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2018年8月31日 (金)

石坂(北区赤羽台)

赤羽八幡神社は赤羽台の最も北東の突端にある。 西側は星美学園だが、戦前は赤羽工兵隊の兵営だった。明治20年頃から工兵営が作られ、赤羽には多数の軍施設が出来、日清・日露戦争の頃は戦争景気に赤羽が一気に栄えたという。 そんな一角にある八幡神社だが、創建は古くて不明、少なくとも1000年は下らないという。 その赤羽八幡神社の参道の階段が石坂である。

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この赤羽八幡は新幹線が下をトンネルでくぐっている事でも有名。 赤羽駅を過ぎて大宮方面へ向かうとすぐにトンネルに入るが、そこがこの八幡神社の境内。 トンネルは稲荷の坂上にある東京北医療センターの足元で再び地上に姿を現す。

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この神社で違和感を感じたのは、社殿よりも社務所の方が数m高いところに建っていることである。 そして新幹線と埼京線はこの社務所の下を走っている。 過去の地形図ではそれほどの高低差は見られない。 新幹線を下に通したときに盛土をして建て直したようだが、社殿から22段ほどの階段を上って社務所に行くパターンは他に例を見ないように思う。

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境内の端からは、鉄道ファンなら垂涎ものの景色が見られる。 足元に潜り込んでいく新幹線と埼京線、その向こうには曲がりながら東に避けていく京浜東北線と高崎線。 訪問時も何人かの撮り鉄ファンがいた。

ちなみに石坂というのはこの階段下にある石碑に彫られているだけで、他には何の説明書きもない。

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2018年8月30日 (木)

八幡坂(北区赤羽台)

八幡坂と書いて「やわたざか」と読む。 はちまんざかではない。確かに坂下近くに赤羽八幡があるが、この坂は八幡(やわた)坂である。 比較的新しく昭和の初期に開かれた坂道である。 大正以前はこの坂の北側に谷がありその崖線沿いに引込線が走っていた。 周辺に多数あった軍施設への物資輸送のためである。

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坂はゆるやかなカーブを描きながら標高を上げていく。坂上に北区立八幡小学校があるがこの呼び方は「はちまんしょうがっこう」なのでいささか紛らわしい。 昭和29年の創立で、昭和30年代前半には850人もの児童数があったが、最近は100人前後。 向かいにあった赤羽台中学校は2006年に廃校となり桐ヶ丘中学校と併合した。 現在は東洋大学赤羽台キャンパスになっている。

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この東洋大学になった赤羽台中学校の土手に八幡坂の石碑があったが、2016年頃撤去された。この石碑の下のプレートには以下のように書かれていた。

「板橋街道は宝幢院前で岩槻街道(日光御成道)と分かれ中山道に至る道ですが、大正8年旧陸軍被服本厰が赤羽台に移転してきて、道の一部が敷地内に入ったので、一般の通行のため同厰北側に設けられたのがこの坂道です。 八幡坂の名は、この北にある八幡谷に因んだ地元の呼称で、それが定着したものです。」

坂のやや下側にある墓地はこの宝幢院(ほうどういん)墓地らしいが、肝心のお寺がない。 調べてみると京浜東北線の東側にあることが判った。正式名は医王山宝幢院東光寺、珍しく院号で呼ばれる寺院である。

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2018年8月29日 (水)

うつり坂(北区赤羽台)

うつり坂、何とも不思議な名前の坂道である。 あちこち調べたが坂名の由来は分からない。 もともとこの道筋は江戸時代から地方幹線のような道で、岩槻街道と中山道を繋ぐ横の道だった。現在の国道122号線の荒川大橋は昔は岩渕の渡しといって、隅田川(荒川)を岩槻街道で越える渡し船があった。それを渡ると岩渕街道は赤羽で王子方面に進路を変えるのだが、そのまままっすぐにいくとこの道でうつり坂を上って志村で中山道に繋がるのである。

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坂の途中に標柱が立っている。

「赤羽台東小学校の北にあるこの坂は、旧板橋街道の坂道の一つです。大正8年(1919)に旧陸軍被服本廠(ほんしょう)が赤羽に移転すると、被服本廠通用門への坂となり、関係者以外の通行は出来なくなってしまいましたが、戦後、被服本廠の跡地に赤羽台団地が出来たため、元の坂道となりました。かつて坂の上には道祖神、庚申塔がありましたが、現在は団地内に移され、祀られています。」 とある。

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渋谷区青山の「勢揃坂」であの裏道の坂が江戸時代以前は鎌倉道で、岩渕の渡しを渡って北へ行くルートがあったというから、岩槻街道は相当古いが、うつり坂は中山道が整備されてから開けた道だったのではないだろうか。 それでも400年くらいはここにずっと道があるということである。だからいつだれがうつり坂と呼び始めたのかもわからないのだろう。

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坂の周辺は赤羽上ノ台遺跡の発掘地である。縄文時代からここには人が住み、弥生時代、奈良時代、平安時代などの遺構が発見されている。 少し北側の赤羽八幡神社あたりまで行くと、旧石器時代の出土品もあるようなので、この辺りは1万年の歴史があるわけだ。

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2018年8月28日 (火)

稲荷の坂(北区赤羽北)

赤羽台の台地の北の崖線に沿って歩く。 袋諏訪神社から東に進むと、東京北医療センターの巨大な建物が台地側に、反対の崖線下には北赤羽のマンション群が見下ろせる。 途中の遊歩道の下り坂の向こうには、埼京線と東北上越新幹線が並走してこの台地の下のトンネルに入っていく。

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その路が細くなっていくと同時に高度を下げていく。 これが稲荷の坂である。 山側は社会福祉法人扶助者聖母会星美ホーム、崖側は斜面を工夫した民家が並ぶ。 稲荷坂から入ると3階で下の路地は1階というような家が並ぶ。

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坂を下りきったところに標柱が立っている。

「この坂道は、赤羽北1-3・4地先から赤羽台4丁目公園付近まで続きます。道筋としては赤羽根村と岩淵宿の境付近で日光御成道(岩槻街道)と分かれ、袋村を経て小豆沢村へと向かう鎌倉道でもありました。昔は坂を登りきると正面に富士山を望むことができたそうです。坂の名称は特にありませんでしたが、坂の途中にある稲荷社にちなんで稲荷の坂ともよばれるようになりました。」 とある。
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坂下の角には郷蔵跡と稲荷神社がある。そしてその手前には庚申塔と供養塔が並んでいる。とても古いものだ。

