂通り、相生二番坂通りは昭和63年に設定された通称道路名である。 良いことだと思う。 道路や広場は人の集まるところであるから、名前があると人々のコミュニケーションにはとても役に立つ。

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2018年5月23日 (水)

相生一番坂(中野坂上)

中野坂上交差点の南東エリアは現在本町1丁目、旧町名は相生町だが、大正以前は青梅街道沿いを下町、南側の神田川に近い区域を本郷といった。 トヨタレンタカーの西側から分かれる道筋は昔、本郷通りと呼ばれる道だった。 本郷というのは本村と同じ意味合いの地名で、その地域で最初に家が集まり始めた場所につけられる地名である。

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現在は「本一通り」と命名されている昔の本郷通りからすぐ南に下る路地を行くと、間もなく神田川の低地へ下る坂道になり、彼方に西新宿熊野神社脇にある高層マンションが見える。 坂を下ると神田川と並行する道に出て坂は終わる。

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本郷というのは神田川の豊かな水を利用して人が農地を開拓し始めたころの名残りだが、大正時代以降の相生という町名の由来はよくわからなかった。 この地域の町会名は現在も相生本一町会という。

町会の歴史を辿ると、武蔵国豊玉郡本郷村が最初で、明治22年に本郷村が中野村に併合された後も、神田川は暴れ川で頻繁に流れを変えた。渡れる橋も淀橋と成願寺橋の二つしかなく不便をしていた。 関東大震災のあった大正12年の末にようやく新たな橋を架け、その橋名は対岸の町同士が仲良くやっていけるようにと「相生橋」と名付けられた。 それをとって相生町としたという。

その相生も本町1丁目となって久しく、わずかに坂名にその名を残しているのはあわれでもある。

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2018年5月22日 (火)

中野坂(中野坂上)

淀橋は西新宿の旧町名だが、その淀橋の地名の由来になったのは、青梅街道の神田川に架かる橋名、淀橋に由来する。 好まれない言い伝えの残る「姿見ずの橋」という名を、徳川家光が、ここの景色が淀川を思い出させるので淀橋にせよと命じたので、淀橋になった。 江戸名所図会にも描かれ、神田川に木橋がかかり、人々が往来する様子が見える。 また西側にもう一つの流れもあったことが描かれている。この脇流は昭和の中頃まで存在し、脇流の西側に都電の淀橋停車場があった。

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新宿から西進すると、成子坂を下って淀橋を渡り、そこから再び上っていくのが中野坂である。 江戸時代は淀橋より西は多摩郡で武蔵野の中に入る意味で中野という地名になった。 また当時中野へ行くというと、堀の内の妙法寺へ参ることをいい、帰途の土産に中野坂上で弁慶飴を買ったという。しかし中にはその先で内藤新宿の遊郭に引っ掛かり、つい遊び惚けてしまって弁慶飴が溶けてしまったみたいな逸話も残っていて面白い。

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中野坂上も近年西新宿の先の交通至便の地という理由で随分と開発が進み、高層ビルが立ち並ぶようになったが、まだ路地裏に回ると民家が多く古い道も残っている。 坂の北側にある中本一稲荷神社は神田川の河岸段丘の縁にあり、ビルに隠された地形を主張している。

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中野坂上から少し北に行ったところに中野区第十中学校がある。 この場所は昔、宝仙寺という寺があった場所で、三重塔が建っていた。 この三重塔の珍しいところは、地元の農民が施主となって建てたという点である。 当時貴族や有力武士でないと不可能だった三重塔を建てた農民というのはどんな人たちだったのか知りたいものだが、当の三重塔は残念ながら空襲で焼失してしまった。 現在の宝仙寺は西の方に移転し、学校も併設した大きな寺になっている。

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2018年5月21日 (月)

十号坂(笹塚)

京王線笹塚駅から北に進むと甲州街道を渡りその北側に並走する水道道路がある。都内には何本か水道道路があるが、都道角筈和泉町線もその一つ。 和泉給水所(甲州街道と井の頭通りの松原交差点にある大きな水道タンク)と淀橋浄水場(現在の西新宿高層ビルエリア)を結んでいた玉川上水の新水路の上に作られた道である。 尾根筋を走り、谷を越える時は盛土をして、谷がわの道はこの道の下をトンネルでくぐっている。

甲州街道を越えて少し西に寄り道をすると、笹塚の地名の由来が書いてある。どうも大昔の街道の一里塚らしい盛土があり笹が生い茂っていたので、この地を笹塚と呼ぶようになったとある。ここから一里というと新宿三丁目(追分あたり)になる。追分からの一里塚という意味であろうか。

