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2018年6月30日 (土)

のぞき坂(豊島区高田)

宿坂の西側の坂道で、まるでスキーのジャンプ台のように感じられる坂である。 都内にはこれ以上の勾配の坂もいくつかあるが、この道幅で一気に下るのは勇気が要るほどである。坂上ぎりぎりまでいかないと坂下が見通せないので「のぞき坂」と呼ばれるようになった。
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大正時代以前の坂下は湿地と田んぼが広がっていた。 国土地理院の地図を見ると、この坂が車道として開通したのは明治末期か大正初期のようだ。 坂上にあった岡部邸の真ん中を抜く形で道路が敷かれている。 しかしのぞき坂の圧倒的な迫力に歴史が気にならない。
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この坂が22%という圧倒的な傾斜を誇るのに対して、すぐ西側を通る都電の坂道は急坂ではない。 不思議だが、坂の長さはのぞき坂が60mほどで崖を下るのに対して、都電は祖雑司ヶ谷駅から神田川まで500mを切通しにして下っているからである。 のぞき坂の急な部分の勾配は25%に達するが、都電は3%でしかない。
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この坂を積雪時に通る人はいるのだろうか。 「東京の坂」という写真集を出している中村雅夫氏が書いているのは、かつて東京で大雪が降った折、のぞき坂では除雪作業をせずに一日通行止めにして、子供のソリのゲレンデとして開放していたという話。 現在は責任問題になるとかいろいろ五月蝿い事情があって不可能だが、昭和はそういう時代だった。

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2018年6月29日 (金)

宿坂(豊島区高田)

宿坂は目白台の坂道の中では最も歴史が深い。 江戸時代は勿論、その前の中世からの道になる。 詳しい説明板が目白不動尊前にあるが、もともとは中世の頃、「宿坂の関」と呼ばれる関所がこの辺りにあった。 江戸時代に描かれた『江戸名所図会』にはすでに関所跡という扱いがなされていたほどである。
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坂下西側の金乗院は目白不動。 寺の開山は天正年間というから1573年~1592年の辺り、まだ徳川が江戸に来る前である。 金乗院は最初中野の宝仙寺の末寺だったが、後に護国寺の末寺になっている。 境内にある目白不動尊は江戸時代に入ってから文京区の関口駒井町(目白坂途中)に開山したが、第二次世界大戦で焼失したため金乗院に合祀されたいきさつ。
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中世にあった関所に話を戻す。 金乗院の少し上に平らな土地があり、それが関所の跡らしい。 宿坂はかつての鎌倉街道、そこを往来する旅人がこの辺りで留まったので、宿坂と呼ばれた。 別名にはくらやみ坂、砂利場坂があるが、やはり宿坂の名の歴史が古い。
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くらやみ坂というのは江戸時代の前半、この辺りは樹木が生い茂り暗い道で、昼なお暗く狐狸の類が人を化かしたという話に由来する。 砂利場坂というのはこの辺りが砂利捨場だったからだという。
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中世の鎌倉街道は雑司ヶ谷鬼子母神前から、この宿坂を下り、神田川を姿見橋で渡った。 姿見橋は今の面影橋である。 面影橋に説明板がある。 面影橋は俤(おもかげ)の橋、姿見の橋とも呼ばれ、一説には在原業平が鏡のような水面に姿を映して呼んだとか、徳川家光が鷹狩りの折に名付けたとか、諸説ある。 良い名前である。 個人的には、小室等の『面影橋から』を思い出す。

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2018年6月28日 (木)

稲荷坂(豊島区高田)

富士見坂の西側を南北に走る坂道。 坂下で富士見坂と合流する。 富士見坂よりもずっと古い坂道で江戸時代からあった。明治時代の初めころすでにあったのは西から、宿坂、稲荷坂、小布施坂、稲荷坂と小布施坂の間にある日無坂は時代不明。 杣道としては古くからあったようだ。
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稲荷坂の名前の由来は坂上の東側の民家の屋敷神の稲荷にあるという。 戦前は周辺の住民が高田稲荷大明神と呼んで祭礼も盛んだったようだが、戦災でそれまでの民家が殆どなくなってしまったが、坂名に残ったので稲荷も気づかれることが増えたのだろうか。 別名に浅間坂という名前があるがこの由来は不明。
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近辺の坂道はどれも魅力的で、ドラマなどの撮影にも使われることがあるという。 ドラマや映画で坂道が出ると、そこには生活感がにじみ出てくるから不思議である。 稲荷坂には説明板も何もないが、なかなかの良坂である。

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2018年6月27日 (水)

富士見坂(豊島区高田)

数多ある東京の富士見坂のなかでは新しい坂である。 坂上で名坂日無坂と分岐して南南西に下る。 目白台の神田川側の傾斜はきつく、この坂も坂上から望むと滑り台を滑るような景色である。 歴史が浅いからだろうか、説明板などは無く、坂上の民家に黒御影石で、「明治百年記念 富士見坂 高田富士見会」とある。
Dscn4586_2 この富士見坂と日無坂の間の民家がいつまで残るかは坂好きとしては興味のあることだが、東京の眺望ある好立地だから魔の手はすでに絡みついて再開発を間近に控えている可能性は高い。 この民家があるかないかで、富士見坂の魅力も、日無坂の魅力も、大きく変化する。
Dscn4582 富士見坂側の路肩にはお年寄りが下るのに設置したのか鉄製の手すりがついている。 それだけ坂が急だということである。 富士見坂というから富士が見えるかというともちろん見えない。 坂を下る際に右手の方向に富士山はあるはずだが、昭和の前期なら見えたであろう。 話によると1980年代までは見えたようだ。坂の正面には新宿の高層ビル群が遠望でき、これはこれでよい眺めである。
Dscn4578 過去の地図を見てみると、昭和の初期に開かれた坂道のようである。日無坂も同時期だろうか、大正時代の地図には載っていない。 坂上の標高が30m、坂下が11mで、100m程度で19mの高低差を下るのだから、勾配としては19%、角度は10.8%ある。 なかなかの坂であると思う。