ここは江戸時代の袋村の共同蔵で年貢や不作に備えて作物を保管していたもの。そして庚申塔と供養塔の時代は、1668年~1704年のもので、300年を超えるだけに傷みも激しい。何とか保全をと願うばかりである。

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2018年8月27日 (月)

宮の坂(北区赤羽北)

宮の坂については江戸時代からの旧道で、諏訪神社の元々の参道前から袋村に下る道として話を進めたい。 江戸時代はこの崖線下に用水路らしき水線があったようだが、古地図で確認してもどうも諏訪神社周辺が曖昧である。 地形からすると神社の下を流れていて、崖線下の道と並流していたと考えるのが自然である。道の崖側に水路があり、それは低地に水を供給する為に少しだけ高い所を流れていたはずだ。

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諏訪神社の正しい名前は「袋諏訪神社」。信州の諏訪神社(諏訪大社)を勧請して、1396(応永年間)に創建された江戸時代の袋村の鎮守である。 諏訪神社は総本社の情報によると全国に1万社あるという。 日本でも最古の神社のひとつで古事記にも登場する。

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袋諏訪神社も切通しの宮の前の坂に分断された赤羽側の社地を少しずつ切売りしているようで、諏訪通りから分かれる宮の坂の辺りは更地にされていた。ここから崖線の林に向かって下る路地がかつての袋村への宮の坂である。

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この辺りは古い樹木も多く残された貴重な樹林で、坂を下る道の木陰が心地よい。坂を下った辻にあるのが、やぶ廣という蕎麦屋さんだが、開いているのだか閉まっているのだかよくわからない。 いずれ消えていきそうな坂道だが、とても貴重な歴史と環境を持つのでできるだけ頑張って残してほしい思いがある。

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2018年8月26日 (日)

宮の前の坂(北区赤羽北)

ここはいささか複雑な坂である。 おそらく区の教育委員会も結論を見いだせていないと思われる。 というのも、どれが宮の坂かが確定しないので、宮の前の坂という微妙な坂名を使わざるを得ないのである。

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写真のカーブの途中に路地が横断している。 一応これを宮の坂とすると、この広い坂が宮の前の坂ということになる。坂の標柱は路地との交差点にあり、どっちを指すのか微妙で、北区も苦肉の策だったのかもしれない。その標柱には次のように書かれている。

「坂の名前にある「宮」は、この地域の旧村名である袋村の鎮守、諏訪神社のことを指しており、坂道はこの神社の参道を経て赤羽方面へと抜けていきます。神社の二の鳥居前にも切通しの坂がありますが、これは新しく出来た坂で、宮の前の坂と呼ばれています。この坂も宮の坂と同様に交通量が多い坂です。」

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宮の前の坂は後年境内を分断して切通された道である。 そのため、階段のとりつきに無理やりな感じが残る。その辺は坂学会のHPで中垣氏が「坂に参道を分断された諏訪神社」というテーマで書かれているが、概ねその通りだろうと思う。

また、2003年以前に立っていた標柱の文言は次の通りだったようだ。

「旧袋村から赤羽に抜ける重要な坂で諏訪神社の参道に続く。「宮の坂」の宮はこの神社のことである。今も舗装前の様子を思い浮かべれば、樹木の多いこの坂は、浮間の桜草狩りの渡し場へのにぎわいがよみがってくる。参道を切断し、二の鳥居前にできた切通しの新坂は宮の前の坂といわれ交通量も多い。」

先の説明だとこの坂は無名坂で、神社前で交差する諏訪通りの坂が宮の前の坂ということになる。(下の写真の坂)

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しかし標柱の場所からすると、広いほうの坂がやっぱり宮の前の坂なのである。また、後の方の旧標柱の説明だと、神社の下で交差する道が袋村から赤羽への道で、わずかに残された路地が宮の坂ということになり、宮の前の坂は二の鳥居前に出来た切通しの坂だから広い坂道が宮の前の坂ということになる。なかなか難しい坂なのである。

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2018年8月25日 (土)

ふか坂(北区赤羽北)

念仏坂の坂下の道はその西側で崖下にまっすぐ行く道と分かれて、斜面を上っていく。雪印乳業東京工場跡の東京メガシティを取り巻くように緑の土手が築かれて、とても明るい道になっている。 この明るい坂がふか坂。 別名を馬坂とも呼ぶ。

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坂下の土手の植込みに標柱が立っている。 金網塀もあって草も生えていて、読みにくい場所にあるので説明書きを読むのが難儀である。

「赤羽北3丁目と板橋区小豆沢4丁目の境を南西に登る坂です。坂名は、うっそうとした樹木におおわれて、谷深い中を蛇行している坂であったことによります。坂を下って北へ行くと荒川にでます。そこは、かつて袋村河岸があり、地元では大根河岸とも呼んでいました。この坂は袋村河岸から中山道への通路にあり、馬坂とも呼ばれていました。」 と書かれている。

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今は樹木の生い茂っていない明るい坂である。雪印工場の頃はどうだったのだろう。 ただ、この坂道は江戸時代から小豆沢村の崖線の上下を往来する道だった。 古い地図を見ると、崖下の新河岸川までは田んぼ、台地の上は畑である。

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2018年8月24日 (金)

念仏坂(北区赤羽北)

殿山の坂を上りそのまま進むと、袋町公園に出る。 その先から崖線下に降りるのが念仏坂である。坂の南側は巨大マンションの東京メガシティ。 この辺りの風景を一変させた。 マンションができる以前は雪印乳業の東京工場(2002年に閉鎖)。

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「かつては、細い淋しい坂であったが、今日では整備されている。登りきったところに真頂院持の墓地がある。坂の名はその故か。」と北区のHPには書かれている。 しかし墓地などどこにもない。 ただ大正時代の地図を見ると念仏坂の坂上には墓地の地図記号がある。 それで念仏坂と呼ばれるようになったのかもしれない。

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殿山の坂同様に車の通行は不可である。 傾斜が急なので手摺りがついている。 この崖線についてだが、小豆沢の地名と関係がある。 江戸時代この辺りは小豆沢村という農村だった。 アズというのは崖を意味する言葉で、多摩地区のハケと同じ意味である。当然湧水などが集まった小沢もあったりして、崖の沢の村の意味で小豆沢となったのだろう。

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2018年8月23日 (木)

殿山の坂(北区北赤羽)