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笹塚駅から北上し、水道道路を渡ると十号坂通り商店街という名前の商店街に入る。水道道路よりも笹塚駅側は「坂」のない十号通りである。 この水道道路沿いには、他に六号坂、七号通り公園、九号通り公園など、数字の入った地名がある。 これは角筈(西新宿)から1号、2号と水路に架かる橋に名前を付けていった名残りである。

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通りは昭和の商店街のイメージそのまま。 西新宿周辺にもこんな商店街はたくさんあったが、ずいぶん少なくなった。

坂下近くで交差する路地のひとつは暗渠道で、西へ辿っていくと橋の欄干の遺構があったりする。かつての神田川の支流、和泉川の暗渠。 ここは遺構が結構残っているので、暗渠探索にはもってこいの道である。

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2018年5月20日 (日)

日陰坂(代々木)

首都高速を走る人はこの坂の場所を4号線上り代々木PAの下と言えばほぼ場所が分かるだろう。  小田急参宮橋駅から首都高速沿いに東へ下り、明治神宮の北参道口にでるのが日陰坂である。 坂名に反して、現在は比較的明るく、かつ騒々しい道になっている。

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何年か前に首都高速下の明治神宮の擁壁が真っ白く塗られてしまってさらに明るくなった。 もとはただのコンクリートの壁だった。 できればもっと神宮らしい擁壁にしてもらいたいと思う。 神宮の森は井伊家の下屋敷跡の御料地であった。明治天皇崩御(1912)後に、荒れ地だったこの広大な土地に神宮の森を作るという壮大なプロジェクトが始まり、本多清六博士らが政府を説得しながら本物の森を作り上げたのは感動すべき実話である。 あの森は100年前は荒れ野原だったのだから。

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日陰坂は江戸時代の道筋とは少し変わっているが、カーブがいじられたくらいである。 江戸時代は坂下に高札場があった。この道は甲州街道に繋がる裏街道で、日陰坂という名も暗い裏道からきたのだろう。国立競技場の傍には幕府の火薬庫があり、それを運搬する荷車はこの坂道を通って甲州街道へと往復していた。坂の南側にある現在の明治神宮の広大な敷地を有した彦根藩井伊家の下屋敷にあったモミの巨木が有名だったので、その老樹から代々木という地名が生まれたという。

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また坂下の北参道と出合うところには、暗渠と川跡がある。 元から渋谷川支流の細い沢があったのを、玉川上水からの原宿村への分水として利用したもので、その護岸跡である。 また日陰坂のカーブの場所は、明治神宮の北池(宝物殿前)から流出した流れが、外の川に合流した場所でもある。 明治神宮が出来たことで、東京は緑の首都になったといっても過言ではない。 大正時代の先見の明のある学者方に感謝である。

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2018年5月19日 (土)

切通しの坂(代々木)

余談だが代々木は渋谷区である。 本来は新宿駅南口の甲州街道が新宿区と渋谷区の区境なのだが、最近できたNewomanは新宿区になっている。 線路の上の甲州街道南側は新しく人工地盤というものを構築して空中に土地を作り上げたので、そういう住所区割りになったようだ。 新宿区も渋谷区も固定資産税を確保したいので、裏ではバトルがあったのではないかと想像した。 ちなみに新宿御苑は北半分が新宿区で南半分が渋谷区である。

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代々木駅の西側、といってもほとんど小田急線の参宮橋駅に近い「春の小川」の河骨川源頭、そのやや南側にこの切通しの坂がある。 100mほど北には河骨川源頭のそばの刀剣博物館が2018年1月にリオープンした。 その河骨川が削った谷に下って上る代々木側が切通しの坂である。

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坂上の首都高脇の立正寺前に黒御影石の坂名の石塔がある。 また少し下ったところには区の立てた標柱に次のように書かれている。

「岸田劉正が描いた切通しの坂
 画家岸田劉正は、大正3年(1914)から 5年(1916)にかけて代々木に住んでいたので、このあたりを描写した作品がたくさんあります。そのうちの一点に、名作「切り通しの写生」(重要文化財)があり、大正4年(1915)に発表しました。」

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この坂より北側は公爵山内豊景(旧土佐藩)のお屋敷で、その庭には大きな池があり湧水が滾々と湧いていたという。それが河骨川になってこの切通しの坂の下から現在の小田急線沿いに流れていた。

岸田劉生が描いたようにこの坂は赤土の坂で、雨のあとや雪の日は多くの通行人が転倒しただろう。 当時の代々木公園は演習地でその北のはずれにあるこの辺りはつい100年前には赤土の荒れ野原だったことを想像するのに、岸田の絵はとても助けになった。

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2018年5月18日 (金)

初台坂(初台)

代々木八幡神社のやや北側、初台南の交差点で山手通りから分岐するのが初台坂。 ほぼ山手通りに並走して京王新線の初台駅に至る道である。 山手通りが建設、整備されたのは戦前から戦後にかけて、それまでは初台坂が南北の幹線だった。 その初台坂の坂下には昔、初台川という川が流れていた。 宇田川に注ぎ、渋谷川に至る川である。 現在もその欄干が残っている。