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2018年6月26日 (火)

蝉坂(北区上中里)

京浜東北線の都内の駅の内もっとも知られていないのがおそらく上中里だろう。 田端と王子の間にあるこの駅は、縄文海進の時代は波打ち際だった。 駅からいきなり崖を登るような地形になっているいわゆる海食崖である。 この海食崖を切通しで上るのが蝉坂。 現在の坂は昭和18年に拡幅されて、元々の道を均して広げたもの。 それ以前の坂は、かなり難儀な坂だっただろう。

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蝉坂はカーブしながら高度を上げていく景色の良い坂道。 坂道の説明をした標柱がある。 その説明書でいきなり「六阿弥陀道の途上でもある蝉坂」と書かれているので、六阿弥陀道を調べてみると、行基が一本の樹から彫り上げた6体の阿弥陀像が6つの寺に安置されており、それを巡るのが六阿弥陀道のようだ。

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江戸時代この6寺を巡るのが流行し、上豊島村西福寺(北区)、下沼田村延命院(足立区)、西ヶ原無量寺(北区)、田端村与楽寺(北区)、下谷広小路常楽院(調布市に移転)、亀戸村常光寺と巡ったそうな。 蝉坂の上には無量寺がある。隣の田端駅の上には与楽寺が、西福寺は無量寺のさらに先の駒込の西福寺だろうか。 ともあれ江戸時代から人々が行き交う坂であったことは間違いない。

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坂の切通しの上には平塚神社がある。 これは平塚城址でもあり、平安時代以降に豊島郡を治めた豊島氏の居城であった.。 後三年の役で奥州平定をした源義家が、その帰途にここ平塚城に立寄り、豊島氏が心から歓待したので、義家は返礼に鎧を与えた。豊島氏はその鎧を城の護りとして埋め、その上に平たい塚を作った。 これが平塚の名の起こりである。

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しかし豊島氏は室町時代になると小田原から関東を支配しようとする上杉氏と対立関係になり、やがて上杉家臣である太田道灌により落城させられてしまった。 太田道灌はこの坂から攻め上がり平塚城を陥落させ、豊島氏を滅ぼした。

蝉坂という坂名は、もともとは攻め坂という名で、それが訛って蝉坂となったと伝えられる。室町時代の城というのは天守というよりもおそらくは館のようなものだったと思われるが、この崖線からは隅田川沿いの湿地帯を見渡せたはずである。 ロケーションとしては典型的なものだと言える。

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駅の北東側は4mの標高だが、神社は24mある。 20mの高低差があるので、ビルの5階くらいから見渡す景色だったはず。 一方坂の反対側(東側)は江戸時代には御用屋敷とあり、将軍鷹狩り場だった。 明治までこの辺りには、狐、イタチ、兎、雉などが棲息していたと伝えられている。

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2018年6月25日 (月)

紀井國坂(千代田区北の丸)

皇居と北の丸公園の間、平川濠の脇で東京国立近代美術館前の道が、紀伊國坂である。 江戸城築城以前は武蔵野台地の東端で、北の丸公園の標高は18m~30mある。 一方坂下のの平川濠を渡った竹橋はほぼ4m程度。 この間をつなぐのが紀伊國坂。

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徳川が江戸に入った頃は、田安村、あるいは田安台と呼ばれた村落だったが、築城にあたり追い出された。 ここには尾張家、紀伊家の徳川親戚の屋敷が置かれたが、後に明暦の大火(1657)があって、周辺は火除け地になり屋敷は市ヶ谷と赤坂見附に移転している。

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江戸初期には細い坂道だったのを、火除け地になってからは通りも広く取られるようになったのが今の道路にも影響しているようだ。 明治になってからは、この坂から北の武道館周辺まで近衛兵の施設になっていた。戦後は警察学校や庁舎を経て、昭和44年(1969)に昭和天皇の還暦を記念して今の北の丸公園と武道館になった。

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2018年6月24日 (日)

地蔵坂(杉並区善福寺)

地蔵坂はあちこちにある。 善福寺の地蔵坂の別名は、御立場坂(おたてばざか)、寺分坂(てらぶざか)の二つ。 例に漏れず、地蔵坂の坂名の由来は、かつて坂の途中に地蔵堂があり、地蔵菩薩、庚申塔、馬頭観音が祀られていた為である。 坂上の交差点の名前も地蔵坂という名前。

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ここから善福寺川に架かる原寺分橋までの下り。 橋には寺分の名前が残っている。  善福寺川よりも北は寺分、南は原という地名であったので、原寺分橋である。 御立場坂という名前は地蔵坂上の旧家が将軍御鷹狩りの際の休息所(御立場)になったので付いた坂名。 いっぽう里俗には寺分に行く坂ということで寺分坂と呼ばれていた。

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後に一般には坂の途中の地蔵堂に因んで地蔵坂というのが通称になったようである。 とはいえ地蔵坂という呼び名は江戸時代中期から使われていたようで、別名も含めてしっかりした由来があるのは興味深い。

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坂脇の荻久保中学校の塀に詳しい説明板が立っている。 それによると、地蔵堂の馬頭観音には「東江戸 西ふちう」とあり、道標の役割を果たしており、この場所が東多摩郡井荻村、豊島郡石神井井村、北多摩郡吉祥寺村の境だったことから「三郡境の馬頭様」と呼ばれていたという。

坂の周辺は旧石器時代からの遺跡が発掘されており、善福寺川の流れの近くでもあるため何千年もの人々の営みが続いた地域であることが判る。

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2018年6月23日 (土)

豆腐屋坂(杉並区西荻北)

とても分かりにくい坂で地図を見ながらの探索になる。 中央線西荻窪駅の北西に区立桃井第三小学校がある。 そこからさらに東へ進むと、西荻わかば公園という小さな公園があり、その前から北に向かって下る50mほどの短い坂。 現在は高低差が殆ど感じられないが昔はもっと傾斜があったのだろう。