赤羽駅北にある赤羽台の星美学園から志村三丁目の志村城址までまっすぐな崖線が伸びている。 不思議な地形である。 北側の低地を流れるのは隅田川、江戸時代の呼び名は新河岸川。 およそ20mの崖が3㎞続いている。 武蔵野台地の本郷台北端と荒川低地の沖積層の境目だが、ここは崖の上と下で全く地形が異なる。

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北赤羽駅から環八通りを横切り袋小学校脇の路地を進むと崖線が良く見える。 崖下の道に出るとすぐに階段坂がある。 これが殿山の坂である。 かつて坂下には標柱があったが、それには次のように書かれていた。

「袋小学校前から台地へ登る階段の坂で、殿山の名は台地上の旧字名に由来する。昔、台地には人家が無く一望の畑地で、人がやって通れる農道であった。」

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江戸時代はこの辺りまで諏訪神社の社域。 神社の裏の山で殿山と呼ばれる字名であったのが坂名の由来。 2002年までこの殿山の坂の崖上も小学校で北園小学校と言った。 小学校が崖の上と下で並んでいたのである。崖上の団地の人口が激増し、袋小学校分校だったのが、北園小学校になった。現在はさくら荘という特別養護老人ホームになっている。

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2018年8月22日 (水)

稲付城址坂(北区赤羽西)

赤羽駅西口にある稲付城は太田道灌が築城した戦国時代の砦である。 天守閣などはなかった。 この辺りは鎌倉時代から岩渕宿が発達し、室町時代には関所も設けられる街道の要所になっていた。 稲付城は三方を丘陵の崖に囲まれた土地で、江戸城と岩槻城の間の砦という位置づけだった。

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現在城址には静勝寺がある。開山は1504年、太田道灌の時代に始まり、江戸時代を通じて太田氏の菩提寺だった。 赤羽駅の喧騒も届かない丘陵の林の中にある静かな寺院である。この丘の別名を道灌山と呼ぶが、それは太田道灌に因むものだと言われている。

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この静勝寺の参道の階段が稲付城址坂である。 右左にそれぞれ女坂と呼んでも良いような道が付いている。 なかなか傾斜のきつい階段の坂で、それぞれの段石には鑿(のみ)の跡もくっきりと残っていて、素晴らしい。 両側に手すりが付いているが、あるとないとでは安心感が全く違うだろう。

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階段を上りきると山門があり、手前の地蔵の土台に「稲付村」と彫られている。 城址は一帯が遺跡だが、古墳時代のものも出土している。 また周辺の発掘では幅12m深さ6mもの空堀も見つかっており、戦国時代の砦を彷彿とさせる。

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2018年8月21日 (火)

庚申坂(北区赤羽西)

庚申坂は赤羽駅から西に延びる弁天通りが谷あいの低地から台地に上る坂道である。 この通りが開かれたのは、関東大震災以降。 それ以前は田んぼの低地から、台地に向かって緩やかな斜面が広がる農村風景だった。

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亀ヶ池に流れ込むこの谷の川の源頭は桐ヶ丘辺り。 そこから下流に現在の赤羽自然観察公園を経てこの低地に流下していた。 庚申坂の脇から赤羽自然観察公園が広がっている。公園は戦後、自衛隊十条駐屯地として使用されていた場所だったので、開発の手を免れた。

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庚申坂は緩やかにカーブしながら高度を上げていくが勾配は少ない。 北区のHPには簡素な説明が載っている。

「弁天通りが西が丘へ力ーブして登る坂で、坂上の字庚(あざかのえ)塚へ通ずるところからこの名が生れたという。」

字庚塚の場所は特定されていないが、公園の北西エリアにある大塚古墳の辺りではないかと言われている。 大塚古墳は古墳時代の遺跡だが、周辺を取り巻く島下遺跡は縄文・弥生時代の遺跡。 この谷あいの源流域には何千年も前から人々が生活をしてきた歴史がある。

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2018年8月20日 (月)

法安寺坂(北区赤羽西)

稲付城の岬地形の尾根筋を走るのが三岩通りといい、街灯には三岩通り商店会とあるものの、実際の商店はまばらで少ない。  かつては賑やかだったのだろう。 昭和後期の地図を見ると、蛇坂の上、稲付中学校前から西が丘まで結構な商店がある。 この三岩通り沿いに赤羽駅側から、蛇坂、市場坂、そして法安寺坂が南北に走り、台地の上下を結んでいる。

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坂上から望むと、窪地の向こうに赤羽台団地の大きなマンション群が良く見える。 関東大震災以前はのどかな田園風景が広がっていた。坂の途中に坂名の由来の法安寺がある。法安寺の由緒についてはよくわからない。

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坂下に標柱がある。

「赤羽西保育園・法安寺の西を経て第三岩淵小学校の北東角へ登る坂。坂名は法安寺にちなんでいる。昭和3年頃法安寺は法安堂といい、堂下には3つの泉があった。周辺には願行の太鼓が鳴り響き、西側の庚申坂より先へ草原が広がっていたという。」 と書かれている。

この辺りも関東大震災で都心が焼けた跡、急速に開発されたが、軍施設が多いのでかなりひどい戦火に見舞われた。

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2018年8月19日 (日)

蛇坂(北区赤羽西)

稲付城の突端台地から北の弁天通りに下る坂はいくつかあるが、この蛇坂は緩やかにカーブしながら崖線を斜めに上っていくのが特徴である。 坂の初めは少し勾配があるが、すぐに傾斜がなくなる。 そこからはじわじわと緩やかな坂で上っていく。

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緩やかなので高度が上がっていることに気づきにくいが、途中までくると傾斜がややきつくなってきて曲がりながらの上り坂になる。 中腹の辻ではすでに稲付城側から下る坂も、低地に下りる坂もかなりの階段坂になっていて驚く。

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この辺りで坂の中腹に達している。 坂の曲がり具合から蛇坂と呼ばれるが、六右衛門坂の別名がある。坂上に旧家、鈴木六右衛門氏宅があってそれが由来である。また周辺の江戸時代の村名は稲付村。 これは洪水で荒川沿岸の村々の稲がこの辺りに流れ着いたことから付いた地名。

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坂上に標柱が立っている。

「この坂は蛇のようにくねっているところから名がついた。蛇坂とその西にある市場坂の谷を北谷(きたやつ)といった。谷の奥に湧き水があり釣堀があった。夏の夕暮れどきこの谷の空を埋めつくす程ヤンマが飛び交い、この坂でとんぼ採りをする子供でにぎわったという。」