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初台坂下には細い人道路地があるがそこを入った先にこれがある。山手通りから見た時にこれは暗渠だと思い足を踏み入れてみたら図星だった。 この欄干は初台橋のもので、川は甲州街道南側の玉川上水のある本町1丁目あたりを源頭に流れている。 この川が谷を形成し、その東側の崖線にとりついたのが初台坂である。

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初台という地名の由来は、初台の局、徳川秀忠(二代将軍)に仕えた奥女中である。現在の西参道口(高速道路のカーブが交わる下)にある正春寺を起こしたのがこの初台で、墓所は境内にある。

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新道の開通により旧道が静かになった例は多いが、この坂もまたそんな坂である。 それでも明治時代までは低地は田んぼ、丘の上は雑木林という武蔵野の風景であった。明治時代の地図を見ると、この坂の周りには竹林も多い。 賑やかな甲州街道の裏手にある農村である。

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2018年5月17日 (木)

切通坂(代々木八幡)

代々木にも切通しの坂という坂があるが、こちらは代々木八幡宮の南側を切通しで抜ける坂道である。 代々木八幡の境内には縄文遺跡がある。「代々木八幡遺跡」というが、約4,500年前の住居跡が昭和25年に発掘され、境内に復元してある。 当時は縄文海進の時代で、現在の小田急線あたりは東京湾の波打ち際だった。 渋谷川流域の入江は一部汽水域もあり、食物が豊富で暮らしやすかっただろう。

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この切通しの坂は見事だが、江戸時代から切通しの道だった。 周りに数多道路があるが、明治初期以前はこの道が唯一八幡へのアプローチルートだった。当時はこの切通しの真ん中からまっすぐに社殿へ参道が上っていたようだ。 現在は山手通り側に付け替えてあるが、途中で参道が曲がっているのはなぜだろうと思っていた。 古地図を見て、やはり南側からまっすぐなアプローチだったことが分かった。

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渋谷区の資料では、古い時代からの切通しの道で、明治から昭和の初めまでは、郊外の農民が野菜を荷車に積んで、上澁谷や青山久保町にあった市場に出荷するためこの道を通ったという。 赤土でぬかるんで滑りやすい道だったので難渋したと伝えらえる。

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2018年5月16日 (水)

弥之助坂(代々木上原)

代々木上原と代々木八幡の間、宇田川の上原支流から台地に上る坂道。 1978年に千代田線の代々木公園駅から代々木上原駅間が開通し、この坂の150mほど東側で千代田線が地下に潜る、その手前の高架工事により、坂の道筋は大きく変えられてしまった。

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谷筋からはいきなり鉄道高架をくぐって左にカーブする。 元の道はまっすぐに谷筋へ下りきり、そこに踏切があった。 しかし高架になったことで、弥之助坂は線路手前で線路沿いに西へ40mほど迂回させられることになった。

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傾斜地の多い東京西側は高架と地下(切通し)が繰り返す鉄道路線が多い。 小田急も東急も実際には上り下りを繰返す。 京王線は玉川上水沿いを走るので高低差は少ない。 甲州街道といい、玉川上水といい、昔の人は地形をよく知っていたものである。 京王線笹塚・調布間が1913年、小田急線と東急東横線が1927年だから、やはり高低差の悩みのない京王線が早かったのは納得である。

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線路から離れるところからが本来の弥之助坂である。弥之助坂の坂名の由来は、渋谷区史にある。 享保年間(1716~1736)の富ヶ谷の住人、池上弥之助の所有地前にあったので弥之助坂と呼ばれた。

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大正時代までは坂下は田んぼが広がり、西隣の旭坂とこの弥之助坂のみが坂下から台地に上がる道であった。 現在も坂上からは新宿のビルが望める。 地元ではこの急坂をシリモチ坂と呼んでいたらしい。 今よりもさらに急な坂道だったことがわかる。

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2018年5月15日 (火)

旭坂(代々木上原)

代々木上原の駅ビルの通路を新宿方向に歩いていくと、旭坂の坂下に出る。 もともと代々木上原駅の駅前商店街はこの旭坂を中心に広がっていた。 坂下の小田急線の北側には渋谷川支流宇田川のさらに支流となる上原支流があり、大山町支流、西原の狼谷支流を合わせて、駅付近に深い谷を形成した。 この渋谷川の源流は代々木八幡で「春の小川」で有名な河骨川を合わせて流下、この辺りの地形はその数多の沢が削った谷で「代々木九十九谷」と呼ばれる。