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住宅の間の路地だが、この道は戦前からあり、これより東側は民家もまばらだった。 公園側の道は西から延びてきた道で、坂下にある東西の道はそのまま一本松、兼吉さん坂に続く古い道筋であったが、現在は道筋が変えられてしまって民家の裏道になっている。

さらに時代を遡ると、この先(北側)の善福寺川手前には城山と呼ばれ、荻窪八幡を祀った領主の館址があったと伝えられる。

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豆腐屋坂というから豆腐屋があったのかと思うとそうではないらしい。それでも古くから豆腐屋坂と呼ばれていたといわれ、坂上の十字路ではサイノカミの火祭りが行われた。サイノカミ(塞ノ神)というのはいわゆるどんどん焼(どんど焼き)のことである。 どんどん焼はしばしば村の外れの境や峠、道の辻で行われることが多く、外から入ってくる災厄を防ぐ狙いがある。 ここが道の辻、かつ村はずれの境であったことを意味している。

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2018年6月22日 (金)

薬罐坂(杉並区上荻)

薬罐坂というのはあちこちにあるが、概ね狐狸貉などの化け物が出るという言い伝えから付いたものが多い。  この薬罐坂は青梅街道の八丁交差点から、善福寺川に架かる神明橋に下る道で、橋を渡ると南側は再び上りになる。

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地元に伝わる話では、雨のしとしと降る夜、八丁で一杯ひっかけて家に帰る途中、人家のない坂を下っていると、真赤に焼けた大きな薬缶が道の真ん中に転がっていた。 ほろ酔い気分でその薬缶を蹴っ飛ばすと、その焼けた赤い薬缶がころころと坂下まで転がっていった、というのがある。

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その話以前にも、この坂は鬱蒼と樹木の生い茂る場所だったので、狐や狸に化かされたという話があったようだ。 昭和初期以前の地図を見ると、実はこの坂は現在の様なまっすぐな道ではない。 中央線の南から下ってきた稲荷坂と兼吉さん坂がぶつかる辺りから川沿いに上り、途中から北に向かって標高を上げていく道筋だった。

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昔の子供たちはこの薬缶の話を怖がっていたという。 今の子供たちからは想像できないが、そういうおどろおどろしいものを教育から廃除すべきではないのではないかと思う。

薬罐坂が再び上り中央線をくぐる場所は、中央線高架化以前は踏切で、その脇に大きな一本松があった。戦前のこの場所の写真にも周辺に民家はなく、道路は砂利道で、かつ周辺は鬱蒼とした林になっている。

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2018年6月21日 (木)

兼吉さん坂(杉並区上荻)

面白い名前の坂道である。 「かねきっつぁんざか」と読む。 現在も人気の蕎麦店本村庵から東へ進み環八の四面道に至る道の坂である。 この坂の辺りに小張兼吉という鳶の親方がいて、その家の前の坂だったので兼吉さん坂と呼ばれるようになったという。

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坂の始まりは善福寺川に架かる置田橋から。 置田橋は中央線を挟んで、本村橋の北側にある。 坂は緩やかでカーブしながらゆっくりと上っていく。 置田という橋名はこの辺りの旧地名が置田だったことから付いたもの。

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この坂の周辺には昭和のはじめまで田んぼが広がり、鍋屋田圃と呼ばれていた。 蕎麦屋の本村庵は小張氏がやっていて、その小張氏の屋号が鍋屋だったので、鍋屋田圃となったという。 現代の社会では理解が難しいが、地方に行くと同じ苗字の家ばかりがある集落があるのが普通で、そういう場所では「鍵屋」とか「玉屋」とかいろんな屋号で呼び合っていた。 東京近郊が農村地帯だったころはまだその習慣が続いていたのである。

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2018年6月20日 (水)

稲荷坂(南荻窪)

JR中央線が善福寺川を渡る南側に並行する橋が本村橋。 五日市街道は善福寺川の南側の台地の南寄りを走り、青梅街道が善福寺川の北側の台地を走っている。 本村橋は「ほんむらばし」と呼びがちだが、ここの本村は「ほむら」と読むのが正しい。 江戸時代この辺りは下荻窪村で、この善福寺川の北側の旧家宇田川家の屋号が本村(ほむら)だったことに由来する。

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本村橋の西脇から南へ上る坂道が稲荷坂である。 昔、坂の途中に穴稲荷があったようだ。 その場所が現在のたんぽぽ公園の辺りだというのは分かるのだが具体的な場所が特定できない。 この穴稲荷の上には梅田家という旧家があり、そこの屋号が坂上(さかうえ)だったので、この辺りは坂上と呼ばれていたという。

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坂下の本村橋辺りには川に降りて野菜を洗う洗い場があり、昭和初期までここで野菜を洗って都心に出荷していた。 大正時代初期の写真を見たが、川の両側には田園地帯が広がっており、少し小高い台地に家がある。 現在からは想像もできない農村風景である。

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坂上を南に行くと、天祖神社があり、さらに進むと五日市街道に出る。  現在はどこまで行っても民家が立ち並ぶ東京の住宅街だが、100年前は農村風景だったことをイメージしながらこういう坂を歩くと、風も涼しく感じるから不思議である。

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2018年6月19日 (火)

元坊坂(久我山)

久我山駅から西へ馬車みち(旧府中街道)を進み踏切を越えるとまもなく久我山稲荷神社がある。 創建は不明。 古来から久我山村の鎮守として親しまれてきた。 東隣には久我山幼稚園もあり、稲荷神社は神田川に下る崖の突端に建っている。

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この稲荷神社の西側を上る道が元坊坂である。「もとぼうざか」と読む。  昔、この坂上に光明寺という寺があったが、光明寺騒動という事件があって寺はつぶれたと伝えられる、と杉並区の資料にはある。 また、この光明寺は火災で移転し幕末の廃仏毀釈で廃寺になったとも伝えられる。