北谷というのはこの谷の川が江戸時代は低地の両側に流れていて、台地側の人々はこの谷地で自然に戯れる子供時代を送ったのだろう。

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2018年8月18日 (土)

弁天池の坂(北区赤羽西)

赤羽駅西口のイトーヨーカドーの裏手、もとは川筋だった弁天通り。 その名の由来でもある亀ヶ池弁財天は静勝寺の弁天を勧請して祀る地元の弁天講による弁財天で、歴史はかなり新しいもの。 昭和の後期、1980年頃のものらしい。

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江戸時代は亀ヶ池という大池の周りに湿地帯が広がっていたようだが、その亀ヶ池の北側の湿地帯の名残りがこの弁天の池かと思われる。 弁天の脇から路地はさらに伸びるが、その先の辻で崖線に出くわす。

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ここを上るのが弁天池の坂。 昭和の新坂である。

「亀ヶ池弁財天の西から南に赤羽台団地へ登る坂で、昭和34年(1959)から始まった赤羽台団地の造成にともなってできた新坂です。かつては、亀ヶ池弁財天から東北に登る坂があり、これを池の坂といいましたが、団地造成の時になくなりました。坂名は、この池の坂と亀ヶ池弁財天にちなんでつけられました。亀ヶ池は大正元年(1912)11月にほとんどが埋立てられ、現在はわずかに亀ヶ池弁財天にその名残りをとどめています。」

と北区の説明には書かれている。

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坂上は赤羽台団地の台地である。 大正時代から戦前にかけて、軍の被服庫だった頃、この坂上近くまで西側から引込線の鉄道が入り込んでいた。 坂上の遊歩道はその鉄道跡である。 被服庫は昭和中期までそのまま残っていたが、1962年に住宅公団の初期の大団地である赤羽台団地になった。 

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2018年8月17日 (金)

弁天坂(北区赤羽西)

赤羽台と稲付城の台地に挟まれた谷から南側の稲付城の台地に上る坂道。 なかなかの急勾配で谷底の道から尾根筋の道へ上っていく。 坂下の目印は今は珍しくなったコンビニのサンクス。 しかしコンビニの出退店は激しいのでランドマークにはなりにくい。 一辻先の赤羽西4-21-24の茶色のタイルの民家の方が坂下の目安になるかもしれない。

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坂を上り始めて間もなく右手に小さな祠がある。民家の屋敷神のようだが、道路に面していて地蔵尊が祀られている。 年代などは不明。  小さいながら弁天坂の中では存在感を放っている。

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坂下標高7m、坂上が21mで高低差は14mある。 坂下の弁天通り辺りはかつて大きな溜池だった場所。 江戸名所図会には「静勝寺 亀ヶ池 五葉松」とあるが、これは現在の京浜東北線の方から稲付城を眺めた構図。 稲付城の向こうに大きな池があり、それが当時の亀ヶ池である。

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「赤羽西四丁目の南の台地に登る坂。亀ヶ池の跡地には、現在商店が立ち並び道路も整備され、弁財天が祀られている。弁天祠に近い坂なのでこの名がつけられた。」と北区のHPにはある。

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2018年8月16日 (木)

三日月坂(北区赤羽西)

中坂の坂上から北に下る急坂が三日月坂である。 坂上には勾配20%の道路標識がある。 上部は標識通りの急坂になっている。 周辺の地形は興味深い。 北東に延びた突端地形の先は稲付城址。 稲付城は太田道灌が築いた戦国時代の砦の跡。 その首根っこから北側の谷に急落するのが三日月坂である。

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坂は少しだけ曲がっている。 この坂の周辺が開発されたのは昭和初期。 坂下の平たい低地は大正時代まで田んぼだった。坂下の窪地にある亀ヶ池弁財天の東側、現在のイトーヨーカドーの裏手は明治の初期まで大きな溜池だったようだ。

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坂上に標柱があり、次のように書かれている。

「道灌湯から東南に登り中坂へでる坂です。道灌湯のあたりに、大正3年(1914)帝国火工品製造所(導火線工場)ができ、この工場のためにできた坂といいます。工場へ往来する馬車などでにぎわいましたが、大正4年5月に工場は爆発事故で焼失しました。その後このあたりは住宅地となり、坂を登りきった北側あたりに三日月茶屋ができました。坂名はこれに由来しています。また、道灌湯が開業したことから道灌坂とも呼ばれています。」

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坂下の道灌湯は現在はない。 2006年に廃業したとある。 もちろん三日月茶屋もない。 しかし赤羽の地形を理解するのに重要な坂道である。 谷の奥には赤羽自然観察公園があり、縄文後期からの沼地や湿地が今に残されている。

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2018年8月15日 (水)

中坂(北区赤羽西)

中坂も江戸時代からの古道である。 昔は普門院の裏手から、真正寺坂に出る農道クラスの道だった。 真正寺坂の坂上近くにこの道とつなぐ無名の階段坂がある。  この階段坂は後の時代に7mほどある二つの坂を結ぶ目的で開かれたと思われるが、江戸時代の切絵図になるとここに道があったように描かれている。 明治頃にいったん消えた道が昭和初期に復活したのだろうか。

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中坂は徒党460号線(旧岩槻街道)からすぐに高度を上げる。 現在は広い道になっているが、昔は狭い道だったようだ。 13mほどの高低差を一気に登るので勾配はかなりきつい。 坂上で北方向に下る道が三日月坂である。

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北区の説明によると、岩槻街道から赤羽台へ上る坂道で、昔は農道で坂の途中に清水が湧いていた。 今は土地の人々の協力により切通しの道幅の広い道になっている、とある。 三日月坂は後に開かれた坂だが、この坂は赤羽台の尾根に急登する昔からの道。上り始めてすぐに左の切通しに上がる階段があるが、この地形が昔の中坂に近いのではないだろうか。

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2018年8月14日 (火)

真正寺坂(北区赤羽西)

赤羽駅西口と十条を結ぶ都道460号線は江戸時代の岩槻街道(日光御成道)。 赤羽駅南口から500mほど南西に下ったその岩槻街道沿いに交番があり、そこから真正寺坂に入る。 すぐに道路端の庚申塔が目に入る。 通常はお堂があったりするものだが、路肩にポンと無造作に立っている感じがいささか違和感がある。