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旭坂はかなりの勾配で小田急線をくぐり、南に向かって上っていく。 当然谷底なので、反対側にも急坂がある。 九十九谷にあるのは九十九坂で、谷沿い以外はほとんどが坂道。 その中でこの旭坂に名前があるのは、この道が江戸時代からある道だからである。

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江戸時代から大正時代まで、この坂下は田んぼが広がる谷あいだった。 そして傾斜地には広葉樹が広がる山村風景だったはずである。昔の道は、台地の際に付いている。 代々木上原周辺にはその際についた道が今も地形として刻まれていて、散歩が楽しい。

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旭坂は地元では上原銀座という商店街である。 人も車も行き交う賑やかな道だ。 坂上で丁字路になり、弥之助坂から来た道と出合う。 この道も古くからある道で、そのまま南西に進むと三田上水にぶつかるところまで通じている。 拡幅された井の頭通りは周辺の古い道と街並みを無視して東西に延びた新道で、周辺の道とはまったく相容れない向きになっている。

大原にある和田堀給水所が1924年に完成。 武蔵野の境浄水場と水道管で結ばれたので、吉祥寺から和田堀までは直線、そして和田堀で角度を変え渋谷方面へ直線で水道管を通し、その上に出来たのが井の頭通りである。

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2018年5月14日 (月)

やりくり坂(代々木上原)

やりくり坂という名前はユニークである。 渋谷区の資料によると、昭和4年(1929)頃、付近の住民が坂を作るのに必要な費用を、やりくり算段して出し合い、また労働奉仕もして開通させたのが由来だという。 この坂が出来てから、代々木上原から渋谷、青山方面へ出るのが非常に便利になったという。

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この坂道はJASRAC(古賀政男音楽博物館)の裏側の道になる。同じ時期に井の頭通り(水道道路)も開通しているので、その逸話の真相はよくわからない。 JASRACがビルを建てた時も、地元での評判は悪かった。 現在のJASRACの体質についても、対相撲協会並みの不信感を持つ人が多いと思う。 私も代々木上原に居た時期があったが、地域にも国民にも嫌われている社団法人の代表格と言えるのではないだろうか。

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JASRACのことはこれ以上触れたくないので、この坂の話に戻すと、坂下は渋谷川支流宇田川の源流にあたる谷筋。 昭和戦前期までは谷のエリアはほぼ田んぼだった。戦前戦後辺りから民家が増え始め、平成に入ってからは現在の様な高級住宅地になった。 代々木上原に住む人々は昔から、駅が谷底にあるので、どこに行くにも急な坂を登らなければならなかった。

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2018年5月13日 (日)

夕やけ坂(恵比寿)

恵比寿西1丁目にある長谷戸小学校、その校門前の坂道が夕やけ坂である。 坂道自体は戦後の区画整理によるもの。公園の脇から小学校に向かって上りになる。 小学校は台地の上に位置している。 駒沢通りと校庭の標高差は10mある。

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今年で創立105年とあるが、この場所に移転してきたのは昭和14年である。この小学校の音楽教師に草川信という人がいた。「夕焼け小焼け」「ゆりかごの歌」「汽車ポッポ」などの誰もが知る唱歌を多く作曲した。草川氏に因んで長谷戸小学校はゆうやけこやけの学校とされている。

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石碑が校門前に立っている。 そこには次のように彫られている。

「草川信先生は大正6年3月に音楽学校を卒業、同年4月より長谷戸小学校の若き音楽教師として着任。 昭和2年4月までの十余年勤務されました。その間児童の音楽教育に情熱を傾けられ,、本校児童の音楽的才能の啓発・向上に尽力、幾多の功績を残されました。 さらに本校在職中に児童の愛唱歌をつぎつぎに作曲・発表、子どもたちはこの歌を口ずさみながら成長しました。  ここに創立75周年を記念して草川先生を偲びこの顕彰碑を建立するものであります。」

草川氏が音楽教師として勤務していた頃の長谷戸小学校の場所はここではなく、内記坂の坂下だった。

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2018年5月12日 (土)

内記坂(恵比寿)

東横線代官山駅のトンネル上にある駅東口の前の通りを恵比寿方面に向かう。 途中から長い下りになる。昔は長谷戸町と衆楽町の町境の道だった。ゆるやかにカーブしながら下っていく。明治時代には恵比寿と代官山を結ぶ最短の道として開けていた。

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内記坂の坂名の由来は、書物によると、横山内記の抱屋敷があったことに由来するとある。 横山内記は江戸時代の旗本、大名ではない。どうも諸説があるようで、特定は難しい。 ただ1750年頃の江戸絵図にはすでに「ナイキ坂」と書かれているので、ここが内記坂であったことは間違いない。