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「もと坊があったことから元坊坂と呼ばれたらしい」とも区の資料には書かれているが、このもと坊は正しくは本坊ではないだろうか。寺院の建物で住職が住む僧坊を本坊と呼ぶが、これを「もとぼう」と呼んでしまい坂名になったのではないかと推察する。

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光明寺騒動については、久我山稲荷神社のサイトに面白い話があるがとても興味深い。 こういう伝承をしっかりと編纂してもらえると、地元への愛着も深まる気がする。 それにつけてもこの坂の景色は良い。 神社の境内の鬱蒼とした樹木、くねった道筋が歴史の深さを感じさせてくれる。

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2018年6月18日 (月)

御女郎坂(久我山)

京王井の頭線久我山駅前の商店街は古い道である。 駅を出て左に進むと、間もなく馬車みちが横切る。 ここからうえみちまでの坂が御女郎坂と呼ばれる坂である。 馬車みちはっ府中街道の旧道でべつめい下道。 うえみちは途中曲がりながら、五日市街道に出るための道だった。

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御女郎坂は「おじょろざか」と読む。 由来などはまったくわかっていないようだ。 どこにも坂名の表示はなく、区で編纂した「杉並の通称地名」には戦前まで使っていた通り名とされている。 完全消滅してしまうまではそう遠くないかもしれない。

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戦前は田畑の広がる地域だったが、戦後徐々に駅を中心に新興住宅が広がり、農家が急速に減少したため、昔からの伝承は消えて行ってしまうのだろう。 都心や田舎には結構残っているのに、首都圏の住宅街には歴史が感じられないのはいささか残念なことでもある。

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2018年6月17日 (日)

笠森坂(久我山)

吉祥寺から明大前までの京王井の頭線は神田川に沿って走っている。 神田川の源頭は井の頭公園の池、そこから杉並区南部の低地を潤して流れており、江戸時代は神田上水とも呼ばれた。 井の頭公園の最下段の池「ひょうたん池」から流れ出た水は間もなく久我山駅の南側に達する。 この流れが久我山周辺の地形を形作っている。
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久我山駅前で西から来た人見街道が神田川を渡る。 その少し東側にあるのが笠森坂。  坂下で人見街道と馬車道が合流している。 笠森坂は短い小さな坂。久我山周辺には防災避難路として道に名前が付けられており、看板がいくつも掲げられている。
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坂上の民家の屋敷稲荷が笠森稲荷らしい。 坂上に小作家がありその敷地内にあったと聞く。 坂上で東西に走る道は「うえ道」。台地上を走る東西の連絡路で昭和前期まで「うえ道」の呼称で通っていたらしいが、防災避難路の表示が出来てから再び一般化したようである。
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坂下の人見街道から分かれる「馬車みち」は、下道とも呼ばれていた。うえ道に対して、台地の下を河岸段丘に沿って走る道で、かつての府中街道でもあった。 明治時代に井の頭行きの馬車が通ったのが名前の由来。
 
笠森坂はこんな小さな路地だが、明治初期から府中街道(馬車みち)とうえ道を結ぶ道として人々に使われてきた道である。大正時代までは、坂上は畑が広がり、坂下は神田川を挟んで田んぼが広がっていた。

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2018年6月16日 (土)

永泉寺坂(下高井戸)

永泉寺坂は甲州街道の下高井戸から永福町へ抜ける古道が甲州街道から神田川沿いに下っていく坂道。 道の東側は永福1丁目、西側は下高井戸2丁目で町境になっている。 坂上は甲州街道沿いを流れる玉川上水。 その上水に架かる下高井戸橋からの下りになる。

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上水の北側には寺が沢山ある。 西側(下高井戸2丁目)には龍泉寺、東側(永福1丁目)には本應寺、永昌寺、栖岸院、法照寺、浄見寺、善照寺、託法寺、真教寺、そして広い築地本願寺の和田堀廟所が並ぶ。 一大寺町になっている。 そのほとんどが、関東大震災の被災により、都心部からこの地に移転してきたものである。

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その並ぶ寺院の中で、永昌寺は少し異なる歴史がある。 もともと坂の西側に永泉寺という寺があった。 一方永昌寺は新宿区愛住町辺りにあったが、明治43年に永泉寺と永昌寺が合併して、この地に移転したという。 永泉寺坂の地名の由来となった永泉寺は、永昌寺に吸収されてしまったが、坂名だけはそのまま残ったということである。

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その永泉寺に祀られていたのが玉石薬師。 この玉石というのが、玉川上水の永泉寺付近の工事の折、光沢のある玉石が掘り出され、その石の光沢の中に薬師像が浮かび出たことから祭られるようになった。 寺は上水の工事の無事竣工を念じて供養し、付近の人々の信仰も深まって、毎月8日の縁日は永泉寺ボロ市と呼ばれて賑わった。 この市が有名になったので、永泉寺の名前も現在に残されたのである。

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2018年6月15日 (金)

法印坂(杉並区永福)

本村坂から井の頭線をくぐり神田川上流方向へ進む。 現代の住所は井の頭線を越えると、和泉から永福に変わる。 この道路の脇には、昭和の中頃まで神田川の分流(用水路)が流れていた。 この分流と神田川の間には昭和中期までたくさんの養魚池があった。釣堀もあったようだが、内容に関する資料はまだ入手できていない。時代的には金魚なども多かったのではないかと思われる。

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法印坂の坂名の由来は、杉並区の資料によると、ここは昔の和泉村と永福村の村境で、坂の北東側に日照寺という真言宗の寺があり、そこに法印という住職がいたためとある。日照寺は明治初年廃仏毀釈時に廃寺となった。

