蝉坂(北区上中里)
京浜東北線の都内の駅の内もっとも知られていないのがおそらく上中里だろう。 田端と王子の間にあるこの駅は、縄文海進の時代は波打ち際だった。 駅からいきなり崖を登るような地形になっているいわゆる海食崖である。 この海食崖を切通しで上るのが蝉坂。 現在の坂は昭和18年に拡幅されて、元々の道を均して広げたもの。 それ以前の坂は、かなり難儀な坂だっただろう。
蝉坂はカーブしながら高度を上げていく景色の良い坂道。 坂道の説明をした標柱がある。 その説明書でいきなり「六阿弥陀道の途上でもある蝉坂」と書かれているので、六阿弥陀道を調べてみると、行基が一本の樹から彫り上げた6体の阿弥陀像が6つの寺に安置されており、それを巡るのが六阿弥陀道のようだ。
江戸時代この6寺を巡るのが流行し、上豊島村西福寺(北区)、下沼田村延命院(足立区)、西ヶ原無量寺(北区)、田端村与楽寺(北区)、下谷広小路常楽院(調布市に移転)、亀戸村常光寺と巡ったそうな。 蝉坂の上には無量寺がある。隣の田端駅の上には与楽寺が、西福寺は無量寺のさらに先の駒込の西福寺だろうか。 ともあれ江戸時代から人々が行き交う坂であったことは間違いない。
坂の切通しの上には平塚神社がある。 これは平塚城址でもあり、平安時代以降に豊島郡を治めた豊島氏の居城であった.。 後三年の役で奥州平定をした源義家が、その帰途にここ平塚城に立寄り、豊島氏が心から歓待したので、義家は返礼に鎧を与えた。豊島氏はその鎧を城の護りとして埋め、その上に平たい塚を作った。 これが平塚の名の起こりである。
しかし豊島氏は室町時代になると小田原から関東を支配しようとする上杉氏と対立関係になり、やがて上杉家臣である太田道灌により落城させられてしまった。 太田道灌はこの坂から攻め上がり平塚城を陥落させ、豊島氏を滅ぼした。
蝉坂という坂名は、もともとは攻め坂という名で、それが訛って蝉坂となったと伝えられる。室町時代の城というのは天守というよりもおそらくは館のようなものだったと思われるが、この崖線からは隅田川沿いの湿地帯を見渡せたはずである。 ロケーションとしては典型的なものだと言える。
駅の北東側は4mの標高だが、神社は24mある。 20mの高低差があるので、ビルの5階くらいから見渡す景色だったはず。 一方坂の反対側(東側)は江戸時代には御用屋敷とあり、将軍鷹狩り場だった。 明治までこの辺りには、狐、イタチ、兎、雉などが棲息していたと伝えられている。
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