天狗坂(代官山)
代官山と言っても並木橋に近い。 南北に走る八幡通りは古い鎌倉街道。 青山学院から代官山鎗ヶ崎へのこの道は山手線を跨ぐ。 裏手の道は鉄道のなかった昔は線路あたりで分岐して上村坂へ繋がる道で、こちらも古道である。 その古道と古道の間をつなぐ路地に天狗坂がある。
坂下の古道の北側は渋谷川の支流の鶯谷である。この辺りは谷が広がっており、明治時代、天狗坂の先には沢に水車もあった。 明治の地名では「中澁谷長谷戸」となっている。 恵比寿にも長谷戸(ながやと)小学校があるが、しばしば長い谷の入口を「長谷戸」と呼んだという。どちらも狭い谷がぱっと広がる辺りを指す。
現代の天狗坂は車両通行止めだがなぜか車が駐車している。 坂の真ん中には「てんぐ坂車止」と彫られた石柱が立っている。大した性根をしているものだ。この辺りの相場は月極4万円だから、駐車違反を取られても損した感覚は薄いだろう。 そんなことはどうでもよく、この短い天狗坂になぜ名前が付いているかである。 塀側に教育委員会の説明板がある。
「この坂を、天狗坂といいます。岩谷松平(号を天狗、嘉永二年~大正九年(1849~1920))は、鹿児島川内に生まれました。明治十年に上京し、間もなく銀座に、紙巻煙草の岩谷天狗商会を設立し.その製品に金天狗、銀天狗などの名称をつけ、「国益の親玉」「驚く勿れ煙草税金三百万円」などの奇抜な宣伝文句で、明治の一世を風靡しました。
煙草の製造に家庭労働を導入するなど当時としては画期的、独創的な工夫をしました。明治38年(1905)、煙草専売法が実施されると、この付近の約43,000平方メートル(13,000坪)の土地に、日本人の肉食による体質の向上を考えて、養豚業をはじめるなど、国家的な事業に貢献しました。晩年、岩谷天狗がこの地に住んだことから、この坂名が生れました。」
と書かれている。 人名が由来の坂道であった。岩谷天狗は代官山を天狗山と呼ばせ、自分の家は朱塗りにしていたという。
この塀のある家は古くからある民家で、この家の敷地内に数基の石仏がある。 庚申塔、十三夜塔、地蔵塔がある。 庚申講については省略するが、ここの庚申塔は右から正面金剛、天邪鬼、三猿、あと写真外だが日月をかたどったものなどが並ぶ。 網があって引いて撮影できないので一部のみになっているが、地蔵立像には「左目黒道」と彫られていて道しるべになっていたようだ。
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