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すぐ南西側には永福寺があり、そちらは大永2年(1522)開山の曹洞宗の寺院。もとは西隣の永福稲荷神社の別当だった。北条氏が豊臣に負け小田原城が落城した時、北条氏の家臣であった安藤兵部丞が当時の住職を頼ってここに帰農して、永福村の発展に尽くしたと伝えられる。

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2018年6月14日 (木)

本村坂(杉並区和泉)

地蔵坂を下り、神田川を井の頭線と並んで蔵下橋で渡る。 そのまま吉祥寺方面へ進むと川の左岸の上りになる。 これが本村坂である。 「もとむら」ではなく「ほんむら」と読む。 昔、この坂の場所に名主梅田家の屋敷があり、その屋号が「本村」だったため、本村坂と呼ぶようになったと伝えられる。

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上の写真は蔵下橋を本村坂側から見たものだが、周辺は若干田舎っぽい景色で、井の頭線の土手の草地がずっと続く線路沿いに江戸時代からあったこの道が通っている。 しかし、2016年の訪問時にはまさかのその線路わき緑地にビルが建てられていたのに驚いた。 以前は幅数mの線路沿いの空き地に車が並んた簡易駐車場だったが、養生シートに囲まれてビルがほぼ建った状態になっていた。 薄っぺらい敷地によく建てたものだ。

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このビルが建てられたお陰で明るかった本村坂が一気に暗闇坂のようになってしまった。写真右手の樹木に覆われた部分が屋敷森でここには500坪ほどのお屋敷があった。 これがかつての梅田家ではないかと推測している。 南側に隣接したマンションが「マンション本村」とこの家の屋号を付けている。

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2018年6月13日 (水)

地蔵坂(杉並区和泉)

杉並区和泉、明治大学の和泉キャンパスの裏手には多種多様な歴史が残っている。 崖下を切通しで走る京王井の頭線と水道橋で交差する玉川上水。 玉川上水は蔦に覆われ、側道の脇を通っている。

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そして複線の井の頭線に4線分のトンネルがある。 これは戦前に東京山手急行電鉄という会社が山手線の外側に円周鉄道を計画していた名残りで、大井町から北上、小田急線梅ヶ丘、京王線明大前というルートに対応して、建設時に4線分を作ったが、世界恐慌のあおりを受けて頓挫した。

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鉄道遺構の吉祥寺寄りに向かって地形は大きく下っていて、間もなく井の頭線は神田川を渡る。 この遺構の近くにあるのが地蔵坂である。 井の頭線神田川橋梁と並ぶ道を都心に向かうと、道が二手に分かれ、左が地蔵坂の古道である。

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大正時代以前に永福町界隈から甲州街道への道は七軒町(今の下高井戸)に上る永泉寺坂とこの地蔵坂の二つしかなかった。 坂上は甲州街道の代田橋で、ここにはダイダラボッチ伝説が残る。あの「もののけ姫」に出てきた巨大な鹿神の化身のモチーフである。 そのダイダラボッチが架けたのが代田橋という、あり得ない言い伝えが残っている。

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現在の坂は緩やかにカーブを繰返しながら上っていく。坂上の西側に広い共同墓地がある。 ここには明治初年まで地蔵堂があったが、本尊は現在は井の頭通りの北側の閻魔堂に移されているという。 しかし、墓地入口にはいくつかの地蔵が並んでいる。

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時代的には、江戸前期から江戸末期までの地蔵が集められている。 墓地の入口は階段で、上ると地蔵が並び、その手前に「和泉村 地蔵堂墓地」と彫られた石塔がある。 江戸時代この辺りは和泉村と呼ばれた神田川流域の農村であった。 現在の明治大学和泉キャンパスは戦前は火薬庫で、江戸時代から弾薬の貯蔵庫(塩硝蔵)として使われていた土地である。

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2018年6月12日 (火)

尻割坂(杉並区和泉)

尻割坂とかいて「けつはりざか」と読む。 珍しい坂名である。 由来については、急坂なので力を入れて登降するから、腰の筋肉が張るという意味で呼ばれるようになったらしい。 現在の坂は大した坂ではないが、昔はもっと急だったのだろう。

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坂の南側のブロックには和泉熊野神社がある。 一方の北側、垣根の区画はもと当麻家の屋敷だったところで、植込みのなかに近代的で立派な門がある。 向こう隣りは貴船神社である。 どんな屋敷だっただろう。 この辺りの庄屋だったのかもしれない。 坂上あたりは和泉山と呼ばれた丘で、もとは広大な雑木林だった。 家が建つようになったのは戦後である。

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2018年6月11日 (月)

番屋坂(杉並区和泉)

いの坂の南側、神田川で言えば上流にある坂道が番屋坂である。坂下の神田川に架かる橋の名前が番屋橋。 杉並区の資料には、由来は定かではないが、この坂の下に番屋橋があるので、ある時期番小屋があったため名が付いたかもしれない、とある。 番屋というのは、江戸時代に消防や自警で見張り番が詰めていた小屋のことで、現代で言えば交番みたいなものである。

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現在は住宅がびっしりと建っている地域だが、昭和中期まで坂下から川側は田んぼだったので、果たして番屋があったかどうかは疑問である。あったとすると、この番屋坂の坂下あたりなら可能性があるが古い地図にはそれらしきものが描かれていない。

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さらに明治時代は勿論、昭和の初期までこの坂の位置に道はない。 坂下の道と番屋橋は江戸時代からあるのだが、この斜面にはほとんど家がないのである。 しかし杉並区の資料には番屋坂の名前は昭和20年頃まで通称として使われていたとあるので、地図に道が記載されていないだけかもしれない。 坂名の由来で行き詰ってしまった。

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坂の南側に貴船神社がある。縁起には「当社は和泉熊野神社の末社です」とある。 和泉熊野神社は隣のブロックにある。 近所というよりお隣である。 そんな場所に飛地で神社を建てる意味合いがあるのかと思って、縁起を読んでみた。