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この庚申塔は1769年(明和年間)造立で塔の側面に「これよりいたはしみち」と彫られている。さすがに250年の年月が経過しているので、正面の青面金剛立像も台座の三猿も風化が進んでいるが、その年月を感じさせる素晴らしい石塔である。

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100mほど進むと上り坂の傾斜が急になる。 ここから赤羽台地へ上る。 この辺りは江戸時代の稲付村。 真正寺坂は岩槻街道と中山道の本蓮沼を結ぶ村の主要道だった。 坂の北側にある普門院は1307年(徳治年間)の開基の古刹。 坂は古道らしいくねりを見せながら上っていく。

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標柱は坂下の庚申塔の傍にある。

「岩槻街道沿いの赤羽西派出所から西へ登る坂です。坂の北側(赤羽西2-14-6付近)に普門院末の真正寺がありましたが、廃寺となり坂名だけが残りました。坂の登り口南側にある明和6年(1769)11月造立の庚申塔に「これよりいたはしみち」と刻まれていて、日光御成道(岩槻街道)と中山道を結ぶ道筋にあたっていたことがわかります。かつて稲付の人びとは縁起をかついで「しんしょう昇る」といって登ったそうです。」 と書かれている。

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坂上には古い蔵を利用したと思われる消防ポンプ小屋がある。 「稲付自治会災害対策部」と書かれている。  その下の大きなマンション(2014年築)は戦前戦後の地図を見ると工場になっている。 何の工場かはわからないが、この西側にはいくつもの軍施設があったのだが、戦後も残っていたところを見ると軍需工場ではなさそう。 昭和後期に別の施設(どこかの社員寮)になっていたような地図上の記載だが、気になって仕方がなかった。

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2018年8月13日 (月)

大坂(北区赤羽西)

赤羽駅から程近い坂道。 赤羽八幡神社方向へ進むと、日高屋がありその脇を入って赤羽台団地へ上る坂道が大坂である。 小さな坂なのに大坂と呼ばれるのはいささか不思議な感じがする。 とはいえ岩槻道から板橋街道へ抜ける江戸時代からの古道である。

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赤羽台には主に3つの谷がある。 南にあるのが稲付川、北にあるのが桐ヶ丘から流下する沢跡、そしてその間にあるのが赤羽自然観察公園から流下する沢筋で、明治時代まで赤羽駅西口の低地にあった溜池(亀ヶ池)に流れ込んでいた。 大坂の南側を並走する崖下の道がかつての沢の跡である。

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その沢筋の暗渠道を行くとやがて亀ヶ池弁財天に到達するが、それは弁天池の坂のところで説明したい。 大坂はその道を分けて赤羽台の台地へ上っていく。 坂下の分岐に植え込みに埋もれそうになりながら標柱が立っている。

「この坂は、赤羽駅西口から赤羽台団地へ登る坂で、古くから往来の多い坂です。昔は、赤羽から上の台に登り、旧板橋街道に抜ける坂でした。大坂の名は、その昔「小坂」と呼ばれた清瀧不動の石段に対するものとして付けられました。ここは、狸にまつわる民話が残っているところで、狸坂とも呼ばれます。また政右衛門坂と呼ぶ人もいます。」

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坂の途中に祠がある。脇に狐様がいて赤い鳥居だから稲荷だが、なぜこんなところに忽然と建っているのか不思議だった。 赤羽は戦前は軍施設が多く、赤羽台団地は被服庫だった。 辺りには引込線もあって現在は緑道になっている。 1962年に日本初の大規模団地として開発されたが、現在は老朽化が進み建て替えが進んでいる。

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2018年8月12日 (日)

野間坂(北区赤羽西)

日本の出版社の双璧は講談社と小学館と言われた。 講談社は音羽グループの中心、小学館は一ツ橋グループの中心。 現在は出版業界も激変し、縮小傾向にあるが、戦前戦後の講談社のブランドは相当なものだった。 その初代社長が野間清治。 そこから数十年野間家が講談社を支配した。

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右側の擁壁とフェンスに挟まれた坂道が野間坂である。 下の道の南側に稲付川が流れていた(現在暗渠)。 右側の擁壁は最近の工事で新しくなった。 壁の上は稲付公園である。 この崖の上は稲付川と別の沢が台地を削った突端になっている。 その向こう側は再び窪地になっていて、そこには鳳生寺がある。

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左側のフェンスは崖の高低差があるため、人が落下するのを是が非でも防止しようという意図が伝わってくる。 途中の稲付公園の入口に標柱があったのだが、訪問時は工事で養生されて見えなかった。

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標柱には、「この坂道の名前は、大正・昭和前期に活躍した出版事業家で、講談社の創立者でもある野間清治氏(1878-1938)の旧別邸前の坂だったところから由来しています。現在、野間氏の旧別邸跡地は北区立稲付公園となっており、区民の憩いの場として親しまれています。」とある。

北と東と南の眺望を備えた最高の邸宅立地だったはずである。

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2018年8月11日 (土)

水車の坂(北区赤羽西)

旧稲付川の崖線にある階段坂。 極めてよく似た階段坂が70mほど西に在り、どっちが本物の水車の坂か混乱する。 そもそも坂上の標柱に記されている住所がおかしいのである。

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「現在は石段(北区西が丘2-27-12地先)となっていますが、昔はこの下に水車小屋があり、近くの農家が利用していました。水車に荷を運んできた馬が坂の途中から落ちて死んだこともあり、お稲荷さんと馬頭尊とが並んで立っていました。現在は稲付川も暗渠となってしまい、水車もありませんが、石段は西が丘から十条銀座を通って十条駅へ向かう通勤の人でにぎわっています。」

とあるが、西が丘2-27はもうひとつの階段坂なのである(下の写真)。

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しかし明治時代の地図を見ると水車があったのは、先標柱がある方の階段坂の下であるから、ここは標柱の位置は正しく、表記が間違っているとすべきであろう。

水車の坂ももう一つの坂も途中でクランクになって下っている。 本当に瓜二つの坂なのである。

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この傾斜が階段でなく普通の坂だとしたら、これはもう登山道の領域である。馬でも途中で落ちることは十分にありそうだ。 しかし西が丘からこの谷を越えて十条へ通うといのはいささか疑問。 赤羽駅に出る方が距離も短いし、道も楽だからである。

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坂下にあったという水車は稲付川が二つの流れに分流している部分にあったもので、もう一つの流れは游鯉園の坂の下を流れていた。二つの流れの間には田んぼがあって、水車の坂と游鯉園の坂はその谷を横切って稲付村と上十条を結ぶ数少ない道だった。