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そうなると横山内記が何者なのか、ここに抱屋敷を所有していたのは旗本の横山内記なのかという点にも不安がある。周辺はむしろ松平丹後守の抱屋敷が複数あったので、そっちの名前で呼ばれる方が自然な気がする。 もっともこの坂に付いては坂の先駆者のひとりである横関英一氏が詳しく書いているので、それも参考にした。 ただ、周辺の開発があまりに進みすぎたので、内記坂という名前が忘れられるのはそう遠い話ではないかもしれない。

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2018年5月11日 (金)

衆楽坂(恵比寿)

昭和30年代の土地区画整理事業で恵比寿や代官山の地名は大きく変更になった。以前の衆楽町、長谷戸町、代官山町、丹後町、田毎町、公会堂通りの6町の全部、または一部が恵比寿西2丁目になった。 しかし意外と地元のお年寄りは旧町名で呼ぶことが多いし、町会も昔の区割りのままの場合が多い。やはり、町の単位というのは大きすぎてはいけない。 都会であってもそこそこの小さな単位が必要なのだと思う。

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代官山坂から東横線を谷底のやや東側で横切り、そこから8mほど上って再び下る。 その下り坂が衆楽坂である。 もちろん由来は衆楽町という町名だが、衆楽の由来が分からない。 衆楽町という名前は地図を見る限りでは、関東大震災以降の名前らしく、それ以前は代官山の傾斜地で人もほとんど住まない場所だったので、地名は不要だったのだろう。

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恵比寿とか代官山のように、平成になってから人気の出た街にあやかって、マンションやビル名にその名前を付けたがる不動産オーナーが多い。 集落坂周辺はほとんど代官山が付いている。 ビル名・マンション名の規制は何とかならないものかと思うが、経済を優先すると大切なものを失うことがある。代官山と付けるだけで家賃を1割増しできるとか、そういう類のせこい話が多いのだろう。  お役所にはもっと長い目で地域を見てもらえるようになるとありがたい。 もっとも明治時代はここは代官山だったと言われればそれまでだが。

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この衆楽坂の坂下には7坪程度の場所に5基の庚申塔と1基の馬頭観音が保存されている。  作られた年代は1664年、1668年、1674年、1676年と古く、下澁谷村の村名も彫られている。 残りの1基は明治のもので、馬頭観音と並べて道路側に立てられている。 散歩をしていると、各地の庚申塔やお地蔵様に年配の方がお参りして、掃除をしたり、花や供え物をしているのに出遭うことがある。 日本人の心の琴線に触れるものがある。 そういうお年寄りを見ていると、涙が出そうになることがあるのだ。 自分たちはこれを失ってはいけないという思いが湧いてくる。

 

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2018年5月10日 (木)

代官坂(代官山)

代官山のメインストリートである八幡通りと駅のある谷の間の代官山の路地の坂道で、坂の下半分は真ん中部分が50段ほどの階段になった作りをしている。 古くからの坂名ではなく、昭和初期から近隣の人々がそう呼び始めた。 坂の高低差は10mほどある。

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新撰東京名所図会にある代官山の解説は、「代官山とは渋谷川並木橋より鉄道踏切を越えて、南の高地をいふ。彼の岩谷松平の赤門赤屋は此に至る入口に在りて、天狗山と自書しあるはおかし。もとは全く山林地なりしが、今は新築の人家在り。 幕府時代は代官所の所轄林たいしより此名あるにや。之を南進すれば其の右は小名猿楽なり。」とある。新撰東京名所図会は明治の中期から末期のものである。その頃はまだこの道は谷の田んぼへ降りるための農道程度だった。

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したがってこの坂道も比較的新しい坂なのだが、風景がいい。地形に対して素直なつくりをしている。 関東大震災以降、山林だった代官山にも多くの人々が移り住み始めた。 この階段付きの坂道は、その頃の代官山のイメージを想起させてくれる。

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2018年5月 9日 (水)

代官山坂(代官山)

代官山はいつからお洒落なエリアになったのだろうか。 1970年代後半に私が中目黒に住んでいた頃は、急行の止まらない列車のはみ出す小さな駅という認識だった。 中目黒の駅前から見上げると、そこには明らかな河岸段丘があり、旧山手通りには上り坂になるのであまり出向かなかった。 私が近隣住民だった当時はまだ同潤会代官山アパートがあり、渋谷の外れだった。

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代官山の地名の由来は江戸時代の小字名として残っているが、代官の屋敷があったからとか、代官所有の山林があったからとか諸説あって定まらない。 暗渠マニアは鶯谷の沢を「三田用水鉢山分水」、代官山を走る谷を「三田用水猿楽口分水」と呼ぶが、三田用水ができた1664年からわずか350年で谷が形成されるとは考えられないので、もともとの沢があったとするのが自然である。代官山駅も(旧)東横線もこの谷筋に作られた。