創建は文永年間(1264~75)と古く、祭神は高龗(たかおかみ)の神。 この神は山、谷あるいは川に住む雨水を司る竜神で、雨ごい、止雨に霊力がある。 当社はこの水を支配し豊穣を約束する神として信仰されていた。 もともとは神田川の治水を司る人々の支えだったということであれば、坂下のこの神社に農業用の神田川の水を管理する番所があったとしても不思議ではない。 あくまでも個人的な推察だが、番屋坂の番屋はそこに由来しているのではないかと思われる。

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2018年6月10日 (日)

いの坂(杉並区和泉)

神田川が削った崖にはいくつもの坂がある。 有名無名本当に数多の坂が、人間の営みと共に何百年、何千年と続いているのがこの武蔵野台地の川沿いの特徴である。位置的には、丸の内線の方南町駅と井の頭線の永福町駅の間にいくつかの名前の付いた坂があるが、いの坂はその最も下流の坂道である。

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坂上には大円寺があり、神田川に架かる一本橋という橋から大円寺に上る坂というのが残っている資料の記述だが、この大円寺は曹洞宗の寺院で薩摩藩島津家の江戸での菩提所である。もともと赤坂の溜池にあったが、廃仏毀釈に加えて島津家の神道改宗により寂れて、この地に移転してきた。

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坂上の大円寺の東側には巨大な和田堀変電所がある。 江戸時代からの寺と、近代文明の象徴ともいえる変電所が並んでいるのはなんとも言えない風景だが、実際は樹木が多いので変電所の裏が山という感じの風景になっている。

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2018年6月 9日 (土)

東坂(中野区南台)

神田川を挟んで両側に広がる農村が昔の雑色村である。 川の西側には駒ヶ坂、東側にはこの東坂がある。 徳川家康が江戸入城する時代にはすでにここには雑色村があった。川の流域で相対的に低地なので、かつて田んぼだったところには営団地下鉄の車庫、丸の内線の車両を地上に並べている。

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地下鉄車庫の南側が方南通り、そのさらに南側が台地になっている。 その台地はさらに南に進むと低くなり、神田川の流域の田んぼ地帯だったエリアになるが、昭和の中期までこの低地帯の地名が雑色として残されていた。 その低地帯から台地に上る南側斜面の坂が東坂である。

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坂名の由来は多田神社の東側を上る坂なので東坂というシンプルなもの。 多田神社は雑色村の鎮守で、源頼家が大宮八幡宮に参詣した折に、先祖の多田満仲を奉祀したのがこの多田神社の始まりと伝えられる。 神社の創建は寛治6年(1092)、平安時代末期である。

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坂の傾斜は比較的緩やかだが、古道であるだけに良いカーブを描いている。 兵庫県の川西市多田にも多田神社がある。どちらも清和源氏の流れである。神社の裏参道が坂上に付いている。

坂下は昔は水田地帯で湿地帯が広がっていて、田舟(農作業を行うために乗る小舟)を使って米を育てていたという。 そういう場所で開発が昭和の中頃に入ってからだったので、比較的大きな土地が開いていたため、現在は学校や大型の商業施設になっている。

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2018年6月 8日 (金)

駒ヶ坂(中野区弥生町)

杉並区との区境近い善福寺川と神田川に挟まれた三角地帯、ここは地形的には二つの川に挟まれた巾着型の台地になっており、その台地の中心が方南町にあたる。 この台地の北東地域で善福寺川に向かって下るのが駒ヶ坂である。 駒ヶ坂の坂下、善福寺川に架かる橋は駒ヶ坂橋、その下流で善福寺川はほぼ同じ水量で神田川に合流する。

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坂道は一直線だが、これは昭和に入って整地されたため。 それ以前は曲がりながら傾斜を下る坂道で、江戸時代からあった古道である。十貫坂から駒ヶ坂を通り、現在の大原辺りで甲州街道に繋がっていた。『東京府村誌』に「駒ヶ坂、雑色村村西にあり、長さ三十間広さ三間」とあるので、54mの長さの坂で道幅が5.5mと昔から広い道だった様子。 雑色村の地名は昭和42年まで字名で残っていたが現在はない。

大田区にも雑色があるが、雑色というのは、平安時代の役所に蔵人所というのがあり、そこで雑役に従事する人々を雑色と呼び、そのいわゆる役人に住まわせた場所が雑色という地名になったケースが多いという。 大宮八幡宮を創建する際に尽力した役人たちが住んでいたというのが中野区の資料にあった。

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坂の周辺は中野区と杉並区の区境が入り組んでいる。 坂下の駒ヶ坂橋を渡ると杉並区。 西にワンブロック行くと杉並区。 神田川と支流が度々流れを変えた地域で、昔から境も頻繁に変化した名残である。 駒ヶ坂の坂名の由来は、杉並区の資料によると、鎌倉攻めの時に軍馬が通ったからという説があるらしい。 坂下の駒ヶ坂橋を渡って進むと立正佼成会の施設が広がるが、ここに本陣山という場所があり、和田義盛が鎌倉攻めの折にここに陣を取ったという記録がある。

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2018年6月 7日 (木)

地蔵坂(杉並区堀の内)

大聖寺坂を下って本村橋で善福寺川を渡り、くねった道を少し上ると堀の内熊野神社がある。 西側の日本済美学校の跡地で区の済美教育センターの敷地は向山遺跡。 古墳時代の集落跡の遺跡で、昭和62年という比較的新しい時代に発見されたもの。 古墳時代の住居跡の他、縄文時代の土器、平安時代の住居跡、江戸時代のゴミ捨て場など、各時代の発掘物が出た複合遺跡で、何千年もここで人の営みがあったことが分かる。

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本村橋の場所には昭和初期まで水車があり、その上流には今井さん堰という水車の水を取るための席があった。今井さんというのは済美学校の創設者である。

