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2018年7月18日 (水)

東覚寺坂(田端)

田端駅前(北口)の通りは新しくできた都道458号線。 動坂下から田端駅周辺までの通称道路名は田端駅前通りという平凡な名前。 低地との標高差20mほどの上野台地の半島地形を切通しで抜ける。 この切通しが作られたのは関東大震災の復興時あたり。 法面には見事に石垣が積まれているのは、大正~昭和初期の高い土木技術のなせる技だろう。竣工は昭和8年とある。 この石垣の南側には芥川龍之介らの文士村があった。北側の崖上の道は途中で折れており、芥川旧居に向かう。 一方南側は切通し先の田端八幡下から上り坂で台地上まで上っている。 これが東覚寺坂である。

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坂下の都道の歩道に青銅の読みにくい説明板がある。『田端切通しにそって台地へ上がる旧坂で、昔は田端八幡神社の別当寺東覚寺墓地への参道で、「東京府村誌」に長さ20間、広さ1間3尺と記されている。寺の前には、2基の大きな仁王の石像があり、病のある部分に赤紙を貼ると、病がなおると信仰されており、谷中七福神の一つ、福禄寿も祀ってある。蜀山人の狂歌「むらすずめ さはくち越えも ももこえも つるの林の鶴の一声」の碑がある。』と書かれている。

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東覚寺の山門脇にある赤紙仁王尊(1641年作)はユニークだ。 九品仏堂の前にある金剛力士像には赤紙がベタベタ貼られている。 通称赤紙仁王と呼ばれ、病を患った人が自分の幹部と同じところに赤紙を貼ると治癒するという信仰である。 江戸時代は田端八幡の門前にあったが、明治初期の廃仏毀釈運動でここに移された。 こういう庶民信仰は実に面白い。

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東覚寺坂は、昔、東覚寺の墓地が田端八幡の北裏にあった頃、葬送の列が神社を通ることは許されないために開かれた坂である。 昭和に入って切通しの都道が出来たため、その側道的な位置づけになってしまったが、江戸時代からの道は形を変えながら今に残っている。

もともと江戸時代まではお寺と神社と庶民信仰が見事に融合して民間信仰を形成していたのに、明治の廃仏毀釈で日本の文化そのものがかなり破壊されてしまった。 これは日本の歴史の中でも最大級の汚点だと思っている。 時に人は集団になるとこういう愚かなことをやってしまう。 しかしそういう行為をする文化がすぐに滅ぶことも、大日本帝国やドイツナチス、イスラム国などを見れば容易に理解できる。 つくづくもったいないことをしたものだと思う。

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