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明治時代の地図ではこの谷の両側はわずかな田んぼと、それを囲む針葉樹林、そして崖線には広葉樹林の林になっていて、古道である八幡通り沿いにポツポツと家がある。 街が開発されたのは大正時代になってからで、この広い代官山坂も尾根筋の八幡通りから下る道としてその頃開かれた。代官山坂という坂名で呼ばれるようになったのは昭和の初めころのようだ。 この道は線路を横切り、衆楽坂を経て恵比寿駅に至る。

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2018年5月 8日 (火)

天狗坂(代官山)

代官山と言っても並木橋に近い。 南北に走る八幡通りは古い鎌倉街道。 青山学院から代官山鎗ヶ崎へのこの道は山手線を跨ぐ。 裏手の道は鉄道のなかった昔は線路あたりで分岐して上村坂へ繋がる道で、こちらも古道である。 その古道と古道の間をつなぐ路地に天狗坂がある。

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坂下の古道の北側は渋谷川の支流の鶯谷である。この辺りは谷が広がっており、明治時代、天狗坂の先には沢に水車もあった。 明治の地名では「中澁谷長谷戸」となっている。 恵比寿にも長谷戸(ながやと)小学校があるが、しばしば長い谷の入口を「長谷戸」と呼んだという。どちらも狭い谷がぱっと広がる辺りを指す。

現代の天狗坂は車両通行止めだがなぜか車が駐車している。 坂の真ん中には「てんぐ坂車止」と彫られた石柱が立っている。大した性根をしているものだ。この辺りの相場は月極4万円だから、駐車違反を取られても損した感覚は薄いだろう。 そんなことはどうでもよく、この短い天狗坂になぜ名前が付いているかである。 塀側に教育委員会の説明板がある。

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「この坂を、天狗坂といいます。岩谷松平(号を天狗、嘉永二年~大正九年(1849~1920))は、鹿児島川内に生まれました。明治十年に上京し、間もなく銀座に、紙巻煙草の岩谷天狗商会を設立し.その製品に金天狗、銀天狗などの名称をつけ、「国益の親玉」「驚く勿れ煙草税金三百万円」などの奇抜な宣伝文句で、明治の一世を風靡しました。

 煙草の製造に家庭労働を導入するなど当時としては画期的、独創的な工夫をしました。明治38年(1905)、煙草専売法が実施されると、この付近の約43,000平方メートル(13,000坪)の土地に、日本人の肉食による体質の向上を考えて、養豚業をはじめるなど、国家的な事業に貢献しました。晩年、岩谷天狗がこの地に住んだことから、この坂名が生れました。」

と書かれている。 人名が由来の坂道であった。岩谷天狗は代官山を天狗山と呼ばせ、自分の家は朱塗りにしていたという。

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この塀のある家は古くからある民家で、この家の敷地内に数基の石仏がある。 庚申塔、十三夜塔、地蔵塔がある。 庚申講については省略するが、ここの庚申塔は右から正面金剛、天邪鬼、三猿、あと写真外だが日月をかたどったものなどが並ぶ。 網があって引いて撮影できないので一部のみになっているが、地蔵立像には「左目黒道」と彫られていて道しるべになっていたようだ。

 

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2018年5月 7日 (月)

亀山坂(代官山)

南平坂に相対するのが亀山坂。 坂名の由来は教育委員会にもわからないという。 坂下の南平坂から変わる谷底が鉢山町交番。 区の資料では、古くから亀山坂と呼ばれていたようである。

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渋谷区の資料によると、付近に坂名の起源となるような人物もいた記録がないので、いつからか坂の形状を亀の背に見立てて亀山坂と呼ぶようになったのかもしれないと、自信無さげに記述している。 この道はもともと明治以前は街道ではなく、細い農道だったらしい。

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鉢山町の名前については、ここに法道上人というお坊さんの鉢がここに飛んできて落ちたので鉢山と呼ばれるようになったと土地の言い伝えにあるという。 空海の三鈷もしかり、お坊さんの投げたものは変なところに落ちるものだ。

明治時代の地図を見ると、三田用水の水はこの下の鶯谷へ流れる沢には流れていないようである。沢筋は元水道橋の西郷橋の下から流れ、鉢山町交番裏手の鉢山公園へ抜ける細路地を流れていた。 こういう薬研風の坂には必ず暗渠があり、辿り甲斐があるものだ。

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2018年5月 6日 (日)

南平坂(渋谷)

代官山の旧山手通りは尾根筋を流れる三田用水沿いの道である。 そこから現在の渋谷駅埼京線ホームの恵比寿側の端あたりへ切れ込む窪地が鶯谷。現在もこの谷筋は「鶯谷町」という住所である。 鶯谷を流れていた川の名前は分からない。 東京オリンピックまでは開渠だったが、その頃埋められてしまった。