熊野神社の手前を右に入り、参道の鳥居を横目に進んだ先の辻を左に曲がって上るのが地蔵坂である。この坂の西側には昔、旧和田堀内村の役場があった。 先述の本村橋の名でもわかるように、熊野神社の周辺は和田堀内村の中心部で堀の内本村という地名だった。

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その役場跡の正面に大きな地蔵堂があり、これが坂名の由来となって地蔵坂と呼ばれる。この坂では塞ノ神祭りが行われてきた。 塞ノ神祭りというのは日本の民俗伝承的な祭りでどんど焼などで現在も各地に残るもので、正月に祭った飾りを集めて焼く行事である。東日本では道祖神などと結びついたりすることが多く、村境や辻などで祭られ、道から悪いものが入ってくるのを防ぐ意味合いを持っている。

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そのような場所にこの立派な地蔵堂があり、9基の石仏石碑があるのは極めて意味の深いもので、何百年もの伝承が残っているといっても良いかもしれない。 9基の時代はまちまちだが、不詳のものを除くと、1700年頃から明治時代までのものが並んでいる。

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2018年6月 6日 (水)

大聖寺坂(杉並区掘の内)

中野区方南町から西へ続く方南通りは西永福で井の頭通りにぶつかる。 その手前北側に創建1063年の大宮八幡宮がある。源頼義が奥州征伐後、京都の石清水八幡宮の分霊でここに建てた神社と伝えられる。

大宮八幡宮から東へ参道が伸びている。 諸説あるが、東国から京都を守る意味合いの向きという説が個人的には支持したい説。 この東の参道が方南通りにぶつかるところから、北に下るのが大聖寺坂である。

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大聖寺坂は大宮小学校前を下っていく。 この大宮小学校の場所に大聖寺があったため、坂名になったと伝えられるが、大宮小学校は明治10年の開校なので、明治初期の廃仏毀釈時代に廃寺になったのだろうかと考えた(実は違っている)。

しかし杉並区の資料を見ると、ここにあった寺は大正寺といい、学校の敷地は善福寺川の方から見ると丘になっていて、大正寺山と呼ばれた。その西側を下る坂ということで大正寺坂だが、この大正寺に祀っていたのが大聖不動明王だったので、大聖寺の方が正しいかもしれないと資料には書かれている。

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伝承では大正寺は慶長年間(1596~1614)に妙法寺に移ったと言われるが、定かではない。 そうなると江戸時代の間ここには何があったかということだが、一説には不動明王はこの地に残っていたとも言われる。

さらに別説で、後に(後三年の役時代)八幡太郎義家が戦勝してここを通ったので、大勝利の坂→大勝坂→大聖寺坂となったというのもある。 関東には鎌倉伝説が多くて紛らわしい。

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2018年6月 5日 (火)

山王坂(杉並区松ノ木)

京王井の頭線永福町駅前で井の頭通りと交差する南北の道は古道である。 甲州街道の下高井戸から永泉寺坂を下り神田川を渡る。永福町の駅前を通り、大宮八幡宮の参道に至ると、さらに北上し善福寺川を渡り、青梅街道に至る道である。 永福町駅の北側は左斜めにはいる細い道が古道でいささかわかりにくいが、大宮八幡を目指せばほぼ間違いはない。

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大宮八幡先で善福寺川を越えると、和田堀公園の間を進む。 この辺りは川沿いでもあり、古くから人の営みがあった場所。 松の木遺跡の復元住居は古墳時代のものだが、実際には縄文時代の発掘物も多いようだ。 そんな川沿いから北に上っていくのが山王坂である。

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カーブしながら上っていく様子は古道であることの証でもある。 山王坂の名前の由来は、この台地に山王社の小祠があったのでこの名が付いたという。 坂下の和田堀公園には池があり、カワセミも棲んでいる。 様々な鳥類が集まり、バードウォッチャーも多い。

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2018年6月 4日 (月)

三年坂(杉並区成田西)

三年坂という坂道は都心にもいくつかある。だいたいがこの坂で転ぶと3年以内に死ぬという根拠のない伝説めいた理由で付いた名前。 そして近くには墓地か寺があるというパターンである。 杉並区の五日市街道近くにある三年坂もその域を出ていないことが歩いてみて分かった。

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杉並第二小学校の校門前に杉まるくんというコミュニティバスの三年坂というバス停がある。 バス停名になっていることがうれしい。 そして、校門脇には区教育委員会の説明を書いた金属板が立っている。

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「この右手の坂道は「三年坂」と言われていますが名称の由来は、はっきりしていません。三年坂と呼ばれている坂は、京都や熊本地方などにも数多くあり、坂名の由来について様々に言われているようです。

東京では、江戸時代より三年坂と呼ばれていた坂は、旧東京市内も六か所ほとあるようです。いずれも、地域の境界にあり、昔は急坂で、寺院や墓地がそばにあったり、または、寺院から見えるところにある坂ばかりです。

この坂で転んだものは、三年きり生きられないとか、三年たつと死ぬとか言われた伝承がありました。当地のこの坂も、ほぼ同様のいい伝えが残されており、かつては、尾崎橋から宝昌寺北へ一直線に上がる坂で成宗村の村境に位置していたと思われます。

明治時代のころの地図でみますと、崖端を直線で登る車馬の通行困難な急坂で、宝昌寺のうっそうとした森と杉二小の崖に挟まれた昼でも暗い、気味の悪い物騒な感じのする所だったようです。そこで、人々は坂の往き来に用心が必要だと言うことから三年坂の名をつけたのではないでしょうか。

通称地名には、昔の杉並をしのばせるものがたくさんあります。この坂の地名も大切に伝えてゆきたいものです。」

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現在でもかなりの勾配の坂になっている。 坂の南側は宝昌寺という寺と墓地である。 しかし北側が小学校なので、子供たちの声が響いて明るい。 さらに坂下は善福寺川緑地の広場になっていて、周辺の子供たちの遊び場になっている。

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2018年6月 3日 (日)

白幡の坂(杉並区成田東)