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2018年8月10日 (金)

游鯉園の坂(北区十条仲原)

赤羽駅の南西一帯の地名でもとは上十条の一部が分離して十条仲原と呼ぶようになった。 十条台地の野原の中央という意味である。地形としては、小河川である稲付川(北耕地川)が削った谷の南側にあたる。 この稲付川の谷は台地を結構深くえぐっている。 その流域から南の十条仲原へ上るのが游鯉園の坂。

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またこの坂道の道筋は十条仲原3丁目と上十条5丁目の町境にもなっている。 谷の下と上を結ぶ道である。 江戸時代は谷を流れていた稲付川が南の十条村と来たの稲付村の村境だった。しかし江戸時代にはまだこの坂道はなかったようだ。 地図を読む限りでは明治になってから開かれた坂道である。

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坂の途中に標柱がある。

「十条仲原の台地から稲付川(現在は暗渠)に下る坂です。大正時代から戦前まで、坂下の川下にあった川魚料亭が遊鯉園で、この坂の名前は、その料亭の名に因んで付けられた俗称です。明治の頃、坂下に水車小屋があり、旧稲付村(ほぼ、現在の赤羽西、西が丘、赤羽南にあたります)の農家がよく利用していました。」 と書かれている。

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坂上一帯は関東大震災で焼け出された人々のための新興住宅地として開発された。 大正後期から昭和初期にきれいに耕地整地され同潤会が売り出した。 現在の表参道ヒルズや代官山が「元同潤会アパート」として有名だが、北区の赤羽西と十条仲原も大規模な同潤会の事業であった。 同潤会は関東大震災に寄せられた義援金を基に設立された団体(財団法人)で、大規模なディベロッパーで、その開発は東京横浜のあちこちにたくさんあった。

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2018年8月 9日 (木)

清水坂(北区中十条)

旧街道や古道の周りには小さな神社が多い。 北区王子から赤羽辺りを歩いていても、つい見落としてしまいがちな小さな神社や祠が沢山ある。 江戸時代はこの辺りも小さな集落に分かれていて、それぞれの集落の入口に厄や災いを入れない意味合いで神社を祀った。 現在各地で正月に行われるどんと焼(どんどん焼)もそこで前の年のお守りなどを焼く儀式を行った名残である。

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環七の交差点が馬坂の頂上、清水坂もそこから赤羽方面に下っていく。 坂道はかつての岩槻街道(日光御成道)である。 坂の途中に東京都設置の青銅の読めない説明板がある。

「十条の台地から稲付の低地に下る岩槻街道(日光御成道)の坂である。昔はけわしく長い坂道だったので十条の長坂などとも呼ばれた。切り通しの崖からはたえず清水が湧き出ていたので、清水坂の名が付けられた。現在は崖が削りとられて、その跡に児童遊園が設けられているが、そこは貝塚遺跡でもあった。」 と書かれている。

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清水が沢山湧出ていたので、それを利用して岩槻街道を行き交う旅人を狙いにお茶屋があったという。 ここは台地のハケになっていて、たくさんの湧水があった。 そのため江戸時代どころかずっと古い時代の貝塚などもある。 このハケの湧水を合わせた小川が、ここから王子に流下し、音無川に注いでいた。

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その貝塚(清水坂貝塚)があった場所は小高い丘になっていて、若宮八幡神社が鎮座している。 地元ではここを八幡山と呼ぶ。 享保年間(1716~1736)に鎌倉の鶴岡八幡宮から分祀したという。 そのために「若宮」と付いているようだ。

貝塚があったというのも、この場所は古代は波打ち際の海岸線だったためで、このエリアは「清水坂遺跡」といい、縄文時代から弥生時代にかけての遺構や出土品が多い。 この上野台地の崖線沿いは上野駅周辺まで途切れなく遺跡が出てくる場所で、古代から人々の営みが綿々と続いてきたエリアである。

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2018年8月 8日 (水)

馬坂(北区中十条)

環七通りが京浜東北線を越える跨線橋「平和橋」に向かって下るのが馬坂とされている。 現在は交通量の極めて多い大幹線で、平和橋の上には東北上越新幹線も走っている。 坂上の歩道橋脇に十条八雲神社がある。 小さな神社で見落としがちだが、創建は寛政年間の1796年。 北区史によると老杉の大木があったらしいが現存はしていない。

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環七通りの歩道に東京都設置の御影石の標柱が立っている。

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「昔は低地の村村から板橋宿へ通じる急坂で、坂下に荒沢不動の池があった。この道は姥ヶ橋地蔵尊の付近で王子へ通じる稲荷道と交差し、御成橋を経て板橋宿に至る。坂の名は豊島村馬場の「馬」に関係があるように思われるが、坂の地形が馬の背に似ていたからともいう。以前は農家の耕地への往復にも役立っていたが、付近の都市化と環状七号線の開設で役割も形状も著しく変化してしまった。旧道は平和橋手前を右に下っていた。」 とある。

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北区の説明でも環七通りを(新)馬坂、脇の階段の道を(旧)馬坂としているが、古い地図を見るとこの階段坂を下り線路を横切るルートが昔の道筋である。 急坂なので荷馬が立ち往生してしまうため馬坂と呼ばれるようになった。 かつては階段下の線路側の斜面に旧道の跡があったらしい。

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坂下にあったという荒沢不動の池は移設されていて、線路沿いを少し東十条駅方向に行くとある。 小さな祠だが、かつて村に疫病が流行った時、出羽の国羽黒山の荒沢不動を勧請して祀っていた。 環七脇にあったというが、昔は線路から東側にはたくさんの池が広がっていた。

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2018年8月 7日 (火)

石神井坂(北区中十条)

JR東十条駅の西口、改札を出て歩道橋を渡るとそのまま崖線上になる。 ここから西は埼京線十条駅まで繋がる商店街の一角。 昔ながらの賑わいを見せている。 この商店街の路地から線路際の道路へ下る坂道がある。 これが石神井坂である。

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坂上の料亭跡らしい家は、商店街側だけがレンガ張りになった不動産屋。 表と脇とではまったく顔の違う家屋で面白い。 裏手には崖線上へ上る階段がある。 崖線上の都道460号線は昔の岩槻街道。 こちら側が本来街であった。 一方現在は賑やかな線路の東側は関東大震災までは一面田んぼだったが、関東大震災以降住宅開発が急速に進んだエリアである。 石神井坂は明治時代からこの崖下の田んぼと岩槻街道を結ぶ道だった。