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その水線沿いに南平台と鉢山町の町境が走る。町境と垂直に国道246の道玄坂上からの道が谷に向かって下っていく。 これが南平坂で、名前の由来は南平台という地名である。 ただし南平台という地名は明治末期に付けられた町名。 そして南平坂はそれ以降に開かれた道である。

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坂を下りきると向こう側に続くのは上りの亀山坂。 薬研の形をしている。谷底の交差点は変則の五差路。 角に派出所がある。派出所は代官山側にあるので鉢山町交番と呼ばれる。南平坂の南西には新日鐵住金の南平台公邸、向かいには高級マンションで、どちらも緑豊かな高級住宅地を感じさせる。 木漏れ日が心地よい。

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2018年5月 5日 (土)

間坂(渋谷区桜丘)

こちらの間坂は「あいだざか」と読ませる。 246の渋谷駅前交差点から斜めに抜けて代官山へ行く抜け道ルートとしてドライバーの間では知る人ぞ知る道。 以前からどうしてこの道はこんなにくねっているのだろうと思っていた。 位置的にはセルリアンタワーの裏道になる。

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調べてみるとこの道は意外と古い道であった。と言っても関東大震災後の話である。 この道を境に、北を道玄坂まで大和田町、南を桜丘町としたので、その間の坂道ということで、間(あいだ)坂という命名らしい。 この町名になったのが昭和3年(1928)なので、その時からかもしれない。

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渋谷駅の南に位置する桜丘町は丘陵地形。 渋谷川の支流である鶯谷という流れが削ったもの。 目黒川と渋谷川の間には丘陵の尾根筋が走っていて、その尾根を三田用水が流れていたが、この鶯谷の源頭部分が低くなっているため、三田用水は仕方なく水道橋で谷を越えた。上の写真の旧山手通りの西郷橋である。 もとは水道橋だったきれいなアーチ橋で、昔の建築のセンスの良さに感心する。

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2018年5月 4日 (金)

道玄坂(渋谷)

坂名は全国区の高い知名度、おそらく誰でも知っている道玄坂。 現在渋谷駅周辺でJRとクロスするのは国道246号線ともうひとつ、道玄坂から宮益坂の道の二本がメイン。 国道246号線は戦後高度成長期に開通した道である反面、道玄坂は江戸時代以前からの古い街道筋である。

江戸名所図会には、宮益坂から下り渋谷川を渡って道玄坂をくねくねと上り、やがて松見坂に至る景色が描かれている。 ほぼ完全に野原と山の景色である。

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道玄坂の標柱には次のように書かれている。

「江戸時代以来、和田義盛の子孫大和田太郎道玄がこの坂に出没して山賊夜盗のようにふるまったとの伝説がありました。しかし本来の道玄坂の語源は、道玄庵という庵があったことに由来すると考えられます。」

前半の説は道玄が洞窟に潜んで盗みや強盗をはたらく話で、こっちの方が私は面白い。後半の説は、この地に道玄寺という寺があって、そこの僧侶の名が道玄だったことに因むというもの。 ただ宮益坂は江戸時代から街道沿いの店もあり街の雰囲気はあったが、道玄坂が開発されたのは明治の後期で、世田谷区に軍の施設が出来て軍人が往来するようになってから人が集まり始めたという。

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道玄坂が本格的に人通りを見せるようになったのは、関東大震災で焼け出された人々が世田谷方面に家屋を求め、そのために往来が増えたことによる。大正生まれの亡父が十代の終わりころ東京に出てきて渋谷をうろついていた話をしてくれたことがある。 道玄坂上には伴順三郎の芝居小屋があったことなどを聞いたが、30年くらい前までは花街っぽい面もたくさんあった。 渋谷駅の西側は長い間「俗」の街であり続けたのだと思う。

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2018年5月 3日 (木)

間坂(渋谷宇田川町)

この路地に坂名が付いているとはいささか驚いた。 しかしLoftと紀伊国屋書店の間には石柱が立っており、「間坂」と彫られている。 石柱ははんこを逆さにした形になっている。 渋谷区のHPによると「まさか」と読ませるらしい。 いっそこの路地を「まじ」と読ませて間路と書いてはどうだろうかと提案してみたい。

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一応短い路地なのに2m程度の高低差がある。 平成元年にLoftが一般公募して命名したようだ。 由来はいくつかある。 「渋谷駅と公園通りの間」、「ビルとビルの間」、「『まさか』という語呂の良さ」、「『間』という漢字が人と人との関わり合いをイメージする」という理由らしいが、それを理由にすると日本中の路地に間坂が出来てしまう。