高円寺の青梅街道から南へ分岐する五日市街道を下ると、成田東で善福寺川(神田川の最大支流)を渡る。 この橋が尾崎橋。川の西側の昔の地名が尾崎で橋の南側の緑地は尾崎田んぼと呼ばれた農地だった。 その地区名が付いた尾崎橋の東側を一部あたかも旧道ですという風に回り込む路地がある。 ここを入ると白幡の坂になる。

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上の写真の左側の道が馬場みち、右側が五日市街道の旧道白幡の坂になる。 旧道と言っても、明治時代以前の旧道で、大正時代には今のバス道路が開通していた。 この旧道を進むと五日市街道に戻るが、道の向こう側にまた別の旧道が南側についている。 明治時代の旧道が今でも残っているのはこの辺りではここだけである。

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上の写真は左側の道(馬場みち)、下の写真が右側の道(白幡の坂)である。資料によって馬場みちと白幡の坂が逆のものがある。白幡の坂の名前の由来は、やはり昔の地名である。 江戸時代、この辺りは成宗(なりむね)村であった。一方、善福寺川の西側は田端村。 地名としては川の西側が尾崎、東側が白幡という字名になり、その名をとって白幡の坂である。

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馬場みちも江戸時代からの道で、青梅街道の阿佐ヶ谷への近道だった。白幡の地名は、源頼義が奥州征伐の際にここを通過した時、源氏の白幡の様な瑞雲が現れ、これが因縁で大宮八幡宮が勧請されることになった。その白幡が見えたあたりを白幡、尾のあたりを尾崎と名付けたという。

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この白幡の坂の分岐に地蔵堂がある。両脇に地蔵菩薩が2基、間に馬頭観音が1基、右から元禄11年(1698)、宝暦10年(1760)、宝暦3年(1753)とある。 街道沿いの辻にはよく石塔がある。 特に難所があると馬頭観音が祀られている。 昔はこの坂も旅人を難儀させたのであろう。 五日市街道は昔は悪道で知られていたようだ。

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2018年6月 2日 (土)

地蔵坂(高円寺)

中央線には国分寺、吉祥寺、高円寺と寺の付く駅名が多い。国分寺は武蔵国分寺で江戸以前の関東の中心地だが、吉祥寺には吉祥寺がない。それについてはここでは触れないが、高円寺には高円寺がある。宿鳳山高円寺が駅の南東にあり、この寺は家康が元服し、家光が鷹狩りの折に好んで立ち寄ったという。

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地蔵坂という名前の坂は多い。 そこに地蔵があれば地蔵坂となるのは至極自然なこと。 この坂にも昔、坂脇に六地蔵があったが、現在は高円寺に保存されている。梅園川緑道の中島橋跡から南に路地を進むと間もなく分岐。 左側が地蔵坂である。

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現在は小さな路地だがこの道は江戸時代から続く道。 宿鳳山高円寺から青梅街道に出る道で、家光もおそらくここを何度も通っただろう。 東京の街にはこんな道が埋もれているから面白い。 青梅街道からのこの道を戦後環七が分断した。今ではこんな路地だが、もっと謳ってもいい気がする。

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坂上には区立の高円寺図書館、高円寺体育館がある。 地蔵坂の坂下あたりには、「六つ塚」という大きな塚があり、周辺の開発時に崩されてしまったが、発掘された刀などから、太田道灌と豊島氏の戦の死者を葬った塚ではないかと言われている。 兵どもが夢の跡、街中でそんなものに出会うこともある。

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2018年6月 1日 (金)

六号坂(幡ヶ谷)

現在の新宿新都心の高層ビル群は昭和中期まで淀橋浄水場だった。 明大前にある和泉浄水場とこの淀橋浄水場を直線で結ぶ水道があり、玉川上水新水路という名で明治時代に作られた。 明治になって玉川上水を管理する役人が廃止され、汚水や動物の死骸が流れたり、勝手に舟を通行させたりと野放し状態になり、水質が極度に汚染された。 明治19年にはコレラも流行し、治水の改善を明治政府は迫られる事態になり、 それを解決したのが、浄水場と新水路であった。

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水道道路側には街灯が立ち、六号坂通りというハチマキ看板が付いている。 玉川上水の新水路なので付近では尾根筋にあたる部分を通っているため、ここが坂上になる。六号坂は笹塚の十号坂と並んで、戦後商店が立ち並んだ賑やかな通りとなった。

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商店街を入り少し歩くと途中から明らかな下り坂となる。 六号坂というのは、坂上の上水にかかっていた六号橋が由来。 淀橋浄水場から一号橋、二号橋、と架かっていて、ここが6番目の橋だった。大正初期の地図を見て、角筈の橋から数えると見事に6番目がここになるのは当然だ。

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坂下で商店街を出て少し進むと新道橋跡がある。 西側は幡ヶ谷新道公園になっている。 ここは神田川笹塚支流(和泉川)の跡で暗渠になっている。 この川が台地を削ってできた坂が六号坂であり、十号坂である。 暗渠については別の機会にしたいが、この和泉川の暗渠は歩いて楽しい暗渠としておすすめ。

ただ商店街はまだ元気だとは言うものの、昭和の賑わいはなく、徐々にシャッターを閉じた店舗が出てきているのが残念である。 東京というバケモノが過去の遺産を食い尽くして廃墟にしてしまう、街を観察しているとそんな気がするときが増えてきたように思う。

かつてのこういった商店街は数十年の命、しかしその商店街に致命傷を負わせたスーパーやショッピングセンターはその半分の寿命、さらに建築のための街づくりをする都心ももはや日本人だけでは投資回収が困難になり、インバウンド頼りになりつつある。都心の巨大開発はもっと短い命だろう。 経済がロービームで足元だけを照らすのも、政治もロービームだからである。その先にあるものを見ることが出来ないトップだらけになりつつあるこの国には、大きな不安が付きまとっている。

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