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道路付けだけを見ると線路わきに降りるのが目的の後からつけた道のようだが、この道が周辺では岩槻街道の次に古い道というのは意外である。

北区のHPではこの坂ではなく駅への階段を石神井坂としている。「旧石神井坂は、東十条駅北口の崖に沿って南から東に下る坂で、昔は台地から耕地への通路であった。新石神井坂は、東十条駅の北口通路として設けたもので、中央部は跨線橋であり、その両端に階段が設けられており、橋の中央部に北口がある。」

しかしこの設定には違和感がある。 もともと古い道は写真の道であり、駅の階段こそ後付けの道だからである。

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2018年8月 6日 (月)

御代の台の坂(北区滝野川)

国道17号線中山道の滝野川5丁目の変則五差路から北東に入る路地はかなり寂れた宮元商店会という商店街。 細路地の商店街を歩くと、店主の顔が見える。 戦後の高度成長期に育った私は、故郷に帰った時、昔あんなに賑わっていた商店街がまるでゴーストタウンのようになっているのを見ては時の流れを痛感する。 ここはそれに近いものがある。

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しばらくは高低差のない平坦な道である。 街灯に商店街のバナーがたくさん下がっているのは、残った店主たちが頑張っている証拠であろう。 こういう道は東京にはたくさんあるが、概ね古い道である。 ここも例に漏れず江戸時代からの古道である。

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標柱はないが、北区のHPにこんな説明がある。

「旧中山道から滝野川村への道で、『御府内(場末)往還其外沿革図書』に載っている旧道の一つ、両側は商店街となっている。坂の途中の八幡神社への参道の商店街を越えて坂を降り切った所に、寛文11年(1671)滝野川右平造立の、子育地蔵が満願御礼の奉納布に包まれて祀られている。」

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坂下付近の辻には交番(現在は御代乃台地域安全センターという施設だがお巡りさんが居た)があり、その向かいに古い商家がある。 軒先に、「江戸へ三里」と彫られた石碑が置かれている。 「滝野川船津」とあり、由緒ありそうな風情、滝野川中央自治会とあり八幡神社の祭礼の中心となるお宅のようだ。

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そこからさらに下ると、子育て地蔵尊がある。 これも歴史を感じさせる。「御代の台」という由来在りそうな地名については調べてみたがわからなかった。 別名ごぼう坂とも呼ばれていたらしい。交番のところに標柱があったが車がぶつかって壊れたまま取り外されたそうである。

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2018年8月 5日 (日)

狐塚の坂(北区滝野川)

JR板橋駅(埼京線)を出て東口の先には東西に旧中山道が走る。 駅ロータリー前には近藤勇の墓があり、パワースポットと言われるが、この手の都市伝説はほぼすべてフェイクである。 寺社仏閣や墓所はそういうものではない。

旧中山道に出る直前、道路が盛り上がっているが、これはかつての千川上水の跡。 駅前から中山道へ出たところは一里塚があったところで、痕跡はないが地図には平尾一里塚跡とある。 この少し東側から北へ伸びる路地がある。 昔は賑やかな商店街だったのだろう。 「きつね塚通り」という街灯が立っている。

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この狐塚通りは滝野川八幡まで続いている賑やかな道だったが、昭和になって新中山道(国道17号線)が開設されて途切れた。 途切れた先には現在滝野川消防署三軒家主張所があり、その左手を下るのが狐塚の坂である。

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「滝野川第六小学校の南から 南西へ登る坂です。坂名は、坂を登った東にある滝野川消防署三軒家出張所のところに狐塚という塚があったことによります。ここから南西向かい側の重吉稲荷境内にあった寛政10年(1798) 造立の石造廻国塔に、「これより たきの川べんてん・たきふとう・おふし・六阿弥陀・せんぢゅみち」という道標名が刻まれ、岩屋弁天・正受院への参詣や六阿弥陀詣での人びとが利用したことをしのばせます。」 と標柱には書かれている。

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坂を下っていくと視界が広がり小学校が見える。 ここは滝野川第六小学校だった。 平成29年(2017)に閉校になり、2018年9月には跡地利用の案が作成される予定。 小学校がなくなることは、国が滅亡することに繋がることだと思う。 効率を考えての校区改変のようだが、お金の問題ではない。 また地域崩壊が起こるのかとがっかりした。

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坂下にはその名の通りの坂下堂というお店がある。 こういう地形を由来にした名前はいい。 いっぽうの坂上の狐塚は現在はないが、消防署の東側に稲荷の祠がある。「滝野川伏見稲荷」とある。 昔の人は屋敷稲荷をはじめ、稲荷神社を大切にした。 そのため稲荷神社の柱数は最も多い。 稲荷に続くのが八幡である。 稲荷は19800柱とも32000柱とも言われているが、屋敷神を入れるとはるかに多いのではないかと思う。

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2018年8月 4日 (土)

谷津観音の坂(北区滝野川)

谷津観音の坂はごく短い直線の坂道で極めて緩やかな坂道で、石神井川にかかる観音橋から北にある真言宗寿徳寺までの短い坂である。 首都高速中央環状線の開通で様相が激変した西巣鴨から滝野川八幡神社前を通り石神井川の観音寺橋に至る道は江戸時代からの古道である。

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橋の北側に谷津大観音が鎮座している。 これは2008年に寿徳寺の境内外に設置されたいささか俗っぽい観音様。 さすがに拝観料などは取らないが、個人的にはなぜこんなものを作ったのが疑問に感じた。

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谷津観音の坂はここから50mほどの緩い坂。特に何も表現のしようがないが、寿徳寺の参道の一部だった道なので、歴史は古い。 寿徳寺の創建は鎌倉時代。 境内には新選組近藤勇の墓がある。 板橋あたりからこの滝野川では、近藤勇はある種ヒーローの様な印象がある。

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坂上から見ても向こう側が少しだけ低いな、という程度のものである。 江戸時代の切絵図にはこの道に大門道と書かれている。明治維新の新選組隊長の近藤勇は板橋刑場で斬首された。 そして首は京都の三条河原にさらされたが、胴体はここ寿徳寺に埋葬されていると伝えられる。