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やはり公募や企業や自治体が決める方法はダメだ。 渋谷センター街が「バスケットボールストリート」と名打ったが、だれもバスケットボールストリートなんて言わない。 むなしくも街灯にその文字が林立しているだけで、馬鹿丸出しのところがある。 センター街はセンター街である。 渋谷でなくとも三ノ宮でもセンター街はセンター街だ。 その通り名であった時代が地層のように積み重なって地名は生まれる。 また、一部の人々が呼び始めたのが、大半の人々に支持されて地名は生まれる。 そんな一企業、一自治体、一個人が決めるのは、プロセスを含めてセンスのかけらもない。

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2018年5月 2日 (水)

スペイン坂(渋谷)

これも新しい坂である。 いつごろからスペイン坂と呼ばれるようになったのだろうと記憶をたどってみる。 上京して渋谷を歩くようになった昭和51年頃にはもうそう呼んでいた記憶がある。 渋谷区の情報を見てみると、昭和50年に付けられた坂名だそうだ。

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渋谷区のHPには以下のように書かれている。

喫茶「阿羅比花(あらびか)」の店主、内田裕夫氏は、写真で見たスペインの風景に心ひかれ、店の内装 をスペイン風に統一していました。昭和50年にパルコからこの坂の命名を依頼されたときには、迷わずこの名をつけたそうです。命名後、近所の人たちも協力して、建物を南欧風にしました。

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記憶では「スペイン坂スタジオ」にいつも人だかりができていた。 1993年にパルコとFM東京が共同で街の一角に設置したスタジオで、2016年まで使われていたが、パルコの建て替えと共に閉鎖した。

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さらに時代を遡ると、スペイン坂自体は明治時代からある道である。 渋谷川支流の宇田川が削った崖線の坂道。 昔の宇田川はスペイン坂下、今の宇田川交番の傍には水車があった。 明治の終わりから大正にかけてこの辺りの開発が進みなくなってしまった。 そんな渋谷を現代の誰が想像できるだろう。

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スペイン坂の1本西にある坂道もいい味を出している。 通称道路の名前は「ペンギン通り」というらしい。 別名愛山通りともいうのは、この通りの脇にごみに囲まれて、「山路愛山終えんの地」の標柱が立っている。終焉ではなく終えんと書いたのは、街に合わせたのだろうか。 ペンギンの由来については区のHPにもあるが、訝しいのでノーコメント。

明治時代までは松涛から流れてきた沢が今の東急本店の下を流下し、吉本ホールのところで宇田川と合流していた。 その頃の渋谷を見られるものなら見てみたい。

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2018年5月 1日 (火)

オルガン坂(渋谷)

東急ハンズ渋谷店の西側の道路は井の頭通りの神南小学校下からいきなりの坂になっている。 この坂をオルガン坂と呼ぶ。 車道と歩道(路地)が二段になっているのが特徴で、そこにはモンベル渋谷店がある。 渋谷は店舗やテナントの変化が多いので、あると書いて数年するとなくなっていることが多い。 しかし東急ハンズ渋谷店は1978年の開店から40年頑張っている。 ここが3号店で、1号は藤沢、2号は二子玉川だったが、どちらもすでに消えた。 渋谷ハンズのひとつの階が三段になっている構造はユニークで面白い。

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オルガン坂の名前の由来は渋谷区のHPによると、通りの周辺に音楽関係の店が多かったところから付いた、あるいは東急ハンズ前の階段がオルガンの鍵盤に見えたからという説を挙げているが、ちょっと訝しい。

この坂を作り出したのは宇田川(渋谷川の支流)である。井の頭通りの裏手に暗渠の通りがある。 上流へ進み、代々木八幡で支流の河骨川に分離、河骨川は「春の小川」の唱歌で有名だが、明治時代まではこの渋谷の真ん中あたりでも蛍が飛んでいた。 「ホタルの住む渋谷」なんてCMがあるが、もともと住んでいたのだからクリエイターの認識が不足している。正しくは「ホタルの復活した渋谷」である。

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何しろ井の頭通りから松涛側は1900年頃は田んぼが広がっていたのである。 渋谷と言えば当時は道玄坂から宮益坂が町で、現在のハンズの西側の田んぼの先には鍋島農場という農場が広がっていた。 渋谷区松濤(住宅地地価日本一)の町会によると、明治9年に徳川家から佐賀藩の鍋島家がこの辺り一帯を買取り、鍋島家は失業武士の救済目的で「松涛園」という茶園の経営を始めた。 明治後半になって、茶畑は農場に変わり、大正末期から住宅地へ分譲されていったという。

忠犬ハチ公の飼い主である上野英三郎教授がハチ公と住んでいたのが松涛1丁目だった。上野氏は大正14年に亡くなったが、それから9年間ハチ公は渋谷駅で待ち続けたというのが伝わる話。 大正生まれの私の家内の亡父は生まれてからずっと恵比寿育ちで、当時渋谷に遊びに行ってハチ公を見たと言っていた。

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