寿徳寺には谷津子育観音が安置されており、境内のイチョウはかつては遠くからも望めた大銀杏だったが、今は枯れて折れた後再び枝を芽吹かせている状態である。

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寿徳寺の入口の右側に近藤勇のレリーフなどがある。 左の地蔵脇には坂の標柱がある。 不思議な場所に建てたものである。

「この坂は、石神井川にかかる観音橋の北から寿徳寺へ登る坂です。坂名は、坂上にある寿徳寺に谷津観音の名で知られる観音像がまつられているからです。江戸時代には大門通ともよばれていました。谷津というのはこの当りの小字名です。今でも 谷津子育観音とも呼ばれる谷津観音へお参りに行く人々などに利用されています。」 とある。

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2018年8月 3日 (金)

三平坂(北区岸町)

江戸時代に王子村の名主畑野孫八が邸内に築いたのが始まりで、名主の滝の呼び名もそこが起源である。1850年頃には安藤広重に描かれているので、江戸の末期だろう。明治になって畑野家から垣内氏に所有が変わり、庭園として整備された。 昭和13年に精養軒が買取りレジャー施設にしたが空襲で焼失、現在の姿は1960年に東京都が公開した状態である。

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現在は水が湧いているわけではなく、地下水を汲み上げた水を落としている。 園内には4つの滝があるが、稼働しているのは男滝だけ。 他の3つの滝は水がないが、安藤広重の絵には男滝と女滝が見事な滝として描かれている。

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この名主の滝公園の北側を上るのが三平坂。 稲荷坂と同じくらいの傾斜の名坂である。 この道も江戸時代からある道で、江戸時代はこの辺りを「岸」と呼び、坂上を「岸ノ上」と呼んでいた。 またこの坂は江戸時代の王子村と十条村の村境でもあった。

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北区の情報では、「名主の滝公園の北端に沿って台地へ登る曲がりくねった坂道である。坂名の由来は、江戸時代の絵図にある三平村の名からとも、室町時代の古文書にある十条郷作人三平の名からともいわれている。農家の人が水田へ下る通路であったが、名主の滝への道としても利用されたようである。」とある。

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三平坂の坂下標高は6m、坂上は23mあるので、実際に歩くと長い坂だと感じる。 王子稲荷坂とほぼ同じくらいの傾斜だと感じた。 坂上まで名主の滝公園の盛土の擁壁と鉄格子が続いている。 この鉄格子が木製だったらもっと雰囲気が良いのにと思ったのだが。

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2018年8月 2日 (木)

王子稲荷坂(北区岸町)

北区にある王子駅から東十条駅までの台地側の崖線とその下の街区は「岸町」という。  ここに台地の上と下を結ぶ坂道がいくつもある。 かつて江戸湾が入り込んでいた時代、この辺りは海岸だったので、「岸村」という村が出来た。それが王子村となったが、昭和41年に岸町という名前として海岸線の名残りが復活した。 この京浜東北線沿いの崖線は海食崖である。

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岩槻街道(日光御成道)の王子大坂を上ると崖線上の台地の道になる。 そこから岸町へ落ちるように下っていく坂道が王子稲荷坂である。 坂上は王子第二小学校。 そこから急傾斜で下る。 反対側には中央工学校、田中角栄は中卒というフレコミだが、実は専門学校であるこの中央工学校を出ている。 総理大臣になる前はここの校長も務めていた。

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坂の途中に王子稲荷神社の横入口がある。 王子稲荷は江戸でも有名で、『名所江戸百景』には「王子装束ゑの木大晦日の狐火」というおどろおどろしい作品がよく知られている。現在の線路の向こう側にある王子装束稲荷神社の大榎の下に関八州の狐が集まり、王子稲荷へ列をなしてお参りに行くというものだ。

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坂の途中に標柱がある。

「この坂は、王子稲荷神社の南側に沿って東から西に登る坂で、神社名から名前がつけられています。また江戸時代には、この坂を登ると日光御成道があり、それを北へ少し進むとさらに北西に続く道がありました。この道は姥ヶ橋を経て、蓮沼村(現板橋区清水町)まで続き、そこで中山道につながっていました。この道は稲荷道と呼ばれ、中山道から来る王子稲荷神社への参詣者に利用されていました。」 とある。

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王子稲荷の参道は崖下にあり、立派な山門から入り階段を上って社殿に至る。関東稲荷総社の格式で江戸時代から庶民に親しまれた。 境内にある「狐の穴跡」は落語「王子の狐」の舞台にもなっている。

崖下のエリアは社域に占める幼稚園の割合が大きく、山門と幼稚園が絡む何とも不思議な景色である。

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2018年8月 1日 (水)

王子大坂(北区王子本町)

権現坂の坂下近くから北に延びる上り坂がある。 王子大坂である。 現在は普通の街の道なのだが、江戸時代は日光御成道だった道である。 日光御成道は飛鳥山の南側を巻いて石神井川に下ると、現在の王子駅北口辺りで大橋という橋で石神井川を渡り、Uターンするように権現坂下に至っていた。 その先には名主の滝方向から流れてきた沢があり、三本杉橋で沢を渡ると上りが始まる。 まっすぐに上るのが王子神社へ向かう権現坂。 右に折れると赤羽を経て日光へ繋がる日光御成道であった。

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写真の辺りの王子大坂の坂下付近は権現坂と同じく階段道だった。 それだけ急な坂道だったのであろう。 坂下には王子子育地蔵尊が奥まってある。 この子育地蔵は室町時代末期に建てられたもの。 空襲で傷んでしまったがまだきちんと祀られている。 土地の人はこの坂を地蔵坂とも呼んでいる。

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カーブが終わった辺りに標柱がある。

「飛鳥山に沿って東におりた岩槻街道は、石神井川を渡って左に曲がり、現在の森下通りを抜け、三本杉橋の石の親柱の位置から北西に台地を登る。この坂が王子大坂である。岩槻街道は江戸時代、徳川将軍の日光社参の道で日光御成道と呼ばれた。登り口に子育地蔵があったので地蔵坂とも呼ばれ、昔は縁日でにぎわった。また、坂の地形が、海鳥の善知鳥の嘴のようなので「うとう坂」の名もある。」

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江戸時代はこの坂道まで王子稲荷の社域だったようだ。 坂下の標高5mから、坂上の十条台地(標高23m)までを上る坂道なので長い。  日光御成道(岩槻街道)はほぼ現在の台地の上の都道455号線、460号線で赤羽まで道筋は変わっていない。 古い道なので交通量は多いが両側に民家が迫っている。

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